議論についての問答

議論に絶対に負けない法

『議論に絶対負けない法』という本がある。「絶対負けない」からと言って「絶対勝つ」わけではない。「引き分け」は負けないことであるから、連戦互角であってもかまわない。ここで話題にしたいのは「絶対」というものが、数学世界ならともかく、議論の世界にありうるかという点だ。「議論が上手になる方法」なら絶対という約束ではない。しかし、「絶対負けない」と言い切ってしまっては一つの例外も許されない。この種の本は議論に勝つ――あるいは五分に持ち込む――テクニックを指南しているが、はたして有効なのだろうか。


「こういう類の本って、ある程度役に立つのですか?」

「ちょっとずるいけれど、本によりけりと言うしかないね。でも、ディベートを何十年も指導してきたぼくの経験からすると、こと議論に関しては有効と言えるかもしれない気がする。なぜって、議論の巧拙は技術に関わることが多いからね。それよりも何よりも、どんな議論をするかによると思うんだ」

「へぇ。Aというテーマの議論には役立ち、Bというテーマの議論だとあまり役立たない、というようなことですか?」

「いやいや、議論のテーマのことじゃなくて、場のことさ。議論には大きく二種類の場があるんだ。当事者どうして決着をつける交渉という場と、第三者が判定を下す裁きの場。交渉には勝ち負けがつきものだけれど、同時に〈WIN-WIN〉や〈LOSE-LOSE〉などというのもある。交渉では利害をぶつけ合いながら、理想の着地点を目指すわけ。どちらも自分の言い分がある程度叶って満足することもあるし、どちらも不満足だけど手を打つという場合もある。交渉が成立してもいろんな結末があるんだね。もっとも決裂のほうが常ではあるけれど……。いずれにせよ、当事者どうしでは勝った、負けた、引き分けたという雰囲気は分かるものなんだ。裁判やアカデミックディベートのように第三者が議論を裁く場合には、判定結果と当事者の思惑が異なることがよくある。自分で勝ちを確信しても、あんたの負け! と言われるからね」

「では、当事者どうしで決着する交渉において、この『議論に絶対負けない法』などという本に期待してもいいんですね?」

「さっきも言ったように、知らないよりも知っているほうがいいという点で、そして、あくまでも議論を技術としてとらえるなら、ある程度有効だと思うね。但し、その当事者二人が仮にこの本をよく読んで交渉に臨むとしよう。著者は『絶対負けない』と言っているのだから、勝ち負けがあってはいけないはず。互角でなければならない。しかし、そんなことは稀で、ふつうは一方が勝ち、他方が負ける。なぜ勝ち負けが生じるかと言えば、こんなことは当たり前のことだけど、二人の読者が持ち合わせている知識や経験、場数が差になるわけさ」

「ありえない想定だと叱られそうですが、この本で習得した知識も同じ、他の知識や経験、場数もすべて同じと考えたら、どうなるんでしょう?」

「そうすると、声の大きい方やコワモテや余裕のある方が勝つかもしれない……」

「いえいえ、もう何もかもすべてが同じ条件を備えた二人が、同じ理解度でこの本を読み、交渉のテーブルに就けば……と仮定すれば?」

「となると、その二人は完璧に同一人物ということになるね。つまり、きみが仮定しているのは、自分と自分が議論したらどうなるかってことだ。きみがXYという二者択一の岐路に立つ時のことを考えてみたらいい。XYは同時に叶わない。そう、引き分けはない。Xを選べばYを捨てる、Yを選べばXを捨てる。一人議論の挙句、X支持のきみかY支持のきみのどちらかの意見が通り、他方が却下される。きみは勝利し、同時に敗北する。XYを選んだ瞬間、きみは議論に関して自ら判定を下したのだよ。そして、ここがたいせつなのだけれど、その判定をするためにはもはやきみは一人二役の当事者であり続けることはできない。すでに冷静な第三者になっていなくてはならないんだ」

「ちょっと頭が混乱してきました……」

「話を出発点に戻して、以上の話を整理してみよう。必勝テクニック系の議論の本は、技術的には有効である。しかし、勝敗などとは無関係ということだよ。そもそも議論というのは勝ち負けに意味があるのではない。議論をするという時点で、よい議論をすることが重要であり、なぜよい議論が重要なのかと言えば、より精度の高い意思決定をするためなんだ。議論の技術というのは自分のレベルを上げるためにある。相手がこうだからああだからなどというのは副次的なものさ。もっと言えば、人は言語によってものを考える、ものを考えるときに沈思黙考するよりは、声に出して議論するほうがうんと本質が鮮明になる。ぼくたちは議論を勝ち負けの道具のように思い、そして、この種の本に振り回されるけれど、言語の精度を高め、本質理解をするために議論の場というのは欠くべからざるもの、というわけなんだよ」

「議論は交わすものであって、勝つためのものではないということか……」

「そう、よりよく議論を交わすこと。それでもなお、結果は勝ったり負けたりだから。勝つための議論を志すよりも、よりよい議論を志すほうがうんと度量の大きい人物になれるとぼくは思うね」

苦労話、または不幸自慢

私の人生は苦労ばかり……

自分自身の苦労話をテーマに講演する人がいる。著名人にもいるし無名な人にもいる。ぼくの知人にもいる。誰の経験にも喜怒哀楽があり、一言で括り切れない凹凸があり精神的なひだがあるはずだ。「私の人生は苦労の連続だった」などと言って片付くものではない。おそらくいいこともあったはずなのに、苦労話のみを取り上げて教訓やセオリーを導く。苦労話と来れば、お決まりネタは生い立ちや人間関係や病気や金策など。しかも、たいてい悲劇として脚色される。

桂米朝が亡くなった直後、「落語家として師匠のどんな教えを受け継いでいきたいか」と聞かれ、弟子の桂ざこばが次のように語っている。

ぼくが小学校一年で親父を亡くしてアルバイトをした話をすると、「苦労したんやな」と言ってくださったんです。「でもな、世間にはもっと苦労した人がいる。あんまり、苦労を自慢話にしたらあかん」とおっしゃったのが心に残っています……。

こんな失敗や苦労をした、それを糧にして私は生き延びてきて今日に至っている……という話の展開だが、講師として迎えられるくらいなのだから、今は苦労を脱出しているに違いない。にもかかわらず、苦労話を売りにして活躍している講師が少なくない。義理で何度かその類の講演を聴いたことがあるが、教訓として記憶に残るものはほとんどなかった。そもそも成功か失敗かを問わず、ぼくは自分のキャリアにも他人のキャリアにもあまり興味がない。自分の過去を振り返り苦労を吐露するのはある種のノスタルジーだ。そんな哀愁ドラマは一人芝居していればいいのである。


「苦労を自慢話にしたらあかん」のは見苦しいからであるが、何よりもまず、生き方として粋ではないのである。もし苦労話をするのなら、喜劇仕立てにしてもらいたい。そもそも苦労とは、困難に直面して必死にもがき肉体的・精神的に多大な労力を費やすことだ。どんな困難か、いかに必死だったか、どれほどの多大な労力かは人それぞれ。世間的には苦労と呼べないほどのことなのに大仰に扱って涙ながらに語るか、他人から見ればのっぴきならない苦労を苦労だと思わずユーモアで自戒するか……ぼくは後者を粋な生き方だと見立てているが、残念なことに前者の話のほうが受けがいい。

ついでに辞書で「苦労話」を引いてみたら、「いかに自分が苦労してきたのかを、その経験とは何の関係もない他人に語ること。不幸自慢とも言う」とある。的を射た定義である。「個人的な苦労話をヒントにしていただければ幸いです」というスタンスの苦労人もいるだろうが、苦労話はほとんどの場合、本人の述懐に終始し、聴衆へ橋が架からない。ゆえに、聴いておしまい。余韻はめったに翌日まで残らない。いくばくかの感動を覚えるのは、自分に重ね合わせるからではなく、話に瞬間的に感情移入してしまうからにほかならない。苦労体験を積んで世事や人情に通じている「苦労人の話」と、己の責任で厄介事に巻き込まれた「運の悪い人の苦労話」との線引きをしておくべきである。

苦労人の話に耳を傾けるのを拒否しない。だが、苦労や努力の意味を理解せず、世間の人々がふつうに経験している程度の困難を、まるで自分一人の専売特許のように語る苦労話には辟易する。「あなた、苦労話以外にも語るに足る経験がおありなはずなのに……」と言いたくもなる。いや、一度だけ語るのならいい。誰を対象にしてもどこで話そうとも、苦労話が十八番おはこになっているのである。いつまでも苦労話の再現をするのではなく、苦労話を葬ることこそが近未来への展望につながるのではないか。話し手も話し手だが、苦労話の愛聴家もほどほどにしておくべきである。

ことばの揚げ足取り

コミュニケーションは意味を共有することである。わかりやすく言えば、発信者が伝えようとしたメッセージの意味が受信者によって理解されること。もちろん、伝えるにはそれなりの技術が必要であり、理解するためにはそれなりの〈参照の枠組み〉が備わっていなければならない。残念なことに、コミュニケーションという人間の根幹的活動は、いのちに関わるにもかかわらず、いつも十分に機能してくれるわけではない。表現をよく練って伝えたつもりが、思いのほか伝わらないのである。

公園のお願い(注意書き)

身近におもしろい例があった。遊び心で揚げ足を取ってみよう。標識はいきなり「お願い」という見出しで始まる。お願いとは誰かに丁寧に依頼する表現だ。はたしてここで伝えたいことはお願いなのか。お願いなのに、三行目に「禁止します」と強気に転じたのは、文を書いているうちに気が変わったのか。しかし、二つ目の文章は「ください」で締めくくっており、これはどうやらお願いのようである。

ここは公園である。お願いしている当局は「ここが公園である」ことを人々が分かっているという前提に立っている。さもなければ、サッカーやゴルフ、野球などが「いつでもどこでも誰にでも周囲に迷惑をかける球技」ということになる。言いたいことは、「公園でのサッカー、ゴルフ、野球などが迷惑である」ということだ。迷惑という表現はやや甘く響くが、「危険」とまで言い切る英断はできなかったようである。


さて、「サッカーやゴルフ、野球など」の「など」が曲者である。読み手たちの良識に甘えていることは明らかである。なぜなら、「など」に先立つ具体例(ここでは三つのスポーツ)から、読み手が他の禁止されるかもしれない球技を類推しなければならないからだ。周囲に迷惑となる球技はいくらでもあるだろうが、三つだけ挙げて「その他は常識的なご想像にお任せします」ということなのである。おそらくラグビーはダメだろう、ドッジボールもダメだろう、しかし、バドミントンはどうなのかとちょっと迷う。実際、この公園ではゲートボールは許されている(と言うか、推奨されてさえいる)。棒を用いるという点では野球に近く、硬い球を転がすという点ではゴルフに近いにもかかわらず。

二つ目の文章では「など」が消える。ずばり「犬」であり、犬だけに言及している。あなたたちが鎖を外して放し飼いするのは犬しかないでしょ、と決めつけている。羊や牛のことは伝達者の念頭にない。当局にとっては牧畜対象の動物などまったく想定外である。ひねくれ者はライオンやハイエナなら放し飼いしてもいいと解釈するかもしれないが、当局にとっては獰猛な動物などは論外なのである。「犬など」と書く必要をまったく感じなかったのは、公園で散歩をするのは人間と犬と相場が決まっているからだ。

周囲、球技、放し飼いには漢字が使われているが、迷惑は「めいわく」とひらがなで、鎖は「クサリ」とカタカナで、それぞれ表記されている。この標識の文章を読みこなすには小学校低学年の国語力では無理だろうから、おそろく小学校高学年以上を対象にしている。迷惑と鎖という漢字を読めないのではないかと危惧したのだろう。一つの配慮ではある。但し、日本語だけの表示であるから、お願いの趣旨を理解してもらう相手に外国人が含まれないのは言うまでもない。


ことばは難しい。一人で呟いたり詩歌を紡いでいる分にはなんとか扱えるが、誰かに意図や意味を伝えようとギアチェンジしたとたん、別の発想や表現や構造が必要になってくる。何から何まで伝えようとすれば、意に反して同語反復や疎通不全を招いてしまうのである。細やかなニュアンスを捨てて大意のみを伝えきるという覚悟がいる。だが、「公園内では球技禁止。動物の放し飼い禁止」と贅肉を削ぎ落として表現しても、言外の例外候補が無数に残る。球を使わないスポーツなら許容され、鎖にさえつないでいれば象を連れ込んでもいいのか……という具合に。

ことばの揚げ足を取り意味を逆手に取るのは詭弁である。注意書きなどは詭弁の前では非力なのである。コミュニケーションの協調原理は発信者側に強い負荷をかける。だからこそ、受信側に対してもメッセージ理解への協調努力を求めなければならない。つまり、「言及していない事柄が許容されているわけではない」ことぐらいわきまえるべきなのである。

陳腐なことば

『ニッポン景観論』(アレックス・カー)を興味深く読んだ。とりわけ日本人がこよなく愛するスローガンの話がおもしろかった。日本人はスローガンが好きであり、そのスローガンにお決まりの無難なことばを使いたがる。「ふれあい」を筆頭に、「文化」「交通安全」「人権尊重」「世界平和」「環境にやさしい」……などのキーワードが街を覆い尽くす。これに、あってもなくても誰も見向きもしない注意書きが加わり、街の景観価値を台無しにしてしまっているのである。

ダヴィデ像1+2

上の写真は同書から。左が本家フィレンツェのダヴィデ像と佇まい、右は「もし日本にダヴィデ像があれば」という仮定で著者が合成したもの。いや、これは仮想などではなく、間違いなくこうなると思われる。実際、「まちをきれいにしましょう」というスローガンが街そのものよりも目立っている景観地はいくらでもある。

本来五感に響くはずだった景観。それが、たった一つの注意書きで色褪せる。同じことは新しい考えについても言える。斬新な表現に魅了される一方で、たった一つのことばでメッセージが陳腐化する。ぼく自身、ありふれていて、しかも手垢まみれのことばを使った直後にハッとすることがある。ことばなら気づくからまだいい。それが発想や考えだったら、ハッとがぞっとに変わる。

他人の発想や考えがたとえマンネリズムであっても、なるべく領域侵犯しないようにしている。しかし、企画という職業柄、一緒に仕事をする仲間の陳腐なことばには神経センサーがつい反応してしまう。この時、自分自身がさっき使ったお定まりの文句にはひとまず目をつぶり耳をふさいでいるのであるが……。


言うまでもなく、陳腐化した表現や常套句を使わずに言語活動することは不可能である。けれども、そうしたことばを使いながらも、表現を組み合わせたり文脈上の工夫を凝らしたりして少しでも新鮮味を求めるべきだろう。安易に妥協してはいけないと自らを戒める一つの教えを思い出す。「新しき酒は新しき皮袋に」がそれだ。この名言自体が常套句になったきらいがあるので、やや複雑な気分で引用することにする。

「新しい葡萄酒を古い皮袋に入れようとはしない。そうするなら、皮袋は破れて酒は流れ出て、袋もまたすたれてしまう。新しい葡萄酒は新しい皮袋に入れる。そうすれば酒も袋も保たれる」
(新約聖書 マタイ福音書)

この故事は転じて、今では一般的に、新しい考え・思想には新しい表現や形式が必要であるという意味で使われる。つまり、伝えたい「何か」に新しさがあるのならば、陳腐なことばでまかなってはいけないという教訓である。

キーワードの一つ、「文化」ということばの陳腐性には当然ぼくも気づいている。何とか文化会館や何とか文化講座などあちこちで顕著である。これをカルチャーと呼び換えても平凡さは変わらない。文化ということばを使うたびにいくばくかの後ろめたさを感じるし、代替してくれそうな表現に辿り着けないのをもどかしく思う。もしぼくの伝えたいメッセージに文化以上の価値があり、それが従来の文化の概念と一線を画するのなら、文化で間に合わせてはいけないと思う。なぜなら、他人はありきたりの文化のことだと思ってしまうからである。けれども、やむなく文化で済ますことが多い。これは、ある種の言語的怠慢だと自覚している。

ドーナツ、あるいは言い換え問題

『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』という本は書評で知っていた一冊。書店で「ちら見」だけして買わずに帰ってきた。答えの分からない問題――あるいは既存の答えが存在しない問題――に対して、自ら解を捻り出そうという話。決して嫌いなテーマではないが、まあ読まなくてもいいだろうと判断した次第。

この命題は「ドーナツに穴があること」を前提にしている。ドーナツとは「小麦粉に砂糖、バター、卵などを加えてね、球形にして油で揚げる洋菓子」であり、穴の有無は枝葉末節のバリエーションに過ぎない。したがって、正確を期すならば、「リングドーナツの穴だけ残して食べる方法」とすべきである。昨日の朝にぼくがつまんだクリームドーナツには穴がなかった。最初からないものを残すことはできない。この本を買わなかった理由は、この命題に先立って「ドーナツとは何か?」が問われるべきだと思ったからである。

情報は、深層においてではなく、表層で受発信されるから、定義、すなわちことばの言い換えや表現に強く依存する。「太陽」と言うか「お日様」と言うか……社長と言うかCEOと言うか……「信号は赤だった」と点情報をぽつんと言って終えるか、それともその点情報から次の展開である「車は止まった」に目を付けるか。ことばの目の付け方がイメージを左右する。「つちやたび店」→「月星ゴム」→「ムーンスター」という社名の変遷は、情報の衣替えでありイメージの変容でもある。モノには拡張の限界があるが、ことばはいくらでも融通がききイメージを広げてくれる。

どんなことばにも多義が備わっているので、一語によって複数のよく似たモノや思いや状況の表現をある程度まかなうことができる。しかし、類語辞典をひも解けば、おびただしい類語が掲げられている。手元の類語辞典で【終わる】を引けば、品詞変化も含めて60ものバリエーションが紹介されていた。このような言い換え(あるいはパラフレーズ)が起こるのは、よく似た概念グループをわずか一語で束ねることがままならないからである。もちろん、類義語には共通の概念が横たわっている。たとえば空想と想像という二語には「いま知覚できていないことを思い浮かべる」という概念の重なりがある。その一方で、相互に代替不可能な固有の意味がある。たとえば、想像は経験を踏まえるが、空想は経験を必要としない、等々。その意味を使い分けねばならないからこそ、いずれの語も存在するのである。


ドーナツ

話をドーナツに戻そう。

「物事を体系的に扱おうとするなら、定義から始めよ」(キケロ)にならえば、まずはドーナツの言い換えに挑むことが問題解決の端緒になるはずだ。ドーナツを指し示して「これは何?」と無作為に人を選んで尋ねてみよう。

「ドーナツです」(現実主義的な一般人)
「あ、穴だ!」(異端児)
「輪以外の何物でもない」(抽象論者)
「穴が空いている洋菓子」(合理主義者)
「いわゆる一つのリングドーナツですねぇ」(長嶋茂雄)
「ドナーツ、大好き」(幼児)
「これはUFOに間違いない」(妄想家)
「周縁存在と中心不在」(懐疑的形而上学哲学者)
「○○堂の商品だね」(オヤツオタク)
「甘いもの、苦手なんですよねぇ」(意思疎通不全者)
「ドーナツという言語と写像関係にある世界の要素」(ヴィトゲンシュタインの末裔)

「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」と聞いて最初に浮かんだのが、何十年も前の中田ダイマル・ラケットの漫才の一コマである。

ダイマル 「ぼくはレンコンの穴が苦手でねぇ」
ラケット 「ほう、そしたらレンコンは食べへんのか?」
ダイマル 「いや、穴だけ残して食べてる」

正確ではないが、だいたいこんな感じのボケとツッコミだった。これで十分に答えになっているではないか……というのがぼくの直感である。穴が苦手であるなら、「ドーナツの穴だけ残して(ドーナツを)食べる」という命題自体がすでに一つの方法を示唆している。だが、穴が好きでたまらない人間にとっては穴を残すのは忍び難いに違いない。ドーナツも好き、穴も好きという者にとっては証明意欲に火がつく命題なのであろう。言うまでもなく、ドーナツにも穴にも関心のない者にとってはまったく響かない命題である。

時間とお金

時は金なり

「時は金なり」がテーマではないが、人口に膾炙かいしゃしたこの諺から話を始めることにする。

通常の感覚では時と金は別ジャンルである。別の概念なのに、同じだと言って知らん顔している。ベンジャミン・フランクリンが“Time is money.”と言ったらしい。ポツンとつぶやいたのか、ある文脈の中で語ったのかはわからない。仮に後者であったとしても、独立した主張として一人歩きして今日に到っている。

「時は金なり」に限らず、そもそも諺のほとんどは主張しか唱えない(「良薬は口に苦し」、「急がば回れ」、「雨降って地固まる」、等々)。もし諺に理由や説明を加えたら簡潔性が失われて野暮ったくなる。諺は覚えやすいのがいい。証拠も論拠も伴わないで言いっ放しだから、必然人によって解釈も変わる。シンプルな主張ゆえに、かえって明解性を欠く。したがって、どのように解釈されてもしかたがない。

「時は金なり」とは、①時間は貴重である、②時間は金銭と同等に価値がある、③金銭を浪費してはいけないように時間も浪費してはいけない、④ゆえに、時間を有効に使うべきである……こんなふうに解釈しなければならない理屈はない。時と金をイコールで結ぶことに馴染めないので、ぼくはこの命題には諸手を挙げて賛成しかねる。

諺に親しむのはいいことだ。しかし、主張だけ言い放って証拠や論拠に言及しない癖をつけてしまうのは考えものである。経験と知識が有機的に熟成もしていないのに、いかにも何事かがわかったかのように短文にメッセージを凝縮させるべきではない。また、若い頃は、諺のような切れ味を自分の弁舌に求める必要もない。冗長であることに居直ればよい。明快さには冗長さがつきまとうものだ。論理的に明快であるために、まずくどいほど多くを語らねばならないのである。


閑話休題――。「時は金なり」ではなく、冷静に順接の接続助詞「と」で時と金をつなぎたい。つまり、「時間とお金」である。冒頭で時と金は別ジャンルと書いた。但し、特徴的な共通点が一つある。時間もお金も約束事によって成り立っているという点だ。時に目盛りなどないが、みんなで「時を刻むこと」を取り決めた。こうして時間は時計や表示板というモノで認識できている。お金も紙幣や硬貨というモノで認識できるが、実は、これも価値につけた目盛りにほかならない。時も価値も見ることも触ることもできない抽象的な概念なのである。

「時=金」という主張が成り立つとするならば、いずれも取り決められた概念であるということ、そして、社会的に取り決めたのであるから、そこに何がしかのルールがあるということ、したがって、そのルールを守らなければ信用基盤が崩れるという点においてこそである。

日程を決める、期限を守る……ぼくたちは未来の時間を今日取り決める。未だ見ぬ将来の約束を今日結ぶのである。双方が同じ時間感覚を持つことはきわめて重要なのだ。約束を破れば双方の関係がひずむ。同様に、価値交換の単位であるお金は、支払う側にとっても受領する側にとっても、生活や仕事を成立させるための糧となり信頼の記号として機能する。時間とお金はつねにトラブルの原因をはらむと同時に、幸福や善にとって欠くべからざる要素なのである。

時間にルーズな者はお金にルーズである。お金にルーズな者は時間にルーズである。「決められた日に支払わない」という言い方には、時間とお金のルーズさが同時に表れている。この点においてのみ、「時は金なり」が成り立ち、同時に「金は時なり」とも言い得るのだろう。

ブームとリバイバル

かつて流行語大賞でトップ10に入賞した「マイブーム」は、今ではれっきとした俗語になっているそうである。他人や世間はいざ知らず、個人的に夢中になっている自分だけの流行。「マイ」も「ブーム」も珍しくないふつうの単語なのに、二つをくっつけると賞に値する新語が一丁出来上がる。

なかなかわかりやすい言い回しである。ただ、これまで使ったことはないし、これからも自分のことに関しては使わないと思うが、誰かのことについてなら、たとえば「つまり、それがきみのマイブーム?」などと使うかもしれない。いや、その誰かが目の前にいて、その人のブームについて語るなら、マイブームではなく、たぶんぼくは「ユアブーム」と言うだろう。彼や彼女のマイブームなら、きっと「ヒズブーム」や「ハーブーム」と呼んで正確を期す。

ある人を介して最近知り合いになったM氏に食事に誘われた。店では世間話に花が咲き、まったく口癖のようなものは感じなかった。食事後にもう一軒と誘われ、快く随った。その二軒目の店でM氏の雰囲気ががらりと変わる。かなりリラックスして弁舌さわやかになり、やがて口癖を連発し始めた。場が変わり応対する人が気の置けない人になり、酔いも手伝ってか、いつものペースを取り戻したに違いない。「わっかっるぅかな!?」を連発し始め、深夜まで十数回は耳に響いた。

古いギャグで松鶴家千とせに「わかるかなぁ~(……)わかんねぇだろうなぁ~」というのがあった。口癖がここに由来しているのかどうか知らない。「わかるかなぁ~」とつぶやくのではなく、「わっ、かっ、るぅ、かな!?」とスタッカート気味におどけて発声し、後段は言わない。暗に「わっからないだろうねぇ」という余韻は残る。ともあれ、聞き慣れない表現ではない。最初の数回のうちはさほどおもしろいとは思わなかったが、繰り返しというのは妙なもので、徐々におかしみのボディブローが効いてくる。これがM氏のマイブームらしいのである。いつも聞かされている人たちは、そのことを承知しているから、上手に笑って場の空気を白けさせない。


ぼくは多趣味の無趣味、多芸の無芸、雑学の無学、凝り性の飽き性……という具合だから、何事もブームのようでブームではなく、ブームでないようでブームでもある。これを言わねば気が済まないような口癖の自覚症状はない。最近は映画にちょくちょく行くが、まったくマイブームと言えるほどではない。行かないなら行かないで平気である。カフェや美術館には若い頃から行っているし、読書も文を綴るのも一つの習慣だから、ブームなどではない。何でも食べるので、いま特に嵌まっている食材や料理もない。

システム手帳2システム手帳1

最近、ノートを従来のものからシステム手帳にシフトした。変化と言えば、これが目新しい。ノートは四十年以上続いている習慣だから今さらブームではないが、二十数年ぶりに眠っていた手帳を今年から復活させ、バイブルサイズの6穴ルーズリーフを使うようになった。一過性の流行で終わる予感はなく、したがってマイブームではない。

ぼくの記憶では、システム手帳は1980年代の半ばからバブルが崩壊するまでの一時期に「みんなのブーム」になった。しかし、他の紙の媒体同様に、ITの隆盛の陰に隠れたか姿を消したかした。ご多分にもれず、ぼくもある人の勧めで買って使った。しかし、数ヵ月後には長年愛用してきた通常の文庫サイズのノートに戻し、以来昨年末まで続けてきた。

システム手帳に再チャレンジした動機は単純である。ルーズリーフでなく綴じたノートにメモを書くのは「時系列記憶」で探しやすいというメリットがあるものの、いざ活用する段になると複数のノートにまたがって類似情報を寄せ集めなければならない。これまではそうしてきたのだが、ちょっと疲れてきた。まあ、今までのスタイルを踏襲することに意地を張らなくてもいいだろう……ページを組み替えて関連メモを必要に応じて可変的に処理すれば生産性が上がりそうだ……と思った次第。いったん埃をかぶったモノや習慣を復活させる。これを「マイリバイバル」と呼ぶ。

無反応、つまり無責任

「責任」ということばはてっきり和製漢語だと思っていた。ところが、近代以降の翻訳語を調べてみたらそうではなかった。中国語には「责」ということばがある。ただし、わが国で使われた目ぼしい形跡はなさそうだ。

多数の和製漢語が明治以降に生まれたのはよく知られている通り。英独仏語の概念的な術語をやまとことばに置き換えずに、せっせと漢語に翻訳したのである。自由、哲学、恋愛などは和製漢語の代表格だ。

英語の“responsibility”やフランス語の“responsabilité“の訳語として新たに造語せずに、「責任」という語を拝借したのだろう。英仏語ともにラテン語の“respondere”という動詞に由来し、元々は「(何かに)応じる、答える、反応する」という意味だった。現代イタリア語にはほぼそのまま残っているが、二つ目のアルファベットが”e“から”i“になって”rispondere“と綴られる。

すべての英和辞典で“responsibility”という見出し語の筆頭に「責任」という意味が挙がっている。研究社の新英和中辞典は「自分が引き受けたり与えたりした仕事の義務を遂行する責任」と懇切丁寧な解説を付けている。しかし、遂行責任でいいのか。よくよく考えてみれば、責任という漢語には強さはあるものの、“responsibility”の定義としてはちょっとアバウトな気がする。「責任をとる」や「責任感」などという表現では、いっこうに責任という概念が鮮明になってこない。それが証拠に、「きみの言う責任とはいったい何か?」と尋ねてみればいい。ほとんど満足のいく答えは返ってこないだろう。


responsibility

まさしく今書いた「答えを返す」のが”responsibility“の本来の意味だった。これは「レスポンスする能力」のことである。反応する能力とは、打てば響くさまを示す。対話や行為にともなう人間関係において、相手の言動をしっかりと感受して何がしかの反応をしてみせることなのだ。それは一つの能力であり、その能力を発揮することを責任と呼んでいるのである。

常識レベルで言えば、プレゼントされたら「ありがとう」と反応するのも能力。能力がなければお礼の挨拶もできない。仕事上質問を受けたら、その問いに適切な応答を返すのが能力。相手が自分に働きかけてきているのに、御座なりな対応で済ませたり、不言や不実行という無反応でやり過ごしたりするのを無責任と言うのである。テニスや卓球でサーブを打ち返さなければ試合はおもしろくないが、それよりもまず、あのプレイヤーは能力がないと評価される。

他者からの依頼や問いや指示を包括して「刺激」と呼ぶならば、一つの刺激に対して必ず一つの反応を返すのが良識というものである。しかも、誰に対してもどんな刺激に対しても機械的な反応であってはならない。その刺激にのみ有効な反応をしてみせるほどの覚悟がいる。覚悟だからコミットメントであり責任なのである。この話は「他者―自分」という関係だけに止まらない。決意したにもかかわらず自分との約束を守らずに三日坊主に終わるのも、決意に対する無反応を決め込んでいるからである。

何をどう読むか

いい加減……欺瞞的……怠慢……こんなことばで形容したくなる人物がいるかと思えば、どこまでも真面目で几帳面、気の毒になるほど純粋な人物も少なからずいる。今日はあまりにも純粋な人たちが聞きたがる読書に関する質問を取り上げたい。

質問をした人たちからすれば、ぼくは物知りなんだそうである。物知りのことを博覧とも言うが、博覧と強記がくっついて「博覧強記」なる熟語が生まれる。強記とは「よく覚えている」ということだ。ただし、よく覚えていても、覚えていることを開示できなければ意味がない。知っていることを取り出してこその物知りだ。

講師をしている時のぼくは、聞き手に対して話し手を演じている。一応、話し手は聞き手の知らないことを知っていることになっている。当該テーマについては聞き手よりも知っているのは当然で、しかも黙っていては仕事にならないから、知っているかぎりのことを惜しみなく伝えるのは当然だ。他人様に褒めてもらってもぼくには自惚れている余裕などない。いつもどうすればもっと知の統合ができるのか考えて苦悶しているのだから。

merci 3

さて、その質問の中身だ。真面目で純粋な人たちは「ぼくがどんな本を読んでいるのか?」を知りたいと言うのである。いやはや、殊勝な心掛けである。しかし、読んでいる本のすべてを枚挙するのは不可能。当該研修に関係がありそうな参考文献は示せるが、いちいち何かを参考にしてテキストを編んだり話したりしているわけではない。それでも、コミュニケーションや仕事、企画や発想に役立ちそうな図書を書き出しているので、およそ100冊ほどの参考文献は示せる。しかし、たまたま講師を務めた初対面のぼくが読んだ本を参考にすることにいったいどんな意味があるというのだろう。


もしぼくが古典日本文学マニアなら、『古事記』から始まって井原西鶴の『世間胸残用』までを紹介するかもしれない。動植物マニアならファーブルの『昆虫記』やユクスキュルの『生物から見た世界』が愛読書だと告げるかもしれない。しかし、質問者はこの種の書物をぼくが読んでいるとか推薦するとかいうことは想定外のはずである。彼らは「読んでためになる本」を期待している。読んでためになる本とは何か。たいていヒューマンリテラシーに資するノウハウ本や実務書なのである。

もしすぐに役立ちそうな気がする本を知りたいのなら、その種の本をめったに読まないぼくに聞くのは間違っている。そもそもぼくにとって書物は、そこに書かれていることをぼくの記憶領域へ単純移植するための出所などではない。高校時代までに反吐が出るほど本の中身を覚えさせられたのに、実社会に出てからも何の義理があって同じことをしなければならないのか。好奇心に突き動かされて読みたい本を読めばいいのである。いや、できれば本など読まなくても困らないという前提のもとに読めばいい。

苅谷剛彦の『知的複眼思考法』に次の一文がある。

「本や論文から得た知識は、私には十分に定着しなかったようです。それでは、あれだけの文献を読んだことは役に立たなかったのか。なにも残らなかったのかというと、そうではない。知識に代わる『何か』が身についたといえるのです。それは、考える力――あるいは、考え方のさまざまなパターンを身につけたということです」

まったく同感である。不案内なテーマの本と知的格闘する。もっと簡単明瞭に言ってのけられることを、わざわざ小難しい概念を持ち出して論じる本によって脳に鞭打つ。誰かが書いたいい話を脳に格納するよりも、もっとわくわくする知的興奮が読書にはあるのだ。それを一言で言ってしまえば、自力思考の習慣を身につけるということにほかならない。さらに、その本のテーマである〈トポス〉――主張のありか――を見つけ出すことが読書の愉しみだ。それが、長い目で思想の基軸になってくれる。そのような意識があれば、いつか再生するかもしれないという上記のような一文に目配りができ、抜き書きするようになるのだ。そのノートをすぐにピンポイントで取り出せるかどうか、これは読書とは別の技である。

読む前に、読む

講演や研修後に本のこと、読書のことについて最近よく質問を受ける。そこで、思いつくまま二、三回書いてみようと思う。なお、小説の読み方などについて尋ねてくる人はいない。彼らは「ためになる本」の読み方に関心があるのだ。

ぼくは本をよく買う。およそ8割がたが古本。バーゲン日には前日まで500円から1,000円だったものが、200円や300円で買える。先週などは単行本セールで均一150円だった。まとめて10冊くらい買う。別々の日に買ったものをジャンルやタイトルで23冊ずつに仕分けておき、時間がある時に一気に読む。一気と言っても、全ページに目を通すような長続きしない方法は取らない。何ヵ所かにおおよその見当をつけておき、ここぞとばかりに数ページあるいは十数ページ単位で熟読する。七章のうち一、二章だけ読んで終える本などはざらにある。気まぐれに読む順番を決めるので、閉じたまま長い間出番を待つ本も稀ではない。

熟読しながら傍線を引き、もう一度読んでみようという気になれば付箋紙を貼っておく。考えているテーマと関連しそうなもの、そのテーマに奥行と幅が出そうな数行を見つければ、面倒を厭わずに抜き書きする。抜き書きしたからと言って、記憶に残るわけではないが、ノートにまとめておけば読み返しが容易である。読み返せば思考が触発されることもたまにある。この「たまにある」が起こるがゆえに、ノートに抜き書きするような手間暇のかかる作業が続けられる。

社会人なのだから、読まねばならない本などはない。「社会とつながるために読んでおくべきベストセラー」などという謳い文句を書店で見掛けるが、そんなものがあるはずもない。社会人だからと言って、社会の隅々とつながることもないし、第一、ベストセラーがそれを確証してくれはしない。学生時代は、読まねばならない本のために読みたい本を犠牲にしたが、仕事人は読みたい本を優先すればいい。理想だけを言えば、当面の仕事のために本を読むのではなく、気に入った本を読む習慣そのものが早晩仕事に役立つというのがいい。


空腹の技法と諷刺の芸術

無知の上に新たな知を重ねるのではない。新たな知は既知と組み合わされる。本の読み方などは既知の度合によって人それぞれに決まる。どんな本であっても、そこに書かれていることは読む前に少なからず分かっている。先週買った本の背表紙を眺めていたら、『空腹の技法』と『諷刺の芸術』の二冊がくっついた。異なったジャンルだが、書名のスタイルが似ている。この二冊を気ままに併読しようと思い立った理由を挙げるとキリがないのでここに書かない。ぼくの関心と知識と経験がそうさせたと言うほかない。いきなり読まない。「読む前に読む」のである。つまり、「本を読む前に、見当をつけて類推し既知を起動させる」。

『空腹の技法』。まず、好きなアートで身を立てるためにアルバイトをしている知り合いのことを思う……アートや文化はなかなか人を満腹にしてくれはしない、ぼくにも経験がある……これは都会的な現象であって農村地帯にはあまり見られないはずだ……多くのアーティストは空腹に負け絵筆やペンを置く……などと、気が済むまで、ぼくは脳内の既知をまさぐり、想像を掻き立てる。それからおもむろにページをめくる。こんな文章に出合う。

「一人の若者が都市にやって来る。若者には名もなく、家もなく、仕事もない。彼は書くために都市に来た。彼は書く。あるいは、より正確には、書かない。彼は飢え、餓死寸前に至る。」
「(……)若者は街をさまよう。都市は空腹の迷路であり、(……)家賃を心配し、(……)次の食事にありつく困難を心配する。彼は苦しむ。彼はほとんど発狂しかける。崩壊はつねにすぐ目の前にある。」

『諷刺の芸術』。直近の「シャルリ・エブド事件」とつながる……諷刺には強者と弱者の関係がつきまとう……強者が弱者を批判してもいいだろうが、取扱い注意だ……強者の驕り昂ぶりに対して弱者はつねに批評し諷刺し小馬鹿にしてもよい……それ以外に抵抗するすべはないのだから……銃の代わりにユーモアやエスプリの武器を携えて……弱者は自らが不当に誤解され批判されていると思えば、弁明や反駁を他者に委ねるのではなく、自らの声で強くおこなわねばならない……と、書名に触発されて考え、しかる後に本を開く。こんな一節を見つける。

「世界に反応するのに、哄笑と憤激とを混ぜあわせるのは、最も高尚なやり方だとはおそらく言えないだろうし、また、すぐれた作品や偉大な芸術を生み出す、一番普通のやり方でもないであろう。だが、これが諷刺の方法なのである。」
「諷刺(……)は、一つの精神状態に源を発するが、この精神状態は、批判的かつ攻撃的であり、通常は、人間の不条理性、無能力性、あるいは邪悪性を見せつけられるごとに抱く立腹の一種である。(……)諷刺の背後にある衝動は人間の本性にとって根本的なものだと言える。」

これ以上深入りしない。この二冊もやがてつながる(ぼくにおいて)。要するに、読んでから考えるのではなく、よく自分の既知をわきまえてから読んでみるのである。だが、質問者のほとんどにとってこんな読み方はためになるわけでもなく、さぞかし戸惑うに違いない。