「暗黙の前提」という曲者

毎日新聞 見出しの誤読.jpgディベートやロジカルシンキングを指導してきた手前、論理もしくは論理学のことは多少なりともわかっているつもりだ。よくご存じの三段論法などもこのジャンルの話である。

推論の末、ある結論が導かれる。たとえば「南海トラフ地震が発生すると……という結果が予測される」という具合。結論を到着点とするなら、出発点は何か。それを「前提」と呼ぶ。導いた結論に妥当性を持たせたければ、前提が満たされる必要がある。
わかりやすい例を挙げると、「生卵は割れやすい」と「コンクリートの床は硬い」という二つの前提から、「コンクリート床の上に生卵を落とすと割れるだろう」という結論が導かれる。反証できないことはないが、おおむねこれでいいだろう。結論は前提からのみ導出される。ある日突然気ままに発生するわけではない。

多くのメッセージは、受け手側の知識を前提として発信される。「うちのポチはお手をしないのよねぇ」と唐突に発せられたメッセージは、「ポチとは犬であること」を聞き手が理解しているものと見なしている。だから、もし「ポチという名の亭主」のことだったら、話は通じない。このように、前提が明示されない場合でも、経験を多少なりとも積んできた成人が共有している共通感覚や常識を見込んでいる。
写真は十日前の新聞の一面である。「35市町 庁舎浸水」の大見出し。ぼくが初級日本語学習途上の外国人なら現実として読むだろう。もっと言えば、「南海トラフ地震」が自分の知らぬ間に起こったと思うかもしれない。そこには「想定」や「シミュレーション」という文字が見当たらない。余談になるが、動詞で書くべきところを体言止めで代替すると、読者の行間読解の負担が大きくなる。
かと言って、前提のことごとくを書き出していたらキリがない。生卵が割れやすいことをいちいち書いてから証明して結論を導いてはいられないだろう。だから前提を省く。だが、それは「みんなわかっているはずだ」という同質的社会の甘えにほかならない。異質的社会ではコンテンツをことごとく列挙する傾向が強いのである。
前提をくどいほど確認せずとも「ツーカー」でやりとりできれば楽である。しかし、そんな楽に慣れてしまうから、論理的コミュニケーションが上達しないのだ。前提を語り尽くさぬ美学に惹かれる一方で、前提を暗黙の内に封じ込める独りよがりを戒める必要もあるだろう。

真偽を確かめる方法

推論や証明は直球で論じると不粋なテーマになってしまう。そうならないよう、肩の凝らない、気楽なエピソードを紹介したい。

初心者対象のディベートの勉強会をしていた頃、英国で出版された“Make Your Point”という中学生向けのテキストを参考にしていたことがある。議論の演習を目的としたもので、30の命題が設けられている。「美か知か」や「学生はアルバイトをすべきか」や「自動車―祝福か呪いか」などのテーマについて質疑応答をおこない、賛否を考え、最終的にフリーディスカッションで締めくくるという体裁に編まれている。英文もやさしく、よくできた本である(初版は1975年。手元にあるのは1987年版の11刷)。その本から「若い科学者: 残酷、それとも好奇心?」というテーマを取り上げてみる。次のような導入が書かれている。

蜘蛛にとても興味のある生徒がいた。「蜘蛛には耳がないようである」と「蜘蛛にはたくさんの足がある」という二点が気に掛かっていた。ある日、「蜘蛛には特別な足があり、それで聞いているに違いない」とひらめいた。そして、生物の先生にこのことを話してみたのである。「それはおもしろい理論だね。でも、証明するには実験をやってみないと」と先生は言った。少年は実験をすることにした。


その実験が常軌を逸しているのだが、フィクションだと思えば許せる。少年が試みた実験の手順は下記の通りであった。

実験目的   :  蜘蛛が足で聞いているかどうかを調べる。
使用器具   :  鋭利なナイフ、蜘蛛、テーブル。

実験(i) :  テーブルの中央に蜘蛛を置き、「跳べ!」と命じた。
結果(i) :   蜘蛛は跳んだ。

実験(ii):   蜘蛛の足をナイフで切り落とし、蜘蛛をテーブルに戻し、「跳べ!」と命じた。
結果(ii):   蜘蛛は跳ばなかった。

さて、以上の実験と結果から少年はどのように推論して結論を導いたのだろうか。彼の仮説「蜘蛛には特別な足があり、それで聞いているに違いない」は次のように証明されたのである。

結 論  : (足を切り落とした二度目の実験で)蜘蛛が跳ばなかったのは、「跳べ!」という指示が聞こえなかったからである。ゆえに、蜘蛛の足には聴覚がある。


残念ながら、少年が試みた証明は事実に反している。専門家やぼくたち一般人が承知している事実に、である。蜘蛛は足で音を聞いていないことをぼくたちは知っている。いや、それが事実かそうでないかを棚上げしても、この実験では不備が多すぎることを感知できる。蜘蛛は人間が発する「跳べ!」を解せるのか、「跳べ!」に対して跳んだのは偶然ではないのか、仮に「跳べ!」を聞いて意味を解しても、足を切り落とされたら跳びたくても跳べないではないか……。

ぼくたちの素朴な疑問に対して少年は必死に答えるだろう。ぼくたちが執拗に検証すれば少年は反論もするだろう。しかし、彼の証明は空しい。実験は不完全であり、既知の事実を覆すだけの新説を打ち立てるには到っていないからである。

ぼくたちが少年の証明を認めないのは、蜘蛛について、聴覚について、足について、跳ぶことについてすでに知っているからである。ぼくたちには経験と知識において、少年よりも一日の長があるように思われる。しかし、まったく経験も知識も持ち合わせないテーマの実験に対してはお手上げである。自力で真偽を確かめるすべはないから、真偽を権威に委ねざるをえない。そして、ぼくたちが頼りにしている権威が専門分野に関して何でもかんでもお見通しというわけではないことを知っておくべきだろう。

教訓:「よく知っていることについて真偽を確かめることはできる。あまりよく知らないことについては確かめるのは困難である。」