未来をどこに見るか

自分の過ちを正直に認めない子どもに父親が言った。「ワシントンは、お前と同じ歳の時に、桜の木を切ったことを認めて謝ったんだぞ」。これに対して息子が言った。「ケネディはパパと同じ歳の時に、大統領だったんだよ」。

父親が息子を諭したのは、息子に未来の姿を垣間見たからである。ウソをついているようではまともな大人になれない。そこで、ワシントンという例を持ち出して、正直が立派な大人になるための条件であることを示そうとしたのである。ところが、子どもの切り返しはそれ以上だった。

亡くなった井上ひさしが『ボローニャ紀行』の中で書いている。

「日本の未来を考えようとよくいうけれど、日本も未来も抽象名詞にすぎない。こんな抽象的なお題目をいくら唱えても、なにも生まれてこない。だから日本の未来を具体化することが大切だ。では、どう具体化するか。それは、毎日、出会う日本の子どもたちをよく見ることだ。彼ら一人一人が日本の未来なのだ。彼らは日本の未来そのものなのだ。その彼らのために、わたしたち大人は、なにかましなことをしてあげているだろうか……」

この一節を読んで、「ドングリの実にはバーチャルな樫の木がある」を思い出す。「卵は圧縮された鶏のバーチャルリアリティである」という喩えもある。ドングリは未来の樫の木であり、卵は未来の鶏というわけだ。つまり、未来はある日突然降って湧くのではなく、現在にすでに宿っているのである。ピーター・ドラッカー流に言えば、「未来はわからないからこそ、すでに起こった未来を見ればいい」。現在のうちに何がしかの未来の予兆が感知できるはず。


「すでに起こった未来」とは「将来に続くだろう現在・過去」のことである。今夜暴飲暴食すれば、明朝という未来に体調不良に苦しむ。わかりきったことである。おおむね今日の頑張りは明日の成果につながるし、今日の怠惰は明日のツケとなって表面化する。リアリティとしての今日は「バーチャルな明日」と言い換えてもよい。「本を読んだかい?」に対して、「いや、まだ。でも、目の前に積まれた本はバーチャルな知だよ」と言うのは詭弁である。読んでいない本は、熟成させても読んだことにはならない。

企画研修で「構想の中にバーチャルな未来がある。いや、構想しなければ未来などない」と力説する。ぼんやりしていては明日などいっこうに見えてこない。もっと言えば、この瞬間に集中して対象に注力しているからこそ、未来への予感が湧き起こり未来への展望が開けるのである。

実は、現在や過去に自分の未来そのものや未来を創成するヒントを見つける方法がある。

一つは、歴史に温故知新することだ。箴言や格言の中には未来に向けての羅針盤になってくれそうな、おびただしいヒントが溢れている。

もう一つは、人間に自分の未来を見るのである。年長者と自分との間を対照的に見れば、年齢差の分の未来が忽然と現れる。ぼくは最近自分より若い人たちにそのように接するようにしている。ぼくの姿に彼らの10年後、15年後を見据えてもらえればありがたい。そこに情けない未来が見えるのなら、「反面未来」にすればいいのである。

語句の断章(2) 構想

企画を指導していて悩み多いのは〈構想〉の意味を伝えることである。構想というのはあるテーマの全体枠。枠そのものが未来を指向するシナリオであったり過去のリメークであったりする。

構想の中身は空想や想像でできている。空想も想像も「いま目の前にないものを思い描くこと」。但し、空想は脱経験的であるので、自由奔放であり、枠や時間という概念に強く縛られない。他方、想像は基本的には経験を下地にしている。経験したことから何かを思い浮かべようとすることだ。

さて、構想と言うと、漠然と未来を見据えようとしがちである。構想とビジョンは意味的に重なるが、「ビジョンをしっかり持て」と指示すると、どこにもないはずの未来を、たとえば天を仰ぐように見ようとしたり過去や現在から目を逸らそうとしたりしてしまう。どこかから未来を切り取ってくることはできない。過去や現在に知らん顔して未来だけを注視することなどできないのである。

実は、構想とは過去と現在を穴が開くまで見ることなのである。実際に経験したことからの連想なので、この点では空想よりも想像に近い。外や明日ばかり見ようとするのではなく、自分の〈脳内地図〉を見ることである。過去と現在を踏まえて、あるテーマについての願望をスケッチするのだ。過去の省察、現在へのまなざし、そして未来の願望を俯瞰して書き出す。構想とは事実の土台の上に希望のレンガを戦略的に積み上げる作業にほかならない。

構想が全体枠だと言うと、「全体=マクロ的」と考える人がいる。大きなことを考えてから小さなところに落とし込むのだと錯覚する。たとえば、樫の木からどんぐりを導くような感覚。そうではない。どんぐりから樫の木を構想すること自体が全体枠になる。「どんぐりはバーチャルな樫の木である」という発想こそが構想的なのだ。

時間の不思議、不思議の時間

時計を見て、「午後3時」と確認する。別に何時でもいい。毎日何度か時計を見る。いったい何を確認しているのだろうと思う時がある。そうなると少しまずいことになる。

二十歳前後を最初に、数年に一度の割合で「時間とは何か」に嵌まってしまう。誰もが一度は宇宙や人生に思いを巡らすらしいが、考えているうちに脳に何がしかの異変が起こるのを感じるはず。若い時に脳のキャパシティ以上の難しい命題を多く抱え込まないほうがいい。とか言いながら、若気の至りのごとく、ぼくはかつてその方面に足を踏み入れてしまった。そして、宇宙や人生以上にぼくの頭を悩ませたのが、この時間というやつである。しかも、宇宙や人生とは違って、時間を意識することなしに日々を過ごせない。

時間は曲者である。歴史上の錚々たる哲学者が軒並み「不思議がった」のだ。ぼくの齧った範囲ではカントもフッサールもハイデガーも時間の不思議を哲学した。ずっと遡れば古代ギリシアのヘラクレイトスが、「時間が存在するのではなく、人間が時間的に存在する」と言った。少し似ているが、「人間が存在するから時間が存在する」とアリストテレスは考えた。そして、時間特有の自己矛盾のことを「時間のアポリア」と名づけた。アポリアとは行き詰まりのことで、難題を前に困惑して頭を抱える様子を表わしている。それもそのはず、時間という概念は矛盾を前提にしているかもしれないからだ。

〈今〉はあるのだが〈今〉は止まらない。感知し口にした瞬間、〈今〉はすでにここにはない。では、いったい〈今〉はどこに行ったのか、どこに去ったのか。それは過去になったと言わざるをえない。では、過去とは何なのか、そして未来と何なのか……という具合に、厄介な懐疑が次から次へと思考する者を苦しめる。途方に暮れるまで考えることなどさらさらない。だからぼくたちは疲れた時点で思考を停止すればよい。だが、世に名を残した哲学者たちはこの臨界点を突き進んだ。偉いことは偉いのだが、思考プロフェッショナルならではの一種の「意地」だとぼくは思っている。


ちっぽけな知恵で考えた結果、今のところ(と書いて、すでに今でなくなったが)、未来に刻まれる時間を感覚的にわかることはできないと考えるようにした。未来を見据える時と過去を振り返る時を比べたら、やっぱり後者のほうが時間を時系列的に鮮明に感知できているからである。そして、どんな偉い哲学者が何と考えようと、ぼく自身は「時間は〈今〉という一瞬の連続系」と思っている。〈今〉という一瞬一瞬が積まれてきたのが現在に至るまでの過去。過去を振り返れば、その時々の〈今〉を生きてきた自分を俯瞰できるというわけだ。未来にはこうしたおびただしい〈今〉が順番に並んで待ち構えていると想像できなくもない。

もちろん、感知できている過去は脳の記憶の中にしかない。記憶の中で再生できるものだけが過去になりえている。記憶の中にある過去に、次から次へとフレッシュな〈今〉が送られていく。時間の尖端にあるのは現在進行形という〈今〉。それは、一度かぎりの〈今〉、生まれると同時に過去に蓄積される〈今〉である。ぼくたちは、過去から現在に至るまでの時間を時系列的に感知しながら生きていると言える。なお、記憶の中にある過去は体験されたものばかりではない。知識もそこに刻まれている。

もうこれ以上考えるとパニックになりそうなので、都合よくやめることにする。まあ、ここまでの思考の成果を何かに生かそうと思う。人生における〈今〉は一度しかなく、誕生と同時に過去になる――これはまるで「歴史における人生」の類比アナロジーではないのか。こう考えてみると、月並みだが時間の価値に目覚めることになる。いや、煎じ詰めれば〈今〉の意味である。つまらない〈今〉ばかりを迎えていると、記憶の中の過去がつまらない体験や情報でいっぱいになる、ということだ。 

選択の向こうにある選択

別に難しい話を書くつもりはないが、難しい話になりそうな予感もある。

出張に行く時、2冊の本のどちらを持っていくか。悩むほどではないが、少し迷う。しかし、そんな迷いに意味がないことがすぐにわかる。文庫本ならどちらも鞄に入れればすむからである。次に店に入る。A定食かB定食か。まったく内容が違っていれば迷うことはない。しかし、焼鳥店のランチで8種類も鶏料理の定食があると選択は容易ではない。それでも、迷わない方法がある。メニューの最上段のみがこの店の定食であって、残りの7種類を「なかったこと」にすればよい。


一昨日松江で講演して、夜遅くに米子に入り深夜まで気心の合う人たちと談笑した。翌日、午前10時前にスコールのような集中豪雨があり、駅に行けば特急が20分遅れているという。岡山で乗り継いで新幹線で新大阪へ帰るつもり。岡山での乗り継ぎ時間が10分ほどなので、手持ちの切符ののぞみには間に合いそうもない。

ここで一つ目の選択の岐路に立つ。どうすればいいか? この米子駅で駅員に尋ねるか(A)、それともそのままにしておくか(B)。特急が遅れているから時間がある。〔A〕を選択した。「岡山発ののぞみには間に合わないが、別の列車の指定に変更してもらえるのか」と尋ねた。若い駅員は「はい」と答え、「特急が何分遅れるかわかりませんから、とにかく岡山に着いてから変更手続きしてください」(C)と付け加えた。そうすることにした。

名物あごの竹輪を2本買ったものの、手持ちぶさたなので改札を通ってホームに入った。ホームの最後列に行くと、遅れている特急にこの駅から交代する車掌が立っていた。念のためにこの人にも聞いてみた(この人に聞くか聞かないかも選択の一つ)。同じような答えならそれでよし。ところが、「支社が違うので連絡や調整に時間がかかる。岡山での乗り継ぎ列車もすぐには決まらない。まだ特急が来ないから、今すぐ「岡山-新大阪間」の切符を変更されたほうがいい」(D)と、まったく別のアドバイスが返ってきた。

ここで二つ目の二者択一の岐路。岡山で手続きするか(C)、それとも今すぐに変更するか(D)。〔C〕だと変更を先送りすることになる。〔D〕なら余計な心配は無用だ。しかも、さらに遅延するようなことがあっても、もう一度岡山で変更することもできる。〔D〕は〔C〕の対策をも含んでいる。ゆえに〔D〕を選択した。改札を出させてもらい、みどりの窓口で変更手続きをした。もちろん、同じ特急に乗車する人たち全員がその選択をしたわけではない。

結論から言うと、どっちの選択でもまったく問題はなかったのである。倉敷あたりで車内放送があり、乗り継ぐ新幹線の列車が告げられた。その列車はぼくが変更したのと同じであった。新大阪には当初予定よりもおよそ30分遅れで到着した。


別に命にかかわるようなことでもないのに、いったい何を選択しようとしていたのかと、ぼくは考えたのである。あることをを選択して別のことを捨てるのは、何か根拠があってのことだ。切符変更を今すぐにするのか、あるいは乗り継ぎの時点でするのか――この選択にあたっての根拠は何だろう。安心? 面倒回避? 時間があるから? いや、そもそもこの二つの選択に対峙するのは、いったい何のためなのか。この選択の結果、ぼくは「どんな未来を選択」しようとしたのか。気恥ずかしくなるような表現だが、ちょっとでも先の未来を考えるからこそ人は選択するのだろう。

実は、「遅れるのはやむをえないが、なるべく早く大阪には戻りたい」という目的をぼくは選んだのだ。そんなことは当たり前のように思えるかもしれないが、「遅れてもいいか。岡山でメシでも食って帰ればいい」という、表に出てこなかった選択だってありえたのである。そして、「なるべく早く大阪に戻りたい」という選択の向こうには、おそらく何らかの思惑なり目的があって、その思惑や目的も別の選択肢を捨てて選ばれたものに違いない。こうして、選択の連鎖は続く。ちょっと先の視点からぼくたちは現在を選んでいるのである。

過去は現在に選ばれる

塾生のT氏が、「過去と未来」についてブログに書いていた。この主張に同感したり異論を唱えたりする前に、まったく偶然なのだが、このテーマについてアメリカにいた先週と先々週、実はずっと考え続けていたのである。明日の夕刻の書評会で「哲学随想」の本を取り上げるのだが、これまた偶然なことに、その本にも「過去と未来、そして現実と仮想」というエッセイが収められている(この本は帰国途上の機中で読んだ)。

未来とは何かを考え始めるとアタマがすぐに降参してしまう。T氏のブログでは「未来は今の延長線上」になっているが、仮にそうだとしても、その延長線は一本とはかぎらない。未来は確定していないのだから(少なくともぼくはそういう考え方をする)、現在における選択によって決まってくるだろう。その選択のしかたというのは、それまでの生き方と異なる強引なものかもしれないし、過去から親しんできた、無難で「道なり的な」方法かもしれない。未来はよくわからない。だからこそ、人は今を生きていけるとも言える。

では、過去はどうだろうか。カリフォルニア滞在中に学生時代に打ち込んだ英語の独学の日々を再生していた。その思い出は、アメリカに関するおびただしい本やアメリカ人との会話を彷彿させた。もちろん何から何まで浮かんできたわけではない。過去として認識できる事柄はごくわずかな部分にすぎない。しかし、なぜあることに関しては過去の心象風景として思い浮かべ、それ以外のことを過去として扱わないのか。ぼくにとっての過去とは、実在した過去の総体なのではなく、現在のぼくが選んでいる部分的な過去なのである。


現在まで途切れずに継承してきた歴史や伝統が、過去に存在した歴史や伝統になっている。現在――その時々の時代――が選ばなかった歴史や伝統は、過去のリストから除外され知られざる存在になっている。別の例を見てみよう。自分の父母を十代前まで遡れば、2の十乗、すなわち1,024人の直系先祖が理論上存在したはずである。だが、ぼくたちは都合よく「一番出来のいい十代前の父や母」を祖先と見なす。ろくでなしがいたとしても、そっち方面の先祖は見て見ぬ振りしたり「いなかった」ことにする。自分を誰々の十代目だと身を明かす時、それは過去から千分の一を切り取ったものにすぎない。

過去の延長線上に現在があって、現在の延長線上に未来がある――たしかにそうなのだが、それはあくまでも時間概念上の解釈である。タイムマシンは無理かもしれないが、人は過去と現在と未来を同時に行き来して考えることはできる。生きてきた過去をすべて引きずって現在に至ったのかもしれないが、その現在から振り返るのは決してすべての過去ではない。現在が規定している「一部の過去」であり、場合によっては「都合のよい過去」かもしれない。

過去のうちのどの価値を認めて、今に取り込むか。どの過去を今の自分の拠り所にするのか――まさにこの選択こそが現在の生き方を反映するのに違いない。現在が過去を選ぶ。この考え方を敷衍していくと、未来が現在を選ぶとも言えるかもしれない。こんな明日にしたいと描くからこそ、今日の行動を選べているのではないか。いずれにしても、現在にあって選択の自由があることが幸せというものだろう。