語句の断章(37)流れに棹さす

「流れに掉さす」のさお・・は「竿」ではなく「棹」。釣り竿や竿竹の「さお」ではなく、舟漕ぎに使う長い「さお」のほうである。その長い棹を「さす」というわけだが、これもまた「刺す」ではなく「差す」のほうだ。船頭が棹を水の中に差し入れ川底を突いて舟を進める様子を表している。

数年置きに実施される「国語に関する世論調査」によると、「流れに掉さす」という成句はここ20年ずっと、誤用が正用を大きく上回っており、また、流れに逆らうという意味に解する人が多い。確かに、何かに向かって棹を差し掛けると言えば、その何かの邪魔をしているような印象を受けてしまいそうだ。

しかし、流れを自然な動き、ひいては好ましい流行やトレンドとすれば、流れに乗っておくほうが無難であり都合がいい。人間社会の常として、自然の摂理には、逆らうよりも、従っておくほうがうまく事が運ぶ可能性が高い。流れに掉さすとは機運に乗じて身を任せるという意味であり、逆らうどころか、逆らわないという姿勢にほかならない。

ところが、そんな姿勢には当然一長一短がある。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

智と情と意地にはプラス面があるが、夏目漱石は『草枕』の冒頭で智と情と意地のマイナス面を並べている。「情に棹さす」という用例も「流れに掉さす」の意味に似ている。他人の思いや感情に寄り添ってばかりいると、自分が思いもしないほうへと流されてしまう。情に掉さすとは「情にほだされる」。流れに掉ばかりさしていると束縛されて自由を失いかねないのである。

人生の常として、「流れに棹さすのかささないのか、どっちなんだ!?」と、つねに選択を迫られているような気がする。

コーヒーを巡る感覚的断章

☕ コーヒーをテーマにした本を書棚の一角に並べてある。これまでかなり読んでいるが、コーヒーは「読む」よりも「飲む」ほうが断然味わい深い。では、本など読む必要がないのかと言うと、そうではない。コーヒーの知識はコーヒーのたしなみの邪魔にならないどころか、大いにプラスになる。知識がなければただ飲むだけだが、知識があればコーヒーがわかったような気になれる。

☕ 人は味覚や嗅覚や視覚などの五感を駆使してコーヒーを味わう。それぞれのコーヒーには名前が付いている。キリマンジャロ、グアテマラ、マンダリン、モカシダモ、イルガチェフェ、ブラジル……コーヒーの名前も、知らないよりは知っておくほうがいい。

☕ コク、すっきり感、酸味、苦味などの度合と組み合わせは、豆のブランドごとに微妙に異なる。3種類くらいの飲み比べなら、言い当てるのはさほど難しくない。名前と味が照合できるようになれば名指しで注文しやすくなる。「語感」が五感の足りないところを補ってくれる。

☕ 普通は「コーヒー」と発音するが、{コーヒー、coffee、珈琲}のいずれで表記するかによって文中での雰囲気は変わる。学校に上がる前の頃、父に連れられて場末の喫茶店によく行った。客が紫煙くゆらせながらカップを持ち上げ、琥珀色の飲み物を啜っていた。あの濃ゆくて苦そうな飲み物は「珈琲」という文字にふさわしい。

☕ 「さて、コーヒーでも飲むか」とか「コーヒーでもいかが?」などと言ってはいけない。「でも」は余計だ。いや、コーヒーに失礼だ。いやいや、「○○でも」はすべての○○に対して無礼な物言いなのである。

☕ ホットコーヒーを注文すると、小さなチョコレートやクッキーを付けてくれることがある。チョコレートもクッキーもいいが、コーヒーはナッツとの相性がとてもいい。昭和30年前後の喫茶店ではピーナツを出してくれたらしい(今でもそんな喫茶店があると聞く)。ピーナツもいいが、最近は無塩のナッツセットを合わせている。アーモンド、クルミ、カシューナッツ、マカダミアナッツの4種入り。食感と食味の違うナッツでコーヒーの味も微妙に変わる。

☕ コーヒーには飲む前の〈香り〉があり、飲んでいる時の〈テイスト〉があり、飲み終わった後の〈アフターテイスト〉がある。これら三拍子が揃って至福の時間になる。

☕ 「コーヒーとは何か?」などと聞かれることはないだろうが、もし聞かれて、しかも「一言で」と条件が付いたら、「コーヒーとは時間である」と答えるつもりだ。さて、今日二杯目の時間を飲むことにする。

回文、その愉快と苦悶

回文のテーマで出版されている本は少ないし、周辺から話が出て盛り上がるなんてこともほとんどない。本ブログでは2014年に『眠れなくなる回文創作』と題して書いている。

昨日のことである。道すがら大手古本チェーン店が入るビル前を通りかかった。別の店は時々利用するが、そこは初めてだった。いつもの店に比べるとかなり広い。広い店は苦手だ。入るには入ったが長居をするつもりはなく、入口に近い棚あたりの背表紙を適当に眺め始めた。そして、いきなり見つけてしまったのである。

おお、ぼくが回文を始めるきっかけになった土屋耕一、あの「軽い機敏な仔猫何匹いるか(かるいきびんなこねこなんびきいるか)」の作者ではないか。函入り2冊セットの新品同様、1冊が『回文の愉しみ』でイラストが和田誠なら手に入れるしかない。


おびただしい作品が紹介されていて、喜び勇んで読み始めたのはいいが、読む愉快の後にほぼ確実に創作してみたくなる衝動に駆られる。そして、間違いなく、取り掛かかった直後の愉快はやがて苦悶と化し、脳裏に文字群のストレスを抱え込んで半ノイローゼ状態に陥るのである。

それでもなお、手に入れた本の冒頭に出てくる作品、「力士手で塩なめなおし出て仕切り(りきしてでしおなめなおしでてしきり)」を見たりすると、またしても創作意欲がふつふつと湧いてくるのだ。土屋はこの回文を色紙に書いて掲げていたのだが、この一文に無反応な友人たちもこれが逆から読んでも同じ文になるのを知って驚嘆する。

ところで、回文は通常の文案や文章のようにスムーズに出来上がることはめったにない。そのまま読んでも逆から読んでも(または、上から読んでも下から読んでも)同じ音にしようとすれば、不自然にならざるをえない。しかし、それを不自然と呼んではいけない。回文には回文独自の文法と語法があり、意表を突く表現を生み出してくれる。

慣れてくると、20音前後の作品はできやすく、工夫の過程も愉しく感じられる(下記、筆者の作品)。

🔄 酸か燐か薬か、リスク管理監査。(さんかりんかくすりか りすくかんりかんさ)
🔄 頼んでも金積む常がモテんのだ。(たのんでもかねつむつねがもてんのだ)
(㊟清音、濁音、半濁音、拗音、直音、現代仮名遣いと旧仮名遣いは互換性ありと見なす)

わずか510音増えて30音前後になるだけで、数倍の時間がかかるようになる。できたと思って逆に読むと不完全作だとわかり愕然とする。脳がへとへとになる。それでも途中でギブアップできず朦朧としながらも続けてしまう。そんなふうにして何とかできた作品。

🔄 居並ばドレミ、師が讃美歌うたう。花瓶探し見れど薔薇ない。(いならばどれみ しがさんびかうたう かびんさがしみれどばらない)
🔄 村からピンチの使い、どけた竹刀でいなしたけど、威喝のチンピラ絡む。(むらからぴんちのつかい どけたしないでいなしたけど いかつのちんぴらからむ)

たった1音で不完全作になり、その修正に何日もかかったりする。諦めて一から作り直すこともあった。根を詰めた50音以上の自作がいくつかあるが、思い出すだけで疲れが出そうなので、掲載はいずれまた。

ユネスコ無形文化遺産を食す

地元のオフィス街の食事処では洋食と中華とラーメンが優勢。相変わらず人気のトンカツ定食やハンバーグ定食が和食か洋食か微妙だが、味噌汁が付くので和食っぽい。しかし、申し訳程度に添えられたキャベツとポテトサラダを見ると洋食組。他に、親子丼とミニうどんの定食や豚骨ラーメンとミニ炒飯のセットなども注文が多い。たまに無性に食べたくなるが、決してバランスの取れた食事だとは思っていない。

京御膳

近くに平日の昼限定の京御膳を出してくれる店がある。お値段千円で多彩な食材が使われている。月に一度は通う。完食しても腹八分目で抑えられる。近くの別の和食の店は鯛めし御膳に特化している。鯛めしが食べ放題なので過食に要注意だが、これもお値段千円である。

鯛めし御膳

平成2512月、日本人の伝統的な食文化として和食が「ユネスコ無形文化遺産」に登録された。京御膳と鯛めし御膳はどちらも堂々たるユネスコ文化遺産ということになる。食べ終われば目の前から消えてなくなるが、能や文楽、陶芸や工芸の技術に匹敵する「世界のお宝」なのである。

🥢 和食は四季を反映する。南北に長い地形ゆえ、わが国には多様な地域特性があり、新鮮な旬の山海の幸に恵まれている。食材ごとに持ち味を引き出したり引き立てたりする技が育まれてきた。

🥢 主食の米とおかず(味噌汁、魚、野菜、山菜など)の食事構成のバランスが取れている。和食は動物性の油脂を極力控える健康栄養食であり、長寿に寄与していると考えられる。

🥢 口に入れることのない葉っぱや花を、ビジュアル的な印象のために料理にあしらう。味覚だけで満足せず、料理を盛り付ける食器、料理をいただく部屋にまでその時々の季節の自然を演出する。

🥢 どこの家でも日常的に旬の料理をいただくと同時に、正月から始まり晦日に至るまで一年を通じて歳時と関わる献立が工夫されることが多い。また、家族の集まる場や地域では固有の行事食が供される。

上記の4項目がおおよその申請内容である。和食ないしは和食文化の良いところどりをしていて、今の「洋風化した和食」のイメージとはやや隔たっている。どちらかと言うと、伝統的な高級料亭の食材、料理、あしらい、作法の趣が強い。とは言え、素直に誇らしく食卓について和食を味わうのも悪くない。和食にリスペクトを込めたいのなら「ユネスコいただきます」で始め「ユネスコご馳走さまでした」で終わるルーチンがいいかもしれない。

おすすめ vs イチオシ

20221025日、高知での実話。


高知に入る数日前に知人からメールが入った。「私がお仕事のアテンドをすることになりました。前日の夜に食事をご一緒しませんか。ご希望のお料理はありますか。もしなければ、地元の食材を生かしたフレンチなどはいかが?」というお尋ね。とてもよさそうな提案なのでお受けした。午後6時半の予約。ワインを飲むことになるはずなので、飲む前に飲むという例のドリンクを半時間前に飲んでおいた。

カウンター45席、4人掛けテーブル2卓の小ぢんまりとした瀟洒な店。7時頃までにぼくたちを含めて客は6人に。わずか6人で満員御礼という感じになった。白の発泡酒で乾杯。前菜二品は、シラスをのせたカナッペと、キーウィのジュレで食べる生牡蠣。魚料理は舞茸と梨を添えた鱧の天ぷら。メインの肉料理は四万十豚のソテーでジロール茸と柿が添えてある。赤ワインを合わせた。デザートはモンブラン、紅玉のスライスが山に隠れていた。

ここは中年のご夫婦で経営するビストロだ。シェフは寡黙に仕事をこなし、奥様が料理をサーブする。最後にコーヒーが運ばれてきて、少し会話をした。
「今日の料理だと日本酒でも合いそうですね」
「そうなんですが、めったに注文がないのですよ」
「置いているのはやっぱり土佐のお酒ですか」
「ええ、文佳人です。おすすめ・・・・します」
コーヒーを飲んだ後に日本酒は飲めない。どんな酒でどこに売っているかというような話になり、歩いて5分程の酒店を紹介してくれた。時刻は8時を回っていた。8時半閉店なので「今からうちのお客様が行かれます」と電話をしてくれた。

店を出て右へ、すぐに左へ、橋を渡ってすぐ左へ。50メートルほど先に灯りが見えた。酒店に入るとブルースが流れている。酒屋の雰囲気ではない。酒もおびただしく並んでいるが、レコードもぎっしりと棚に入っている。「かくかくしかじか」と来た理由を話し、おすすめ・・・・の文佳人を指名した。

「今のイチオシ・・・・は安芸虎のひやおろしです」と主人。ひやおろしは何度も見聞きしているが、飲んだことはない。ひやおろしとは何か、イチオシのこの酒はどんな味わいなのかなど、話せば長い解説と蘊蓄を、ご主人はあらかじめ一枚にまとめておられる。その紙をぼくに手渡しながら、「ぜひ飲んでみてください。ええ、文佳人もいいんですよ。いいですけどね、今はこちらがイチオシ・・・・です」

「じゃあ、そのひやおろしと文佳人を一本ずつ。飛行機なので720ml瓶で」と言えば、ご主人はもう一度言った。「文佳人もおいしいですけどね、ひやおろしはこの時期のイチオシ・・・・です」。強く二度繰り返されたから主人の推奨に応じた。「わかりました、ひやおろし2本ください」。

「イチオシ」が「おすすめ」を押し出した。「冷やして飲む」と聞いたので、昨日の朝に冷蔵庫に1本入れておいた。そして昨夜、飲んでみたのである。形容詞を駆使して味を表現しても伝わらないので、「過去に経験したことのない舌ざわりのまろやかさ」とだけ評しておく。なお、ご主人のペーパーには味の蘊蓄が書かれているはずだが、まだ読んでいない。

オーギュスト・ロダンの見た空

「ロダン」とだけ言うのは松本や杉山と呼ぶようなもので、正確には人物が特定できていない。あの『考える人』の制作者なら本来は「フランソワ・オーギュスト・ルネ・ロダン」と言うべきだ。とは言え、それが筋だと心得た上で、やはりフルネームは面倒なので、誰もが知っている有名人の場合は苗字だけで許してもらうことになる。

もし許されなかったら、ピカソのことは「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンディシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ」といちいち言い、書かねばならない。

ロダンは自分が見た空について、ある日次のように書いている。

森を横切って長い散歩をした時、私は空を発見した。それまでは、私は毎日この空を見ていると思っていた。だが、ある日、はじめてそれを見たのだった。

この話に触発されて思うところを何度か書いた。いつも見ていたはずの空を、実は見ていなかったと反省気味に述懐するのはなかなかできることではない。こんな述懐をするとなれば、空だけでは済まず、あらゆるものを見ていないし感じてもいないと吐露することになりかねない。ある日、はじめてコーヒーを飲んだ、ある日はじめて君の顔を見た、等々。

ロダンの旧邸宅は今では美術館になっていて、3万平方メートルの広大な庭園の中にある。東京ドームの敷地とほぼ同じ広さだ。パリに滞在した201111月、庭園内の街路や森のような佇まいの中をくまなく歩いてみた。敷地内には美術の教科書に出てくる『考える人』や『地獄の門』などの本物の彫刻作品が、囲いも覆いもなく随所に置かれている。

さて、ロダンが見た空は何色だったのだろうか。ぼくらはほとんど当たり前のように青色だと決めつけてしまうが、彼は「空」と「この空」としか言っていない。時刻も天気もわからない。晴天の昼間か、雨の日か、どんよりとした灰色の雲におおわれていたか、日暮れ時の夕日に染まっていたのか……手掛かりはない。

空とだけ言って、付帯状況の多くを語らなかった。その空が青いという証拠はない。仮に青い空だとしても青さ加減はわからない。けれども、空としか言っていないからこそ、その空が青空であってほしいのだ。赤い空だと早とちりしてはいけない。その場合は夕方の空と言うはずである。ロダンが発見し、毎日見ていると思っていた空は青空でなくてはならないと思うのである。

無個性な風見鶏トーク

昨日、橋を渡って対岸の遊歩道へ行ってみた。風がかなり強く、後でチェックしたら風速6メートルだった。せわしなく動くビルの上の風向計。別名「風見鶏かざみどり」。風向きに応じて向きを変える。転じて「相手に応じて自らのスタンスを変える者」。今はすっかり縁が切れたが、旧知の仲だったX氏を思い出した(なお、X氏は中曽根元首相ではない)。

相手によって話しぶりや話す内容が変わる「風見鶏トーク」。話しぶりをそのつど変えているうちに、キャラまで七化ななばけしてしまう。首相へと上り詰めたらアイデンティティになるが、一般人ではそうはいかない。一般人のX氏は話も考えもいい加減になった。集団の中で没個性的な存在になった。八方美人よろしく誰にでも調子を合わせて喋っているうちに、誰にも焦点を合わせることができなくなり、やがて黙りこくるようになった。

「風の方向を知る? いいことではないか」と考え、風見鶏を「臨機応変」の意に解するむきがある。そうではない。風見鶏はむしろ「日和見ひよりみ」に近い。『新明解』で比較した。

【風見鶏】その時どきの情勢に応じて自分にとって有利な側につこうとする人の意。
【日和見】どちらが優勢になるか情勢をうかがって、自分がどちらにつくかすぐには決めないこと。
【臨機応変】あらかじめ決めた方針に囚われず、その場合場合の状況に応じた対処のしかたをすること。

風見鶏と日和見のニュアンスはよく似ていて、「無責任な自分視点」が内蔵されている。しかも、行き当たりばったりでポリシーが窺えない。たとえば、ある時ある場所でA氏のa〉という主張に賛同し、別の時別の場所で〈b〉を主張するB氏にも取り入る。しかし、A氏とB氏が同席する場では右往左往するか沈黙するしかない。他方、臨機応変は、人への対応ではなく、局面への対応である。新しい局面を迎えて、自分視点や型にとらわれずに応用問題を解くことである。

X氏およびその仲間は臨機応変ができないから、風見鶏になり日和見になって生き残ろうとする。ステレオタイプな解法を持ち出してはその場の空気に合わせて意思決定に関わっている「振り」をするのだ。風見鶏トークは中身のない社交辞令だけで終わらない。人格まで空っぽにしてしまう。

X氏はどこにでもいる。そして、大義名分なく利を得ようとしたりずるく振舞おうとしたりする時、わたしたち一人ひとりの中にも現れることがある。気をつけよう。

枝葉末節の私事や私感

🍃 オフィスで育てていたエピスシアカジョウを枯らせてしまった。鉢植えの常としての寿命のせいか置き場所のせいで枯れたにせよ、監督義務者ないしは保護者の遺棄にも似た責任の重さを感じている。
葉縁ようえんが褐緑色で葉が銀緑色、そこに朱に近い色の花が咲く。「橙赤色とうせきしょく」という色らしい。鮮やかな赤が気に入っていた。RGBのカラーモデルはR:234/G:85/B:4〉。

🍃 「ステイホーム」と「閉居へいきょ」。2020年春の新型コロナ感染拡大に伴い、政府や有名人が「おうちにいよう」と呼びかけたのが前者。家に閉じこもって引きこもるのが後者。どっちでも同じ?  ではない。ステイホームが前向きなのに対して、閉居はやむなくそうしている感じがする。
この2年半、右へならって「なるべく在宅しよう」などとは一度も思わなかった。遠出はしないが、近場には積極的に出てマイペースで用事をし、街歩きと食事と買物を楽しんで今に至る。わが街は歩きどころと見どころが多く、十数年住んでいてもなおいろいろな新しい体験ができる。家にいてできることや発見することは限られている。

🍃 再来週、3カ月ぶりの出張が入っている。「紙面編集」というテーマで7時間の研修をする。そんな手ほどきをする身でありながら、実は「独習のすゝめ派」なのだ。誰かから学ぶよりも自分で調べたり工夫したりして独習するほうがよく身につくと思っている。
何が何でも他人から教わりたい、仲間と交流しながら学びたいと欲するなら、お手本を見聞してセンスを高めるのがいい。知識を学ぶのではなく、センスを盗むのである。独習はすぐれた効果が上がるが、一向に人気は上がらない。寂しがり屋の学び手が多く、身につけるよりも仲間と一緒に学びたいからだろう。

🍃 仕事ができる人、仕事ができることをアピールする人、仕事をしない人、仕事をしているふりをする人、仕事ができない人、仕事ができないのを自覚していない人……。いろんな仕事人がいるが、約束と納期を守ることが仕事の基本中の基本である。
「彼は仕事ができるが、時々納期が遅れるのが残念」などという声を聞くが、時々納期が遅れることを仕事ができないと言うのである。

『秋フルーツをつまみにハイボール』

今回は『秋フルーツをつまみにハイボール』という書名の本を書評する。言うまでもなく、秋フルーツをつまみにハイボールを呑んだことについて書かれた本である。最近、極端に盛ったエピソードやフェークまがいの話の本が目立つなか、本書はマジメであり、まっとうなことしか書かれていない。

編著は「日果研」。日本果物研究会を略したような名称になっているが、あとがきには「著者は私一人」と記されている(「私」が誰だかは明記されていない。姓が「にっか」、名が「けん」かもしれない)。

ある日、著者は昼遅くに焼肉の食べ放題を貪ったという。いくばくかの罪の意識を覚えて食べ終わったのが午後2時半だった。その日は午後8時を過ぎても腹が空かなかったそうである。しかし、何も口に入れないで寝床に就くと、真夜中に目を覚まして夜食することになりかねない。以下、次の文章が続く。

前日の青空市場での買物を思い出し、フルーツなら少しはいけそうだと考え、一口サイズにカットした。林檎、柿、無花果、真桑瓜の4種をつまみにして、白ワインにするかウイスキーにするか迷い、口の中での味のマリアージュを想像した結果、ウイスキーに軍配を上げた。ロックでもなく、ストレートでもなく、水割りでもなく、直感でハイボールを選んだ。

フルーツという総称をカタカナにしながら、個々の果物を漢字表記しているから妙味のある雰囲気が出ている。マクワウリを漢字で見るのは初めてかもしれない。

書評する者は本だけ読めばいい。書かれていることを実行する義務はない。たとえば世界遺産巡りのエッセイ本の著者のマネなどしたくてもできないのだ。しかし、ウイスキーのハイボールなら作れる。リンゴとカキとイチジクとマクワウリをすべて揃えるのは少々面倒だが、スーパーと果物店を何軒か回れば何とかなるだろう。首尾よく手に入れればカットして小皿に盛るのに苦労はない。

そして、実際に試してみたのである。著者はフルーツにウイスキーのロックもストレートも水割りも合わせていないようだが、すべて試してみた。著者のハイボールという直感は見事だった。フルーツにはこれしかないと思わざるをえないほど、運命的な相性の良さを認めざるをえなかった。

まっとうなことしか書かれていないし感動的な話も少ないが、読むうちに行動を促され、行動ゆえに書評が出来上がった。言うまでもなく、読後はほろ酔い気分になっていた。

㊟ 通常は、まず本があって、それを読む人がいて、その人が書評をしたためる。しかし、書評と同時に空想の書物が成り立つこともあるのではないか。そんな好奇心から試みたのが本編である。一読をおすすめしたいし手元にあればお貸ししたいが、『秋フルーツをつまみにハイボール』という書名の本は実在しない。仮にすでに書かれていたとしたら単なる偶然にすぎないが、一読価値がありそうだ。

抜き書き録〈2022/10号〉

「ことば遊び」と言うのは簡単だが、大いに遊んで楽しむには豊富な語彙と教養がいる。織田正吉著『日本のユーモア1 詩歌篇』にはハイブローな笑いとユーモアがぎっしり詰まっている。頭を使わされるので読後にどっと疲れが出る。同じ句を繰り返し使って詠う「畳句」などは単純でわかりやすい。偶然にして「じょうく」と読むのもおもしろい。

月々に月見る月はおほけれど月見る月はこの月の月 
(『夏山雑談なつやまぞうだん』より)

まもなく十三夜だから月を愛でながら呪文のように唱えてみるのはどうだろうか。


散る花は音なしの滝と言ひつべし   昌意しょうい
「花」を「滝」に見立てたものである、と説明するのも野暮だろう。

(尼ヶ崎彬『日本のレトリック』)

「見立てる」を辞書で引くと、最初に「いい悪いの判断をすること」みたいな語釈が書かれている。それなら、わざわざ見立てるなどと言わずに、判断や評価でいいのではないか。続く語釈は「何かを別の何かであるかのように扱うこと」。こちらのほうが見立て本来の使い方に近いと思われる。見立ては類比アナロジーに近いレトリックである。花と滝に類比関係を見出すのは見立てである。著者は次のように続ける。

「見立て」とは、常識的な文法や連想関係からは結びつかぬものを、類似の発見によって(ないしは類似の設定によって)結びつけ、それによって主題となっているものに新たな《物の見方》を適用し、新しい意味を(または忘れられていた意味を)読者に認識させるものである(……)


高橋輝次編『書斎の宇宙』には「文学者の愛した机と文具たち」という副題が付いている。収録されている石川欣一の「原稿用紙その他」からの一節。

原稿用紙に凝る人は随分多い。自分で意匠して刷らせている人が沢山あるが、僕の知っている豪華版は仏文学の鈴木信太郎君だ。何とも筆舌を以ては表現出来ぬほど立派なもので、我々の雑文を書くのには勿体ないが、コツコツと、マラルメなどの訳をうめて行くには、まさにふさわしい原稿用紙だろう。

プロの著述業ではないが、趣味でオリジナルの原稿用紙を印刷してもらっていた知人がいた。ぼくは大学ノートを使っていた。二十代前半の頃、書くのが好きという理由だけで何度か文芸誌に応募したことがある。文房具店でよく見かける原稿用紙では見映えが悪いと考え、紀伊國屋書店で売られていたちょっと高級な原稿用紙(四百字詰め用紙100枚で1冊)5冊ほど買った。あれから40数余年、まだ2冊が残っている。今も手元に残る原稿用紙を眺めていると、勘違いばかりしていた時代を思い出す。