テーマは繰り返す?

先週の土曜日から、その日のブログで取り上げた多様化と高度化をずっと追いかけている。追いかけていると言っても、本を参照したり誰かと議論したりして深めているわけではなく、殴り書きのごとく自分の考えをメモしているだけだ。少しまとまったので、今日か明日に取り上げようと思っていた。その矢先に、年末恒例の「身辺整理」をしていたら十数冊の懐かしいノートが出てきた。これはまずい。

ノスタルジーという怪獣は想定外の時間を好物とし、仕事の邪魔をする。案の定、仕事と時間はノスタルジーの餌食になった。誘導された先は、199410月~翌年1月の観察やアイデアを記した発想ノート。1027日のページに次のような文章が書いてある(当時43歳)。

自分の考えていること、知っていることを文章にしたため、ある程度書きためていくと、テーマの繰り返し・重複に気づくようになる。同じ火種を消さずに頑張っていると安心できる反面、これは一種のマンネリズム、成育不足ではないかと危惧する。次のステップに上るには従来以上のエネルギーが必要だ。同じテーマでは芸がない。しかし、違うテーマを取り上げて書き続けるには悶々とした日々を送らざるをえない。新しいテーマを追いかけるのは億劫である。こういうときは、発想の転換という生ぬるい方法ではなく、環境を激変させるしかないのだろう。

この14年前のメモを読んで、現在と似通った心理に気づいた。未だに成育不十分ではないかと少しがっかりしている。


十数ページとばして1121日のメモへ。さらに愕然とする。時代の類似性なのか、ぼくの思考回路の限界なのか。

なかなかシミュレーションの難しい時代である。(……)人間の欲求・行動・思想がこれほど多様化してくると、どの人間の何を読めばいいのかさっぱりわからなくなる。宇宙の摂理や自然現象や社会構造の暗号を解読できても、人は人を読めなくなってしまい、先行き不透明な時代の近未来が見えていない。いま、人々は最大公約数を見失った己の能力に落胆している。トリやケモノが有する本性的予知能力を羨むばかりである。

週末から解き明かそうとしていたのは、実は、「多様化が最大公約数の喪失につながっている論点」だったのである。つまり、昭和30年代や40年代には「不特定多数の大部屋市場」というのが存在して、「国民的」と冠のつく流行商品やヒット曲がどんどん誕生した。にもかかわらず、バブル崩壊後の多様化市場においては、市場はいくつもの小部屋に分かれ、小部屋を横断する共通関心事が激減した――というような話。

テーマは繰り返す? たぶんそうなのだろう。時代と自分のどちらもが繰り返しているに違いない。そして、たぶん繰り返すことそのものは悪いことではないのだろう、そこにいくばくかの進化さえ認めることができれば……。     

「誰にとって」という基本的な視点

私塾の最終講で「マーケティングの古典」を紹介し、現在にも生かせる普遍的な考え方や有効性を探ってみた。一時間ちょっとの講義のあと、三人の塾生に自社のマーケティング戦略について発表してもらった。一事例につき、発表15分、他塾生からの質疑応答10分、5班に分かれての事例討議が10分、各班からのコメント発表2分、ぼくの総括講評が5分という流れである。

事例の発表や意見交換を通じて、アタマではわかっていても、なかなか実践できない事柄がいかに多いかということに気づく。それは、ぼく自身にとっても歯がゆくも困難なハードルである。しかし、みっちり5時間半の中で、成功図式とまでは言えないまでも、成功するために踏まえるべきパターンらしきものがシンプルに浮かび上がってきた。


市場にはいろいろなニーズやウォンツが渦巻いている。なくては困るモノやサービスへのニーズから、なくてもまったく困らない贅沢なモノやサービスへの欲望に至るまで、消費のステージが何段階もある。そして、すべての段階において、消費行動の多様化と高度化は著しい。消費行動の多様化は「顧客の絞り込み」を求め、高度化は「イノベーション」を求める。したがって、企業のプロフェッショナルにとっては「誰のために、どのような新しいモノ・サービスを提供できるか」が命題になってくる。これが、よく知られた「ポジショニング発想」である。

もう一つ、基本の基本となるのが、「ユニーク・セリング・プロポジション(Unique Selling Proposition=USP)」。「固有の売りのうたい文句」というニュアンスになるだろうか。もう半世紀も前に生まれた、「この商品を買えば、こんな利点がある」というマーケティングのコンセプトだ。この考え方は後々に「自他の差別化戦略」につながってくる。

たとえば、二店の焼鳥屋がいずれも「ジューシーで歯ごたえのよい肉質」をアピールしたら、もちろんそのことは利点ではあるけれども、どちらの店を選ぶかという決定要因にはならない。雰囲気の良さを想像させる店名、店構え、旨さを際立たせるタレや塩、価格など、他店にない固有の利点を認知してもらわねばならない。「この店に入れば、ここが違う」という差異化のためには、どの顧客にとっての利点なのかというポジショニングも絡める必要がある。


カフェのRサイズ200円、Mサイズ250円、Lサイズ300円。サイズの呼び方や値段はそれぞれ。これは端的に三種類のニーズに対応している(つもり)。価格とサイズ案内のMサイズのところには「Rよりお得なサイズ」と書いてあり、サイズのところには「さらにたっぷりサイズ」とある。いずれの文言も「利点」を訴求している(つもり)。

だが、人間心理の研究不足である。コーヒーは嗜好品である。だから50円払ってRにして「お得なサイズ」という思いにはならない。「どうせなら多めに」という顧客もいるが、最初からRに決めている客には店側が訴えるMLの利点は伝わりにくい。嗜好品は、量が多ければ多いほどいいというものではないからだ。これは、昼にざる蕎麦を食べに行って、50円アップで大盛にするのとはちょっと違う。一般的に「増量または減額」が得の理論だが、商品によって変化する。エステやマッサージは「時間延長」が得、交通機関は「時間短縮」が得。とはいえ、顧客次第で絶対ではない。

私塾の塾生は、配付資料を2枚増量しても誰も感涙極まらない。枚数が少々減っても、あるページに目からウロコのすごいことが書いてあれば、そこに利点を見い出す。「本日は特別に講義2時間延長のおまけ!」と利点を売り込んでも、「定時に終わって、メシにでも行きましょう」という塾生が大半だろう。平凡な帰結になるが、時代の、特定の人間の、心理と具体的なニーズ・欲求に正確にマッチする利点探しを大いなる想像力で極めるしかない。「誰にとって」という視点から始めることは、証明済みの法則と考えてよさそうだ。