付箋を貼るマメさ

中高生の頃に付箋を使った記憶はない。その頃までに付箋は存在していたはずである。しかし、縁がなかった。付箋ということばの前にポストイットを知った。社会人になってからの話。使い始めの頃はポストイットと呼んでいたが、今では付箋と言う。

糊付きの付箋しか知らないが、おそらく昔はしおりと同じ使い方をしていたに違いない。読書家や学者らは自前で小さな紙片を作り、本に挟む際にテープで貼ったり糊付けしたりして使ったようだ。裏に糊を付けたことで近年の付箋はスグレモノになった。しかし、貼ったのはいいが、剥がせないと困る。ポストイットが画期的だったのはさっと貼って無理なく剥がせるという点。この脱着可能なゆるい糊が失敗の産物だったというのは有名な話だ。

再読するために今読んでいる本の箇所をマークするには二つの方法がある。傍線を引くことと付箋を貼ることである。前者の問題は、本の外から即座に傍線箇所を見つけにくいこと。かなりページを繰らなくてはいけない。本も汚れる。付箋なら本は汚れないが、一つ問題がある。ページのどの行を参照したいのか一目でわからないのだ。結局、傍線と併用することになる。


本を読んでいると何かに気づく。ハッとするくだりがあれば傍線を引く。文章が一行か二行なら傍線でいい。しかし、マークしたい箇所が数行に及ぶ時は付箋が便利である。自分が書いた文章を読み直していて気づき、書き足すこともある。だから、ぼくは自分のノートにも付箋を貼っている。但し、付箋の貼り過ぎには注意。目印効果がなくなるからだ。

一年前にしたためたノートの雑文。書き直してブログに転載しようと思った。読み直しながらいろいろ考えてまとまりかけた時、一本の電話が鳴った。ちなみに、ぼくが使っているノートはバイブルサイズのシステム手帳。リフィルにびっしりと書き込んでいる。随時別のバインダーに移し替えるが、常時500枚は綴じてある。

別に閉じることなく電話に応じればよかったのに、反射的に閉じてしまった。電話を切った後、そのページに戻ろうとした。だいたいこのあたりと見当をつけて前後のページの表裏を丹念に目配りするも、見つからない。ほぼ全ページを丁寧に一枚ずつ捲ってやっと見つけたという次第。ロスした時間は約10分。

読書中も参照中も付箋貼りはマメでなければならない。ところが、反省してマメに貼ろうとすれば、今度は付箋が手元になかったりする。食事処なら箸袋やナプキンを挟む。挟んだその本を鞄に入れて帰宅。本を取り出したら箸袋やナプキンが滑り落ちてページを見失う。つくづくポストイットのありがたさを実感する瞬間である。

ヒントの仕入れ先

人は人から多くを学ぶ。他人の知識や経験を学ぶ。学びにはプラスもマイナスもあるが、マイナスだからと言って拒否することはなく、マイナスも逆説のヒントになってくれる。

人は人以外に、本からも学ぶ。生身の人間ではないが、本もある意味で人である。さらに、人は自分自身の過去からも学ぶし、自然からも学ぶ。学ぶという言い方がありきたりなら、ヒントを得るとかインスピレーションを受けると言い換えてもいい。

人は人からヒントや刺激を授けられて日々生きている。自分のことを考えてみればわかるが、既得の知識や経験が歳を取るにつれて支配的になる。やがて偏った考え方が身について型になる。このことは他人にも言えることだ。

波長が合うという理由だけで交流相手を決めてしまうと、考え方の偏った者どうしのグルーピングが生まれる。ヒントや刺激を受けるはずのお互いの関係がルーズになり、八方ふさがり状態の集団と化す。しかも、そのことになかなか気づかない。


人的交流にともなうマンネリズムは避けられない。そこで本の出番である。本を人に見立てて付き合うのである。一対一でもいいし、一対複数でもいい。前者が熟読であり、後者が併読。人と同様にいずれの読み方にも長短があるが、マンネリズムに陥りそうになれば本を閉じてしまえばいい。文句を言われることはない。

自然からの学びが少ないことを反省している。自然についての本からはヒントを多々仕入れるが、自然と直接触れる機会がいちじるしく少ない。「自然が書いた偉大な書物を学ぶことからすべてが生まれる。人間が造ったものは、すでに自然の書物の中に書かれている」というアントニ・ガウディの至言を肝に銘じている。

先に書いたように、ぼくたちは自分の過去(ひいては何がしかの記録)からも学ぶのだが、ヒントと言った瞬間、仕入先を外に置いている。思い通りにならない外部だから、ヒントを得たりインスピレーションを湧かせることに急ぎすぎてはいけない。何事も熟すのを待つ忍耐が必要なのである。

ストレスの取り扱い

トレスが溜まった……疲れた……そうぼやいては栄養ドリンクやマッサージのお世話になる……周囲にそんな知り合いが何人かいるが、ストレスがどんなものかよくわかっていないから、ほとんど効果がない。ストレスにあらがうかストレスをバネにするかはさておき、他力でストレスを軽減しようとしているかぎり、自力で抵抗する力も順応する力も身につかない。

グリーンセンターで売り捌かれていたペペロミア。処分品で80円。不憫に思い買って帰り、すりガラス越しの西向きの出窓で育てていたら、5倍ほどの大きさまで生長し、枝分かれして葉もずいぶんつけるようになっていた。

床に落下して、左半分が欠損したペペロミア。

先日、なまくらに左手の手のひらに鉢を移した瞬間、滑り落ちて部屋の床に落下させてしまった。運悪く、鉢が逆さまになって落ちたので、ペペロミアは34割がた茎が折れ葉がちぎれた。土の半分は床に飛び散った。丁寧に拾い上げ、土を足して養生し、力を失った茎には支柱をあてがった。

元気な時の半分程度のボリュームになってしまったが、一番明るい場所に置いて水をやり、再生を願って約一週間。するとどうだろう、光の射す方向に茎と葉を向け始め、気を漲らせようとする兆しが感じられた。ストレスがバネになる様子を目の当たりにした思いである。


ストレスを解消・発散するものだととらえると、抗うという姿勢になり、それだけで余計に負担を感じてしまうことがある。現代人のほとんどがストレスを感じる時代だ。仕事のストレス、人間関係のストレス、家計のストレスが3大ストレスだと言われる。たいていストレスと闘おうとする。しかし、闘って消えたためしはない。

ペペロミアを見て、ストレスと闘ってはいけない、ストレスに順応するか、いっそのことストレスを力に変えるのがいいと確信した。日常、ストレスゆえにできていることが多々ある。たとえば明日までにやらねばならないというプレッシャーはストレスだが、それが仕事の後押しをしてくれる。根性の話などではない。人間の生物的な反応がそうさせるのだ。

今朝のニュースでノーベル賞授賞式後の晩餐会の様子が伝えられていた。ほとんどの出席者はセレブだろう。その人たちに割り当てられたテーブル上で許される動きの幅はなんと60センチ。隣席の人の腕や肘と接するような状態で、大柄の人もみんな脇を絞ってナイフとフォークを操っている。あの場の緊張に加えて、かなりのストレスを感じているはず。しかし、それが前菜、主菜、デザート、ワインの味を引き立てている可能性がある。

パリのシャルティエという老舗の大衆食堂でそれに近い経験をしたことがある。並の値段の並の前菜とステーキをすこぶるおいしく食べたのが印象に残っている。ストレスは逆縁を順縁に変える力を授けてくれる。決して抗ったり闘ったり、弱音を吐いたりしてはいけないのである。

写真とキャプション

編集が行き届いた情報誌では、掲載写真に必ず一行か二行の説明文が付いている。この説明文のことを「キャプション」という。キャプションのない写真が並ぶ誌面は落ち着かない。「ここスペースが空いたね。写真でも入れておくか」とつぶやきながら、本文とあまり関係なさそうな写真を適当に置いたに違いない。

『情報誌の編集』という研修では、写真とキャプションがワンセットであることを強調する。写真あっての本文記事ではない。記事を書いて、しかる後に写真やイラストなどのビジュアル素材を選ぶのである。例外的に写真が起点になって記事を書くことがあるが、写真が希少であり、すでにテーマ性を帯びている場合に限る。

写真はそれ単独で目の前にポツンと置かれても、逆にイメージが伝わりにくい。トイレに貼ってありそうなカレンダーの写真を、説明もないままに飽きずに見続けることはありえない。絵なら画家の、写真なら写真家の、その一枚のコンセプトなり、込めた作意をことばとして表現すべきだというのが持論である。


昨日、古本を二冊買って会計しようとしたところ、あと一冊買えば安くなると告げられ、もう一度均一コーナーを渉猟し直し、厚さ3センチ、全ページがモノクロ写真の『街の記憶』という写真集を買い足した。ページ番号すらない。よく見ると、写真の下に56ポイントの小さな文字で、“Napoli, Italy 1965”というふうに地名と年号だけが申し訳程度に印刷されている。

ぼくのポリシーに反する本だが、敢えて手に入れることにした。そして、フラッシュカードのようにページをめくり、数百枚もの写真を次から次へと眺めていった。大半がピンと来ない。しかし、ピンと来ないままページを繰り続ける。時折り、実際に旅した街の記憶を甦らせてくれる写真が現れた。しばし凝視する。

一枚の写真に関しては持論は間違っていない。説明のない写真からはエピソードを感じないし、物語性も浮かび上がらない。しかし、これだけの枚数を次から次へと編集した本になると、もはや写真説明に意味がないのではないか。全ページに目を通した後、書かれざる説明文があぶり出されてきた。写真家の『街の記憶』という簡潔なタイトルが、キャプションの役割を果たしている。説明を排除する記憶なのである。

何から入るか?

自宅の道具箱にカンナが入っているだろうか? 拙宅にはない。ドライバーは使うが、錐に出番はない。炊事場に砥石を備えていた時期もあったが、これも今はない。かつてなじんだ道具の類は大部分が消えた。日曜大工に手を染めないのなら、それで特段困ることはない。

今は寝たきりになってしまったが、父は料理や芸事にも器用な人で、特に大工仕事はプロ並みだった。カンナノミを数種類持っていたし、漆喰しっくいを練り、コテ板に乗せて鏝で壁を塗っていた。鉋の使い方を教わったことがあるが、引っ掛かってばかりでうまくいかなかった。経験の前に頭で仕切ろうとしたからだろう。

小林秀雄対談集『直観を磨くもの』の中で鉋の話が出てくる。永井龍男との対談のくだり。

小林  (……)かんなのおやじの場合は、頭で考えたって、かんなの方でウンと言わなければ、事ははこばない。(……)長いつきあいというものが、どうしても要るんだな。(……)いい職人というものは、みんな自分のした仕事に、驚いているものなんだ、きっと。
永井  かんなに従うために、年季を入れなければならないという訳ですからね。


頭から入って鉋から入らないと言われれば、まったくその通りである。先に構想を練ったり計画するのが悪いわけではないが、そこばかりに注意が向いてしまうと、肝心の手が動かなくなる。鉋を使ってみればわかるが、頭でコントロールできるものではない。ひたすら手が鉋に従わないといけない。手を従わせる上で頭は邪魔なのである。

インターネットや本でレシピを読んでから、材料を仕入れに行き、買った材料を指示通りに小分けにし、調味料を用意する。鍋かフライパンを取り出して、やっとここで手が本格的に動く。うまくいくわけがない。対象に向かって手が巧妙に動いてくれる保証はない。手は知識の指令を受けることはめったになく、たいていは場数による暗黙知で動く。

頭と手と鉋の関係は、ほとんどすべての仕事や習い事の比喩になりうる。明日某所で講演するが、こんな話をしようといくら準備しても、場に応じた喋りがどうなるかはやってみないとわからない。鉋ほど扱いは難しくないが、語りを対象に向ける加減は微妙だとつくづく思う。

アンチテーゼとテコ

ある方法が行き詰まり立ち行かぬ事態になったとする。その方法に替えて別の案を示す。現在の方法をテーゼと呼び代案をアンチテーゼと呼ぶ。アンチテーゼは行き詰まりを解決するかもしれないし、不発に終わるかもしれない。

一般的に言うと、アンチテーゼは現在に対する「ノー」である。アンチテーゼが歴史の重要な局面で進化の原動力になってきたのは明らかだ。もっとも進化ばかりが重要なわけではないから、テーゼを守り抜いて成果を出し続けてきた歴史もある。テーゼあってのアンチテーゼであり、アンチテーゼがあるからこそテーゼの価値も認識される。

アンチテーゼには自己陶酔の危険が宿るので、要注意である。たとえば、ある意見への反論がさしたる哲学や信念がなくてもできてしまう。威張れるほどの論拠がないのにノーと言えるし、力関係次第でテーゼがそれでへこたれることもある。しかし、これで勝利したと錯覚して自惚れてはいけない。アンチテーゼにはテーゼに拮抗しうる強い動機がいる。テーゼを動かすだけの哲学や信念という〈テコ〉を持ち合わせていなければ、アンチテーゼを唱えてはいけないのである。


弁証法では、まずテーゼがあり、それにアンチテーゼが対抗し、次にジンテーゼが生まれることになっている。新たなジンテーゼはその時点でテーゼとなり、別のアンチテーゼによって価値を問われる。現実社会では、テーゼとアンチテーゼはいつも攻守交替するものだ。

アンチテーゼがテーゼに対する代案と考えるだけでは窮屈であり、いずれ対立構造を生む。もっと軽やかであっていいとぼくは思う。代案でなければならないと肩肘張らずに、ささやかな助言を呈するだけでもいいのだ。

もちろん、助言が反論だと受け止められるのは常。そのことを了解した上で、しつこくお節介する。アンチテーゼにはお節介の要素が大いにある。お節介は気遣いにほかならない。放置できないと思うからこそのお節介なのだ。テーゼを動かすだけの強いテコに自信があっても、いきなりテコを使わないのがマナーである。

月のコンセプト

924日月曜日の今夜は十五夜、中秋の名月。昨夜散歩中に見上げたのは十四日月、翌日に満月を控えた待宵まつよいの月だった。青みのかかった灰色の雲に乗っかっているように見えた。

月面を拡大すれば模様が浮かび上がる。模様は文化圏によって異なって見える。わが国では餅をつくうさぎが定番だが、ワニ、吠えるライオン、カニに見える国があり、本を読むおばあさんなどというのもある。想像の違いであり、つまるところ、コンセプトが一様でないことを意味している。

月のモノクロのイラストを見ると、土星という際立ったコンセプトを持つ星を除くと、月が太陽か他の惑星か判別しづらい。丸いというのはたいていの惑星に言えるから、固有のコンセプトにはならない。

しかし、黄色ではなく、また模様もなく、単純に白く描いた月でも、満ち欠けさえ示せば即座に月だとわかる。

新明解国語辞典を引けば「地球の衛星。太陽の光を受けて、(夜)輝く。太陽に対する位置によって、種種の形を見せながら、約一か月で地球を一周する」と書いてある。この文中の「種種の形を見せ」という箇所、つまり、満ち欠けが月の月ならではのコンセプトということになる。

コンセプトとは対象の最も特徴的または印象的な「おおむね」を一言化したものである。ほとんどの場合、文化的に、または個性的に、捻り出されるものだ。おもしろいことに、月に関して言えば、地球上での共通コンセプトは満ち欠けなのである。

「あれもこれも」と「あれかこれか」

生半可に考えて作業に取り掛かると、つい「あれもこれも」と欲張り、足し算型の仕事になってしまう。対して、はじめによく考えておけば――先々まで全体を構想していれば――「あれかこれか」と決断でき、作業からムダが省かれて引き算型の動きが取れる。

足し算に問題があるのではない。あれもこれもと考えるのは仕事が始まる前がよく、仕事の終盤で足し算すると収拾がつかなくなりかねない。いったん作業が始まったら、なるべくシンプルに最短で事を運ぶべきなのである。

テーマを広げたり複雑にしたりするのは成り行きでできてしまう。成り行きなので当初の思惑と変わる。だいたい仕事がうまくいかないのは、よく構想したり段取りしたりせずに見切り発車しているからだ。計画から生まれるのは「あれかこれか」であり、作業は引き算中心になる。絞り込んだり簡素化したりできるのは、全体を見渡せているからである。


オフィスでは来客用にホットコーヒーをお出しすることがあるが、昨年までは一種類だけだった。これはこれで何の問題もない。ただ、来客がない時にも飲むので、自分の嗜好性からして他の種類も飲んでみたい。そこで、4月から数種類の豆を挽いてもらって飲み比べし、来客に合わせてセレクトして淹れるようにした。

ところがである。種類いろいろ、値段いろいろ、淹れ方いろいろ試して、自分なりの満足度ランキングができてしまった。そして、ランキング下位の豆にほとんど出番がなくなってきた。あれもこれもと豆を用意してはみたが、飲み比べしているうちに上位の二つが定番になり、この二種類でいいではないかということになった。

あれかこれかと吟味しているうちに、揃えた豆の種類が引き算されてきた。それはそうだろう、ここはオフィスなのであって、喫茶店ではないのだから、品揃えを増やす必要はない。と言うわけで、ぼくの好みのスペシャルティコーヒーを二種類だけ常備することにした。スペシャルティコーヒーとは全コーヒー豆の生産流通量のわずか1パーセントにすぎない。当然値も張るが、一日に惰性で何杯も飲むよりも、ここぞという一杯に気合を入れる。これは引き算型の嗜好ということになるだろうか。

と言う次第ではあるが、アイスコーヒー用の豆や廉価なブレンドの在庫がまだかなりある。当面は来客のコーヒー通の度合をわきまえながらさばくことになる。

アナロジーの想像

『オーケストラ・クラス』(原題“La mélodie”)を観た。音楽をテーマにした映画で、主役はバイオリンに初めて触れるとんでもない子どもたち、そして彼らを指導するプロのバイオリニスト。下記にあらすじを紹介するが、ネタバレにならぬよう公開されている情報の範囲に収めておく。

パリ19区の小学校に音楽教育プログラムの教師として赴任したバイオリニスト、シモン先生。音楽家として行き詰まっているシモン先生は子どもが苦手のようである。6年生の生徒たちにバイオリンを教えることになるが、悪戯好きでバイオリン初体験の彼らに音楽を教えるのは容易でない。先生は落胆する。
このクラスの生徒でないアーノルド少年が練習に加わるようになり、少年に素質を感じた先生が自信を取り戻す。仲間の子どもたちもアーノルドから刺激を受ける。音楽の魅力がわかり、練習に夢中になり、子どもたちは演奏を通じて少しずつ成長する。
そんな彼らに向き合い、先生も音楽の喜びを取り戻す。そして、生徒たちとともに一年後に開かれるフィルハーモニー・ド・パリでの演奏会を目指す。さて、その成果は……。

フランス語の原題の「メロディ」を英語の「オーケストラクラス」に替えて邦題にしているのでアメリカ映画と思ってしまう。日本語ならさしずめ「管弦楽(団)教室」というところか。管弦楽とは言うもののシモン先生が指導するのはバイオリン。本番のコンサート発表会ではその他の楽器のパートを外部から招いてコラボレーションしていた。


紹介したあらすじ通り、パリの音楽教育プログラムを脚色したストーリーと読めば、それはそれで十分である。才能それぞれ、習得速度それぞれ、音楽を教えることの根気の大変さを認識して映画館を出ればいい。予告編の映像やパンフレットの文字をなぞる映画鑑賞で何の不満もない。

ただ、この映画に関しては、原題“La mélodie”を併せてみると――深読みになるか見当違いになるかは別として――もう一つの物語の線を引けそうだ。多種多彩な楽器が音を奏でるオーケストラ。バイオリンだけに限っても弾く子どもの肌色は多種である。アルジェリア系、アフリカ系、アラブ系、アジア系の子どもの多さには気づくが、歴史的風土で生きてきたケルトやラテンやゲルマンの末裔らしき顔はちらほらである。

アメリカ人という呼び名同様に、フランス人というくくりにほとんど意味がない。民族の起源に遡って現代を批評し論じるには、多民族性が極まり過ぎた。パリやニューヨークは「オーケストラシティ」の様相を呈している。鑑賞後にそんなアナロジーを想像してみたのである。観光客がどれだけ押し寄せてきても、風土の深層に日本人色が沈殿しているぼくらの国と違って、一部の人種的偏見を残しながらも、この映画の舞台ではるつぼの中の攪拌はかなり進んでいる。まるで異音を繋いでメロディを奏でているかのように。

シェフ日誌が教える書く習慣

「本を読んで考えるだけでなく、書いて考えればいっそう思考が深まり明快になる」。このように毎度説くのだが、即座に膝を叩いて納得してもらえるわけではない。最近、言を費やす以上に説得力のある事例を見つけた。テーマは料理。ビギナーが一人前のプロになる過程で書くことが大いに手助けになるという。

料理人を目指す者にとっては、料理に関心を持つことと料理人になることはイコールである。関心の度合と技能の多様性が素人と一線を画する。いま手元に“The Becoming a Chef Journal”という本がある。さしずめ「シェフ(になる)日誌」という意味。アメリカの著名なシェフらの洞察力に富む名言がほぼ全ページの右上に引用されている。拾い読みするだけでも大いに啓発されるが、実はこの本、読み物としてではなく、サブノートとしての活用を主眼として編集されたのである。


一口で言うと、本書は「料理人を目指すなら料理に関する情報や発想のノートを習慣化せよ」と唱える。書き込みすることを前提にしているからサブノート形式になっている。本書にレシピや盛り付けなどの記録を綴れば、積もり積もってインスピレーションの源泉になる、というわけ。

ある見開きページ。左のページに「レストランのレビュー記事を保存」という見出し。雑誌やウェブで読んだ記事をここに転記したり貼り付けたりする。右のページには「このレビューを選んだ理由」とあり、3つの問いに答えるようになっている。

「このレストランのどんな点が気に入りましたか?」
「意表をつかれたメニューは何ですか?」
「実際にレストランに足を運んだ後もレビューの記述に同意しますか? する理由またはしない理由は? 自分の経験に照らし合わせてどう感じますか?」

こんな具合に問いによって書くきっかけを与えて考えさせる。料理の本を読むだけでなく、つねに問題意識を持って何かを書いてみる。ビギナーの日誌習慣をあの手この手の仕掛けで促すようになっている。書いて覚えようという単純な教えではない。書くからこそ分かり、書くからこそ一流の仕事につながる一流の考え方ができるという哲学。どの分野であれ、一流のプロフェッショナルはよく書きよく考えるのである。