粗っぽいメモ

ノートの効用についてずいぶんいろんな人たちに講釈してきた。続けること自体をひとまず評価するものの、続けること自体は意地によっても可能になる。要所はさらに先にある。ノートは記憶の補助装置であると同時に、本家である脳の記憶領域を強化することにもつながる。書くことは、考えることであり、覚えることであり、知の相互参照をおこなうことである。ノートをつけることは、そういう効用につながるものでなければ意味がない。

何人かのノートを見せてもらった。驚くほど几帳面な字で必死になって文章にしている。まるで誰かに報告するレポートのようである。「これではダメなんだなあ」とぼくは溜息をつく。「完成」に近い形でアイデアなり情報を書き込もうとすればするほど、ノートは色褪せていく。もっと粗っぽくていいのである。ふとひらめいたアイデアやどこかから取り込んだ情報が揮発する前に、ささっとピン留めするのである。そこに完全を期す必要はまったくない。とにかくペンを走らせるのがよい。

ぼくが本ブログで書く記事はほぼすべてが手帳サイズのノートを経由している。逆の言い方をすれば、ノートに粗っぽくメモしたものが、数日後あるいは数週間後(場合によっては数ヵ月後)にメモよりも少しましな文章へと発展している。たとえば、数行の走り書きが適度な熟成期間を経て、原稿用紙にして四、五枚に膨らむ。下手するとただの水増しになる場合もあるが、たいていは別の知識やアイデアが絡んで原メモ以上の内容になってくれる。


ここ数日間に走り書きした実際のメモを原型のまま書き出してみよう(すべてのメモにぼくは見出しをつけている。アナログノートの弱点は検索にあるから、インデックスは絶対必要なのだ)。

珠玉の一行
一冊の本の全体あるいは要約を丹念に読むのと、その一冊の中のこれぞという一行が等価ということがある。読みにくい本を辛抱して読み続けてもろくに意味もわからないのなら、いっそのことやめる。やめて、あらためて適当にページをめくり、その本のどこかに書かれている一行の文章だけに目を止める。そして、その文章だけを玩味する。そうするだけでも、その本を読んだと言える場合があるのだ。

国境とテリトリー
動物に国境はない。しかし、かれらにはテリトリー〈棲息領域〉がある。ぼくは市場(顧客、業種業界)を選ばない。しかし、ぼくには専門領域がある。動物もぼくも、油断しているとテリトリーだと思っているところで淘汰される危険性に晒されている。

綱渡りのような話し方
日本人は、誰が話しても同じようなことをよくも凡庸な表現で平気で語るものだ。コミュニケーションが無難へと向かい、おもしろくも何ともなくなっている。言葉狩りにも責任があるし、失言する偉い方々の先例を見て危なっかしい話し方を遠ざける。レッドゾーン手前で自分の表現をデフォルメする勇気がいる。話をするということは、だいたいにおいてスリリングで挑発的なのである。型通りの虚礼的記者会見などコミュニケーション相手をバカにしているのである。


書き出せばキリがない。以上のような、相当粗っぽいメモが何十も熟成中で、いずれ本ブログでも取り上げることになるかもしれない。なお、粗っぽくていいというのは文型と論理についてである。ぼくは長年書いてきたので文章の形でメモすることが多いが、箇条書きであってもまったく問題はない。要するに、体裁のいい文章にしようとか筋を通そうとかしていては、ノートの意義が半減すると言いたいのである。