遊びの時間、時間の遊び

人生の出発点には「無意識の生きる」がある。やがて意識が強くなってくると幼児期には「遊ぶ」。学童になるまでは「よく遊ぶ」が容認される。次いで「よく遊び(同時に)よく学ぶ」へと向かう。やがて小学生も高学年になると、いつの間にか「よく学び(しかる後に)よく遊ぶ」が奨励される。いや、そうしないと社会的存在として生きていくのが難しくなってくる。一番いいのは「学びイコール遊び、遊びイコール学び」。学びと遊びが混在し可逆的になり一体化すれば、さぞかし毎日が楽しいに違いない。

大人になれば「よく働き(そしてご褒美として)遊ぶ」がセオリーになる。この順番でなければならない。ろくに働きもせずに遊んでばかりいれば社会が認めてくれない。ホイジンガやカイヨワを持ち出して遊びを正当化するまでもない。誰が何と言おうと、遊びの時間は人生にとって不可欠だ。だが、仕事とのバランスを崩してまで「よく遊ぶ」を追い求めるのは筋違い。少なくとも時間とエネルギーにおいて、遊びが仕事を凌駕するのはまずい。もちろん仕事と遊びに一線を画しにくい職業が世の中に存在することも認めたうえでの話だが……。

仕事を滞らせたり職場に遅刻することがあっても、遊びの予定をしっかり押さえて待ち合わせには絶対に遅れない人がいる。そんな人間は仕事が嫌いで遊びが好きなのだと単純に結論づけるわけにはいかない。ここには遊びが仕事以上に「真剣さ」を要求する性質を帯びていることが窺える。おざなりな仕事のルールに比べて、遊びのルールが厳格に定められるのも周知の事実だ。遊びに費やす時間とエネルギーを仕事に向ければ、もっと容易に課題も達成できるのではないか。皮肉で言っているのではない。


いっそのこと仕事を遊びとして捉えればいいのにと思うのだが、先に書いたようにそんなに都合のいい職業に誰もが就いているわけではない。仕事は仕事なのである。遊び心はあってもよいが、遊びとは違う。けれども、仕事中の「遊びの時間」は慎むべきだが、「時間の遊び」は大いに作るべきだろう。時間の遊びとは、歯車の遊びのようなものだ。ガッチリと組み合わさった歯車は動かない。ほんの少しの余裕がなければ歯車は機能しない。この余裕のことを遊びと呼ぶ。

時間にも遊びがいる。これを「時間の糊しろ」と考える。たとえば、今週の水曜日、オフィスのミーティングルームでスタッフの一人が午後6時まで得意先を迎えての会議をおこない、午後6時からぼくの勉強会が始まる。ここに時間の糊しろはない。会議は早く終わることもあるが、長引くこともある。実際は遅くなってしまったが、遡れば時間の遊びを作れなかった失敗である。これが仕事と仕事どうしになっていたら、この余裕の無さは時間の重なりをもたらしトラブルの要因になる可能性がある。時間に糊しろがないと、納期、タイミング、段取りなどに思わぬ狂いを招く。

今日の1時間は明日の1時間よりも糊しろが大きい。余裕の質が違うのだ。同じ一日、いや午前中だけでも時間の質は変わってくる。たとえば、午前9時の新幹線に乗る時、8時まで自宅にいて本を読むのと、8時に駅に着いて本を読むのとでは、後者のほうが糊しろがだいぶ大きい。なぜなら、自宅を出るという動かせない一工程を後回しにしては落ち着いて本など読めないからである。創造性が低い無機質な工程をなるべく早めに片付けておくべきなのだ。糊しろは読書の時間に遊びをもたらしてくれる。時間の遊びは遊び心の仕事を可能にしてくれる。それはまたリスク管理にもつながってくるのである。  

自己都合との闘い

ぼくたちは多かれ少なかれ経験を通じてパターンを認識する。挨拶のパターン、仕事手順のパターン、信号や交通安全のパターン……。よく体験しよく生じるパターンをおおむね定型として認識しているから、そのつど深慮遠謀しなくても日々を過ごしていける。このようなパターンを法則化するのは、一つは省力化のためであり、もう一つはリスク管理のためである。毎度毎度エネルギーを費やしてリスクに怯えながら生活したり仕事をしていては神経も磨り減り身が持たない。

もちろんパターンから外れるケースもある。しかし、ぼくたちは「おおむねこうなるだろう」と想定して現実と向き合っている。電車はおおむねダイヤ通りにホームに入ってくるし、注文した牛丼はおおむね30秒後には出てくるし、よほどのひどい社員でないかぎり遅刻する場合はおおむね事前連絡がある。このように外部環境において一定のパターンを想定できることはいいことである。ライプニッツの神の意志を持ち出すまでもなく、〈予定調和〉によってレール上を決まりきったように走れることはそうでないよりも楽に決まっている。ただ、個人的には予定調和はとてもつまらないと思う。

この予定調和が自己を中心として成り立つと考えてしまうと、ちょっとまずいことになる。言ったことはおおむね伝わっているはず、わからないところは読み飛ばしても大丈夫だろう、会合には申込者全員がほぼ出席するに違いないなど、自分サイドから一方的にしかるべきパターンが起こるだろうと信じてしまう。予定調和に基づいて「そうなるであろう的推論」がいとも簡単に導かれてしまうのだ。


しかし、推論はあくまでも推論である。演繹推理的に言えば、昨日までこういうルールが当てはまったから今日も当てはまるということには何の保障もない。すべての演繹的な原理には「今までのところ」または「今のところ」という見えざる注釈がついている。経験的に繰り返されてきた事柄が今日もまた繰り返されるという蓋然性は決して定まらないのである。蓋然性とは「ありそうなこと、起こりそうなこと」であって、「実際に存在すること、実際に起こること」とイコールではない。

想定や思惑が外れるのは生活世界ではよくあることなのに、想定や思惑通りに事が運ぶ「順風パターン」を中心に経験知が積まれ蓄えられていく。だから逆風が吹くと――つまり、現実と自己都合のすれ違いに直面すると――自己都合に陥った自分を責めるのではなく、自己不都合の原因をつくった現実のほうを咎めるようになる。列車が99パーセント遅れないわが国では、1パーセントの確率で起こる遅延に対して自己都合が怒りを示す。列車の順行が50パーセント程度の某欧州の国では誰も文句を言わない。

自己都合を中心とした想定は甘い。パターン崩壊という不都合ハプニングと自己都合の対立時点での振る舞いを見れば、その人間の対処能力が露呈する。行き場のない歯ぎしりやもどかしさを自分の目論見に還元せずに、自暴自棄気味に当り散らすのはいかにもお粗末な話である。神が仕組んだかのように予定調和を当てにした自分が悪いのだ。とにかくハプニングは避けられない。だが、よく考えてみれば、ぼくたちが闘わねばならない相手は、ハプニングではなく、自己都合のほうなのである。