外国語のこと

議論・交渉・教育と、英語に関しては二十代からかなり高密度に接してきた。併行して20年以上英文ライティングのキャリアを積んだので、書くことと話すことにはあまり不自由を感じることはない。但し、読むことになると、現地で生活しながら学んだわけではないので、慣用句てんこもりの文章やディープな文化的テキストは苦手である。もちろん、知識のないテーマについて書かれた文章には相当手こずる。但し、これは英語に限ったことではなく、日本語でも同様である。精通していないことは類推するしかない。

『英語は独習』という本を書いた手前、外国語独習論を撤回するわけにはいかない。単なる意地ではないことを証すために、その8年後にイタリア語を独習してみた。イタリア語には若干の素養があったものの、五十の手習いである。凝り性の飽き性なので、短期集中あるのみ。一日最低1時間、多いときは56時間欠かさずにCDを聴き音読を繰り返した。文法は英語の何十倍も難解で嫌になってしまうが、ほとんど文字通りに発音できるので音読には適した言語だ。

だいたい3ヵ月の独習でおおよその日常会話をこなせるようになった。現地に行くたびイタリア語で通すことができる。しかし、イタリア語から遠ざかってからおよそ3年後に中上級レベルの物語のCDを取り出して聴いてみたが、だいぶなまっていた。語学のブランクはリズム感から錆び始める。取り戻すためには、原点に戻ってスピード感のあるCDを聴き音読に励むしかない。


学生時代にほんの少しドイツ語とフランス語を勉強した。旅の直前に半月ほど頻度の高いフレーズを読み込み、現地で必要に応じて使う。貧弱な語学力であっても、少しでも郷に入っては郷に従いたいと思うからである。けれども英語やイタリア語のようなわけにはいかないので、結局ほとんどの場面を英語で穴埋めすることになる。

覚えたての外国語を教本のモデル会話のように使えば相手に通じる。通じてしまうと、つい質問の一つもしてみたくなる。すると、相手は流暢に答える。今度は、その答える内容が聴き取れないのである。聴き取るのは話すよりもつねにむずかしい。「これいくらですか?」などの表現はどこの言語でもやさしい。使えば通じるが、数字がよく聴き取れない。「最寄りのバス停留所はどこ?」とフランス語で通行人に聞いたら、場所を指差してくれると思いきや、聞き返されている。やっとのことで「あなたはどちら方面に行きたいのか?」と聞かれていることがわかった。

と言うわけで、レストランに入ってもめったに尋ねない。「これとこれをくれ!」と言うだけ。「お薦めは何?」などと聞くと、さっぱりわからない料理の名前を言われるからだ。あまり得意でないドイツ語やフランス語ではぼくの使う疑問文は「トイレはどこ?」だけである。たいていの場合、「突き当りの階段を降りて右」などと言いながらも、トイレの方向も指差してくれるのでわかる。

11月にバルセロナとパリに行くことになったので、スペイン語をざっと独習し、フランス語をやり直している。イタリア語からの連想でスペイン語は何とかなりそうだが、フランス語のヒアリングは難関である。昔からずっとそうだった。あと一ヵ月少々でどこまで行けるか。

大量、集中、高速、反復

重厚長大じゅうこうちょうだい〉が遠い昔の幻影のごとく虚ろに見える。重くて分厚くて長くて大きいものが日本経済を支えた時代があった。造船、鉄鋼、セメント、化学などの産業が重厚長大の代名詞。半世紀前のこの国では「大きいことはいいこと」だったのである。しかし、高度成長時代の終焉とともに、そしてエレクトロニクスやサービス業の台頭もあって、重厚長大産業は急激に人気も業績もかんばしくなくなった。

代わりに主役に躍り出たのが〈軽薄短小けいはくたんしょう〉だ。多分に語呂合わせの要素もあるので、何もかもが軽く薄く短く小さくなったわけではない。省エネルギーや環境負荷の軽減の掛け声には軽薄短小のリズムがよく合ったようである。実際、身近な商品は多分にその方向にデザインされ製造された。とは言え、どれが軽薄短小かと自宅の中を見渡してみても、薄型テレビ、携帯電話、ノートパソコンくらいなものである。冷蔵庫や洗濯機は間違いなく大型化している。思うに、軽薄短小は目に見えない電子部品やソフトウェアを強く象徴したのだろう。

それはともかく、頼もしい雰囲気、語感という点で重厚長大に軍配を上げたい。「きみは軽薄短小な人だね」と形容されては喜べないだろう。環境負荷が大きくてエネルギーを食う重厚長大よりも優れているつもりで命名したはずの軽薄短小。なのに、なぜこんな響きの四字で命名してしまったのか。重↔軽、厚↔薄、長↔短、大↔小と、一文字ずつの漢字の単純反語を並べたのはいいが、もう少し知的に響かせる工夫があってもよかったのではないか。


ノスタルジックに重厚長大を志向する経済社会の復活を願うものではない。資源は希少であるから軽薄短小的に使うほうがいいだろう。ただ、ヒューマンリソースを同じように扱うことはない。個人の知的生産活動にあたっては軽薄短小に落ち着いてしまってはいけないと思う。読書も語学もその他の趣味も、大量かつ集中的に高速でおこなうのがよく、できれば何度も何度も繰り返すのがよい。何かに精通して生産的になるためには、大量、集中、高速、反復の要素が欠かせない。才能の有無にかかわらず、である。

大量、集中、高速、反復は、ムダな資源をダラダラと長時間浪費しないための心得だ。長時間取れないという前提、少なくとも決めた時間内だけの知的活動という前提に立っての条件なのである。大量とは、素材、すなわち情報に関わる条件である。多品種でも少品種でもいい、できるだけ多く扱い触れるようにする。以前3時間かけていたところを1時間でおこなう。これができれば、同時に集中と高速が実現していることになる。ぼくは速読の理解効果に関しては半信半疑の立場にあるが、速読の大量・集中・高速の効果を否定はしない。

しかし、勇ましい大量・集中・高速だけで終われば、バブリーな重厚長大の二の舞を演じてしまいかねない。知的生産活動には忍耐というものが必要だ。忍耐とは飽くことなく繰り返すことにほかならない。反復という単純行為は、大量・集中・高速で触れた素材を確実に記憶庫に落とす最上の方法なのである。記憶媒体や電子機器のなかった時代によく実践されたのは、音読であり紙に書くという身体的トレーニングであった。結局、読書にしても語学にしても、短時間で反復するほうが効果が上がっている。「継続反復は力なり」という格言を作ってもいいと思う。