時間を創る生き方

去年一年間、Kはずっと「忙しい、忙しい」と言っていた。会うごとに、電話で話すごとに、メールをやりとりするごとに。先週会った時も同じことを言っていた。仕事がどんなに多忙なのかつぶさに見る機会はないが、会った時の振る舞いからは普段の慌しさが漂ってこない。話し方も悠然としているし……。にもかかわらず、ご機嫌をうかがうたびに、「時間がない、時間が足りない」とよくこぼす。

Kとは誰か? ぼくの回りにもあなたの周辺にもよくいる人物、それがK。そう、Kはどこにでもいる。もっとはっきり言っておこう。時々誰もがKになってしまうのだ。Kというイニシャルに特別な意味はない。多忙を言い訳にする象徴的な人間を他意なくKと呼んでいる。Kは、K自身が多忙だと思っているほど、仕事に追われてもいないし多忙でもない。Kよりも物理的に仕事の負荷が大きくても、余裕綽々に日々を送っている仕事人も世間には少なからずいる。

「忙しい」を口癖にしたまま定年退職していったK先輩たちをぼくは何人も知っている。同輩にも年下にもKはいる。集まりがあればほとんど確実に遅刻し、約束を直前になってからキャンセルするくらいは朝飯前だ。丁重に謝り「次こそ絶対に先約を守る」と誓っても、急な仕事やトラブルが発生する巡り合わせになっている。冠婚葬祭出席の頻度も高い。ぼくはいつも疑問に思う、Kは仕事ゆえに多忙なのか。Kに「忙しい」と言わせているのは、仕事以外の諸々のゴミ時間なのではないか。


多忙だから趣味に打ち込めない、仕事続きでゆっくり落ち着いて本も読めない。あれもしたいこれもしたいと願いながら、一年を振り返れば雑事に忙殺されてきた。しかも、時間を食った割には仕事の達成感はない。何だか薄っぺらな仕事ばかりしてきた感覚が自分を支配している。このようなワークスタイルとライフサイクルは、放置しておけば生涯続く。そして、K本人は言い訳と口癖の「忙しい」を相変わらず言い続けることになる。どこかでケリをつければいいのだが、環境も態度も変容しそうな気配はない。

多忙感には避難所に似た構造がある。「忙しい」というのは口実でもあり幻想でもある。もちろんK自身はそれが口実であるとか幻想であるなどと思いもしていない。言い訳しているつもりもなければ口癖になっているとも気づいていない。毎日がとても窮屈で自由気ままにならないと確信している。だが、Kは間違っている。Kは仕事で忙しいのではない。時間ののりしろを作れないため、不器用に仕事をしているにすぎない。

電話、来客、会議、トラブル対応、先延ばし、人付き合い、優柔不断。ブライアン・トレーシーはこれらが「ゴミ時間」の要因であると指摘する。多忙解消のための電話ではなく、電話に時間を食われて忙しくなっている。来客との会話、会議、人付き合いの大半は、終わってから後悔の念に苛まれる。トラブル対応はパスできないが、マイナス作業であることを心得ておかねばならない。先延ばしと優柔不断は身から出る錆である。

時間欠乏にからんでくるのは、いつも「人」である。人間関係は微妙であって、ある境界線を越えるとプラスがマイナスに転じる。やりがいにもストレスにも人は関与するのだ。Kよ、多忙が好きなら金輪際「忙しい」と言うなかれ。多忙が嫌なら、愚痴を言う前にゴミ時間を減らしたまえ。時間を創れない人間がいい仕事をやり遂げたためしはないのである。

流されてしまう時代

意思をたくましくして事に処していても、人間一人が外圧にあらがう力はたかが知れている。外圧などという物騒なことばを使ったが、別に外から圧力がかかるまでもない。ごく自然に集団や雑踏の中に佇んでいても、意思とは無関係な「自己不在感」に襲われたときには、すでに流れに棹差すままの身になっている。

メディアに取り巻かれて流され、日々の生活が文化的なトレンドに流され、そして、今いるその場で人は流されてしまう。具体的には、テレビ・新聞・インターネット・書物に向き合って自主的に情報に接しているつもりが、気がつけば、相当ぶれない人でも河童の川流れ状態に陥っている。街を歩けば、グルメにファッション、立ち並ぶ店のディスプレイに取り込まれ、固有の嗜好だと思っているものさえ、実はサブリミナルに刷り込まれていたもの。会議や集いや居酒屋でも、全体を包む雰囲気に流される。流されていることに気づくうちはまだいい。しかし、流れの中にずっといると、流れているのは岸のほうで、自分は決して流されてなどいないと錯誤する。

個性ある人間として主体的に生きようと意識している、なおかつ強い意思によって世間を知ろう、また当世の文化にも親しもう、しかも空気に左右されぬよう場に参加しようとしている。そのはずなのに、ぼくたちはいとも簡単に流されてしまっている。あ、この一週間は早かったなあ……まだ自分の仕事はほとんどできていないのに、雑用ばかりでもうこんな時間か……貴重な時間は空虚に流れ去り、印象に残っているのはやるせないゴミ時間の記憶ばかり。


流されないようにするための処方箋が「さらに意思を強くすること」しかないのであれば、もはや絶望的である。しかし、何も悲愴な面持ちで嘆き続けるだけが能ではない。無茶を承知で言うのなら、外界に向かって鎖国的に生きるか、あるいは世間やメディアから隔絶されたところに隠遁すればいいのである。そうすれば、少なくとも流されずには済むだろう。

だが、それでは社会的生活が成り立たなくなってしまう。ぼくたちは必要最小限の時事的情報を知らねばならず、さもなければ、人と交わり共同で何らかの仕事をこなしていくことはできない。たとえ鎖国・隠遁が可能だとしても、その生き方は引きこもりっぱなしのオタクと同じである。彼らが流されていないという痕跡は見当たらない。いや、実のところ、彼らの大半はゲームやインターネットや趣味の世界の中で流されてしまっている。

誰にでも効く処方箋を持ち合わせているわけではないが、ぼくはまったく悲観的ではない。抗しがたい急流にあって有用の時間のみを追わず、岸辺に上がって無用の時間に興ずればいいのではないか(無用の時間はゴミ時間ではない)。現実の情報・文化・公共の場などの意味体系から離脱して「引きこもり」、せめて一日に一時間でもいい、沈思黙考する時間を自分にプレゼントする。その一時間は外部環境の変化に一喜一憂しない時間である。世の中にわざと乗り遅れる一時間である。そういう時間を持つようになってまだ数年とは情けないが、じわじわと効いてきた気がする。ただのプラシーボ効果なのかもしれないが、かけがえのない至福の時間になりつつある。

時間、寛容、自由の3点セット

つい「もったいない時間を過ごした」とつぶやいたが、まんざら悪い気もしていない。今朝、本来なら30分で済んだかもしれない打ち合わせが3時間になってしまった。脱線、見直し、小言などであっという間に時間は経過した。半時間で終わる予定が3時間になった―3時間要してしまったのだが、見方を変えれば、3時間注げる余裕があったということでもある。別の約束があったり期限を妥協なく設定しておけば、予定通りに終わった、いや終えることができたはずである。

サラリーマン時代の話。もう25年くらい前になるだろうか。縁故で商談に出掛けていた上司が帰社してぼくにこう言った―「紹介してもらった人は部長だったけど、2時間も話を聞いてくれた。たぶん、あまり仕事のできない、閑職にある人なんだろう。暇人でなければ、そんなに時間は取れないからな」。会ってくれた相手にそんな言い方はないだろうとぼくは思った。その部長は多忙にもかかわらず、寛容の精神で接してくれたかもしれないではないか。風呂敷のたたみ方を知らぬ上司のほうこそ仕事のできない暇人ではなかったか。

暇人だから時間に融通がきくとはかぎらない。たしかにそんな御隠居さん的ビジネスマンもいる。しかし、「忙中閑あり」も真実だ。人は多忙だと思っているわりにはゴミ時間も消費している。逆に、時間がたっぷりあると油断していると、あっという間に一週間や一ヵ月が過ぎてしまう。忙と閑をうまく使い分けて時間管理をきちんとしていれば、時間に対して寛容になれる、つまり「あなた時間でいいですよ」と言えるようになる。


アポイントメントを取るとき、月日は双方合意で決めるのは当たり前。その後の時間決定の段になると、ぼくは原則として相手に時間指定権を譲る。こちらから出掛けていってお邪魔するときも、相手に来てもらって迎えるときも同じである。「その日は終日空いています」とか「夕方以外は午前、午後いつでもいいです」というふうに自由に時間を選んでもらう(もともと欲張って分刻みの約束はしないし、できるかぎり一日のアポイントメントは一件、せいぜい二件までにしている)。

「あなた時間」で決めたからといって自分が束縛されたり窮屈になるものではない。「あなた時間」に「自分時間」を合わせることができる―これこそが真の自由時間だと思っている。暇であるか多忙であるかという状態と、時間が自由であることはあまり関係がない。先行して段取りさえしておけば、多忙であっても自由時間は持てる。後手後手に回ると、暇であっても時間は自由にならない。

時間だけではない。時間以外の諸条件も相手の主張をできるかぎり呑むことによって自由が生まれると思っている。自由が欲しければ、まず寛容にならねばならないのだ。

「時間? お任せしますよ」と言えるようになってはじめて、時間をコントロールできたことになる。いつでも自分時間で動けるのは、一見マイペースのように見えるが、「その時間帯」以外が窮屈ということだ。「この時間でなければならぬ」という人物は、可哀想に自由がないのである。その人たちの手帳は屑みたいな約束とゴミ時間の印で埋められていることが多い。