比喩や類比の使いどころ

メタフォーやアナロジーなど、カタカナの魅力にほだされて、ことばの表現は修辞にあると錯覚したことがあった。弁論術や説得術を学んだ人たちにもよく似た経験があるに違いない。比喩は楽しいし、見事にはまれば効果的である。比喩は直喩や換喩や隠喩などに分類されるが、とりわけ隠喩の芸が細かい。この隠喩がメタフォーと呼ばれるものだ。

「うちには手足がいないんだよねえ」とこぼす経営者は隠喩を使っている。経営者が語るから手足は社員のことである(自分は「頭」のつもり)。社員は社員でも、おそらく機動力ないしは実働部隊を意味しているのだろう。なるほど、比喩はわかりやすさを目指すが、テーマとは別の〈参照の枠組み〉を使うので、意図に誤差が生じる場合も当然ありうる。隠喩と似ているのが、類比アナロジーである。類比は〈ABCD〉という構造を持つ。「サル:木=弘法:筆」という具合だ。「サルも木から落ちる」と「弘法も筆の誤り」が類比されている。

「可愛いお子さん」と言いにくいときに「元気なお子さん」、「美人」と言いがたいときに「気立てのよい娘さん」と言うのも、ある種の比喩である。あまりにも使い古されたので、婉曲のつもりで「気立てがよい」と言ってしまうと、「不細工」が暗示されてしまう。気をつけなければいけない。比喩や類比を総称して弁論の世界や文学では〈修辞法レトリック〉と呼ぶ。古代ギリシアから受け継がれてきた伝統的な言論技法である。効果的だが適材適所の技もいる。つい最近、新総理がいきなり「比喩のデパート」と形容したくなるほど三連発したので、正直驚いた。


まずは「ノーサイドにしましょう、もう」から始まった。ラグビーをよく知らないぼくでも一応わかる。しかし、「もう終わりにして握手をしましょう」という表現に比べて、どれほどわかりやすくなったのか、疑問が残る。「ノーサイド」という語感に何となくスマートさを覚えた知り合いもいるが、これがラグビーの試合終了のことであり、試合が終了した時点で敵味方は関係ないという知識を持ち合わせている老若男女は多くない。仮に意味がわかるにしても、党内に敵味方を想定しての比喩を国民に聞かせるべきではない。

この比喩に続いて登場したのが「泥臭いドジョウが金魚のまねをしてもしょうがないじゃん」である。相田みつをにそれらしい一文があると本人が言った。相田みつをの作意は知らないが、これも自身とドジョウの類比に惚れ込んだ結果の勇み足と言わざるをえない(勇み足は相撲の比喩)。ドジョウは泥の中に棲んでいるが別に泥臭くはないし、金魚を食糧にする気はないがドジョウなら食ってもいい。

ドジョウが金魚よりも下位もしくは劣等という意味で使っているようだが、それなら金魚が誰なのか、どんな存在なのかを明らかにしないと、比喩は完結しない。つまり、金魚を特定しないのならわざわざ金魚を引き合いに出す必要はなかったわけで、単に「私はドジョウのように泥にまみれるつもりで政治に責任を取っていく」という、直喩一本で十分だった。

最後に繰り出した比喩が「党幹事ミッドフィルダー論」である。ノーサイドを使ったのだから、ずっとラグビーで押し通せばいいのに、今度はサッカーだ。攻守兼備のミッドフィルダーにたとえていてほんとうにいいのだろうか。「局所ばかりでなく全体を見渡せる政治手腕を発揮してもらいたい」とストレートに表現すればすむ。野球の監督が「土俵際でうっちゃりました」と相撲用語を使うのに違和感があるように、政治家がラグビーだの、ドジョウだの、サッカーだのとたとえるのは場違いだ。もしかすると、党内にラグビー好き、ドジョウ鍋好き、サッカー好きがいたため、党内融和のためにバランスよく比喩を使ったのかもしれない。

新総理はレトリック過剰な弁論術を学んだのだろう。だが、政治は比喩の前に現実であることを強調しておこう。なお、本ブログは政治論ではない。あくまでもレトリックの適材適所の話である。念のため。

「絵になる話」のための演出

初めての試みだったそうである。ぼくにとっても初めての体験だった。昨日の講演は美術館。場所は栃木県の文化の森に建つ宇都宮美術館だ。階段状の講義室が会場で、演台の置かれたステージが一番低い構造になっている。上目線ではないので、話しやすく聴いてもらいやすいしつらえになっている。

美術品を蒐集する美術愛好家ではない。だが、なまくら四つではあるものの美術一般に惹かれて生きてきたぼくである。館内に足を踏み入れた瞬間、わくわくし始めた。十年ほど前、研修が明けた翌日にこの美術館に連れてきてもらった。都会の雑踏を完全に遠ざけているので、アート鑑賞とちょっとした散策にはもってこいの立地である。

講演が終わって、講演内容に後悔はしていないし大きな失点もなかったと自己採点している。しかし、いつものように「もっと工夫する余地はなかったか?」と自分に詰め寄れば、ないことはない。環境、アプローチ、ファサードと近代美術館にふさわしい舞台だったのだから、もう少し絵になる演出ができたのではないか。いや、ハードウェア的には無理。だが、「絵になる話、話し方」ができたかもしれないと振り返っている。


演題は『マーケティングセンスを磨く』。愉快ネタや美学的タッチも仕掛けてあるのだが、やっぱり実学的テーマである。ノウハウ系の話は、どちらかと言うと、ドキュメンタリー写真のような構成になりがちで、なかなか「絵になる構図の話」にするのが難しい。会場が美術館らしいということは承知していたが、駅まで迎えに来てもらえるので、さほど意識がそこに向いていなかった。これからはTPOをもっとよくチェックする必要がありそうだ。

絵を描くための材料とマーケティングツールの対比、絵画技法とマーケティングの方法論、キャンバスと市場、構図と戦略、額縁と囲い込み、作品と広告、鑑賞と価値創造……100パーセント即興では無理かもしれないが、一週間前にこのような類比をしておけば、もっと色彩感が横溢する空気を醸し出せただろう。実学マーケティングもアートとのコラボレーションによって親しみやすくなる可能性はある。

「話が絵になる」。これには二通りの意味がある。話の中身・話し手・立ち居振る舞いや小道具・照明など演劇的印象を与えるというのが一つ。もう一つは、音の組み合わせであることばが文になりストーリーになり、やがて絵になって見えてくるという効果。講演における来場者を、聴講者、聴衆、受講者などと呼ぶが、「講演を観てもらう」という「観客」としてもポジショニングしてみたいと思う。