暫定的なことば

一つは、気の向くままに小文を書き、書き終えてからタイトルを付ける。もう一つは、思いつくままに書くことは書くのだが、あらかじめタイトルを決めておく。自分がいつもどうしているかを少々顧みて、さらに、どちらが苦労が少なくて済み、どちらが目を引くようなタイトルになっているかに注意を向けてみる。いろいろと考えてみた。そして、これらの問いへの答を放置したまま、別のこと――「話す」と「書く」の決定的な違い――に気がついた。

話す場合は、「これについて話そう」もあれば、「(気がついたら)そのことについて話していた」もありうる。つまり、テーマへの意識の有無にかかわらず、そこに相手がいることによって「ただ話すという行為」は成り立ってしまう。ところが、読み手があろうとなかろうと、また、書く前にタイトルがあろうとなかろうと、書く行為そのものには「テーマらしきもの」が前提されている。少なくとも、ことばになる前の気分の志向性だけは、確実にある。何となく喋ることはできるが、何となく書くことはできそうもないのである。実際、ぼくは、小文のタイトルを付けるタイミングとは無関係に、おおよその何かについて書き始め書き終えている。

おおよその何かは、単なる気分やぼんやりしたイメージとして止まっているのか。どうやらそうではなく、ことばとして確定しているようなのだ。タイトルの箇所が埋まっていようと空欄のままであろうと、いずれも「暫定案」にほかならない。テーマはすでにことばになっている。空欄は単に未記入というだけの話で、書くことについてぼくたちはアタマの中ではっきりと言語表現化している。そして、書き終えた後に、もう一度見直してみるのである。小文ですらこういう具合であるなら、暫定的なタイトルなしで小説や論文を書くことは不可能だと思われる。


ラスコーやアルタミラの洞窟壁画に先立って、クロマニヨン人は言語を操っていなければならない。彼らが20数万年前にどうだったかはわからないが、1万数千年から2万年前、少なくとも鮮やかな色使いで精細に牛を描く時点で、牛の名称と牛の存在と牛の概念は同時にあったはずである(なお、チンパンジーに無理やり絵筆を持たせれば、画用紙に何かを描く。しかし、勘違いしてはいけない。チンパンジーは「ある対象」を描いてなどいない。ただ絵具のついた筆を紙の上で振り回しているだけである)。目の前の対象や記憶の中のテーマを写実的に描くためには、対象を認識していなければならない。そして、対象を認識するとは、何を差し置いても、まず名前を発することなのである。

先月このブログで「一軒の家の設計図があって初めて柱や壁や屋根やその他諸々の部材が規定されるのである。決して部分を寄せ集めてから全体が決まるのではない」と書いた。対象の名と絵を描くことの関係も、タイトルと書くことの関係もこれと同じだろう。名という型なくして意味などない。名もない対象に意味を見い出して、やおら絵を描き始めたり文章を書き始めたりするわけなどないのだ。これまで名や名称やタイトルと呼んできたものは「音声のあることば」と言い換えればよい。ひとまずことばを発しなければ、対象も認識できないし意味も生まれないのである。

ことばはいきなり明快にはならない。だからこそ、試行錯誤しながら「暫定的に」用いるのである。繰り返すことによって型が生まれ、その型が概念となって意味を生成する。言語と思考の関係はほとんどこうなっているとぼくは思うのだが、よく考えてから話そうとしたり、考えていることがうまく言えないと悩む人が相変わらず大勢いる。とりあえずよく話そうとするからこそよく考えることができるようになるのだ。むずかしいが、興味の尽きないテーマである。

指し示して伝えるということ

「どれ?」「これだよ」「えっ、どっち?」「こっち」……ゲームをしているのではなく、よくある現実の場面。少し離れたところにいる人に、こちらにあるものを指し示したら、その人差し指がどこを向いているのかがよくわからない。「これ」と指し示した箇所の名称を知らないので指を使っているのだが、ピンポイントで対象を確定できない。指(☚)や矢印(➡)は対象に近接していればうまく機能するが、これらと対象との距離が長くなればなるほど、いったい何が対象であるのかわかりにくくなってしまう。

では、今度はゲームをしてみよう。遵守すべき条件は、左手を使えない、話すことが許されない、絵や文字にしてはいけないの三点。さて、あなたが相手に伝えたいのは「親指」である。左手で指し示さず、「おやゆび」と発話せず、絵や文字で表わさずに、はたしてどのように伝えればいいだろうか。

人差し指で隣りの親指の爪あたりを指すと、お金のサインになってしまう。かと言って、第一関節の腹あたりに人差し指の指先を当てれば、数字の69、あるいはかたつむりの形に見えなくもない。相手は、人差し指が示す対象を親指だとわかってくれるだろうか。人差し指を使わずに、仮に親指だけを単独で立ててみればどうか。すると、相手はそれをオーケーのサインと見てしまう。

親指でなくてもいい。小指、薬指、中指と順番に人差し指で指し示していくと、二本の指で「造形」されるものが何らかの記号的意味を相手に与えてしまう。同時に、残りの三本の指も「地」として意味を付加する。あなたの右手の動きを見て、相手は「きみは、人差し指で他の四本の指を示しているのだね」と勘を働かせてくれるだろうか。あるいは、あなたは何が何でも相手に伝えられると胸を張れるだろうか。


人差し指で、たとえば耳を示せば、相手は「耳が指によって示されたこと」をわかってくれるだろう。まさか、「人差し指を耳によって示した」とは思わない。なにしろ、人差し指は「インデックスの指」なのだ。人差し指をおもむろに対象に近づけて、対象のすぐ近くでピンと伸ばせば、たいていの場合、爪先で示した箇所は相手に伝わる。但し、頭と毛髪、顔と頬などでは誤伝達が起こる可能性がある。

では、伝えるべき対象が「人差し指」のとき、あなたはどのようなジェスチャーをするだろうか。人差し指の関節は内側にしか曲がらないから、曲げて示そうとすれば「鍵」のように見える。真っ直ぐ立てれば、人差し指というよりも「一本」という意味合いが強くなる。他の指で示そうとも、他の指はインデックス指として認知されていない。ならば、口で人差し指をくわえてみるか。残念ながら、それは「指しゃぶり」か間抜けなジェスチャーにしか見えないだろう。

以上のようなことをイメージしていると、不思議なことに気づく。人差し指そのものが人差し指を的確に指し示せないように、PP自体を示すのはむずかしいのではないか。PはどうにかこうにかQRを示したり伝えたりできても、Pそのものを明確にするのに苦労する。そして、実は、ことばも人差し指や矢印と同じ機能を持っているのではないか。指や矢印で対象を示せない時、つまり、近くにないモノや目に見えない概念をことばで描く時、ぼくたちはきわめて高度な技術や知識を駆使せねばならないはずである。

昨日、NHKニュースで「日本のはるか南……」と耳にしたとき、ぼくは「はるか南」の指し示す距離に一瞬戸惑い、「マリアナ諸島で……」とキャスターが続けても、イメージと知識が起動しなかった。伝える側の指示内容が伝えられる側の参照を的確に促すということは、信じられないくらいすごいことなのだろう。