情報の伝え方

新聞やウェブページ、その他のメディアを問わない。紙でもデジタルでも話は同じである。文章や写真などの情報は一つのまとまりのある「面」として伝達される。その面を便宜上「紙面」と呼ぶことにする。紙面の主役は文章である。読み手に伝わらなければならない。しかし、文章のわかりやすさや適切な表現という質だけが伝達を担うわけではない。むしろ、見出しや本文の位置関係のほうがメッセージの意味や伝達の精度に大きく関わることがある。ものは言いようであるが、ものは並べようでもあるのだ。

一ヵ月以上前の新聞記事を見て「凡ミス」に気づいた。大見出しは「ジャマイカリレー金剥奪」。副見出しが「薬物陽性 日本、『銀』繰り上げへ」である。大見出しと副見出しから、昨夏のリオ五輪を即座に連想する。リオ五輪の100㍍×4の優勝チームはジャマイカである。そして、日本はジャマイカに次いで2着になり、銀メダルを獲得した。あのゴールシーンは今も記憶に新しい。「銀の日本が銀に繰り上げ」とは変だ、金に繰り上がるのではないか……ひどい凡ミスだと判断したのは、実はぼくの早とちりであった。しかし、早とちりさせた主たる原因は記者と編集者のほうにある。

本文を読めば、「ウサイン・ボルト(30)を含むメンバー全員の金メダルが剥奪」とある。ボルトの年齢は現在の年齢である。だから今の話だと思う。さらに記事は「処分が確定すれば銅メダルだった日本が銀メダルに繰り上がる」と続く。「おいおい、リオでの日本は銀メダルだったではないか」とぼくが反応するのも無理はない。


「日本のリレーチームの銅は北京だったはず。次のロンドンはたしかメダルを取っていない。半年前のリオは銀である」などと思いをめぐらしていて、はたと気づいて写真説明文を読んだ。「北京五輪の陸上男子400㍍リレーで金メダルを掲げるジャマイカチームの……」と書かれている。ここでやっとこの記事が8年半前のレースのことについて書かれていることがわかったという次第。この時点で記事全体を俯瞰的に見渡したら、大きな見出しの下に申し訳程度に但し書きされた「北京五輪」という文字が目に入った。

周知の通り、再検査したところ、北京五輪当時から保存されていた検体が薬物陽性反応を示したのである。そんな長きにわたって検体が保存されているなどとは知らない。仮に知っていたとしても、ロンドンを飛び越して北京まで遡る金剥奪の話だとピンとくる想像力を持ち合わせていない。ぼくの想像力・理解力の問題ではない。この記事には紙面づくりの決定的な問題があるのだ。「金メダル剥奪」というテーマにとって最重要のキーワードは「北京五輪」なのであり、さらに親切に書くなら「2008北京五輪」とすべきだった。これが大見出しに含まれるべきだった。日本が銅メダルから銀メダルに繰り上がる情報よりも、目立つ場所に配置されてしかるべきなのである。

「見出しの下にちゃんと北京五輪と書いてあるではないか」という言い訳は通用しない。鳥の目で紙面全体を見渡してから記事を読むわけではないからだ。「見出しから本文へ誘導せよ」というのは記事や広告のセオリーである。見出しで何について書かれているのかがわからねばならない。紙面づくりに携わる者は、文章を綴ることに躍起になる。しかし、どんなに文章を分かりやすく書いても、置き場所が不適切であれば、記事全体の誤読が生じる。情報が氾濫して個々の情報価値が低減する時代、紙面を読ませるには新しい一工夫が必要になっている。

日常の周辺

物持ちがいい男がいた。仕事上の書類であれ、どこかでたまたま手にした物であれ、何でも残していた。本来、物持ちとは長く大事に使うこと。しかし、彼は使いもせずに取って置くことのほうが多かった。ある時、習慣的に物を残しておく執着心がよくないと気づいた。執着心を消そうと一念発起し、所有するものを一つずつ順に捨てていくとスペースと余裕が生まれ、ほっとしたようだった。ほっとする? ほんとうにそうだったのだろうか。何が何でも捨てるのだという頑固な決意と物が減っていく現象とは裏腹に、化け物のような残滓ざんしの幻影が見え隠れした。


これがいいあれがいいという選択肢狭まる日々に必然を見る / 岡野勝志


ぼくの散歩道に公園はある。しかし、広場がない。ヨーロッパの都市にはそこかしこに大小様々の広場があり、教会や塔が建っている。遠目にランドマーク頼りに広場に足を踏み入れることもあれば、敷石の細い舗道を曲がると忽然と広場が現れることがある。人々が三々五々集まり、そぞろ歩きして通り過ぎ、佇んで談論するような広場は、残念ながらぼくの街にはない。公園はあるが、広場のような主役の座にはない。広場は街の中心であり象徴なのだ。そこに住まうことを決意した拠り所の一つとして存在し続ける。


「この仕事は宝くじと同じで、当たるか当たらないかわからない」と誰かが言った。正しいアナロジーではない。宝くじを比喩として持ち出すのなら、こう言うべきである。「この仕事は宝くじと同じで、当たらない」。


Xには手間暇がかかる。明けても暮れても画策しなければならない。なぜこんな面倒なことをするのか。Xは人心の疲弊を招く。人生にXをしている余裕などない。単純明快に事をおこなうのに精一杯だ。X相反する二つのシナリオを求める。シナリオは一つのほうがわかりやすい。Xには、偽善、嫉妬、保身、計略、儀礼などが代入できる。


かれこれ30年近くいろいろな勉強会を主宰してきた。勉強会後の懇親会によさそうな店を見つけるのが癖になっている。わざわざ探しに行くわけではないが、近場で通りすがりにリーフレットやショップカードをもらってくる。

パーティー・歓送迎会の予約承ってマス

「マス」などと書いてある店を予約しない。店にも入らない。これは店探しのキャリアに裏付けされた直感の成せる業である。

表示のクオリティ

分厚い電話帳が活躍した時代、「あ」で始まる社名を付ける会社が多かったという話を聞いたことがある。あれは本当だったのだろうか。名前は「あいうえお順」に並ぶから、確かに「あ」で始まる社名は最初のほうで出てくる。しかし、社名や職業を1ページ目から検索するのは非現実的だ。知り合いに姓も名も「あ」で始まる女性がいたが、後で聞けばペンネームだったそうである。そして彼女は言った、「検索しやすいですからね」と。しかし、今は昔。PCやスマートフォンで検索するのが当たり前になった今、「あ」や「A」に名前の優位性があるとは思えない。

ネーミングは侮れない。一目見て覚えやすい名前は何かにつけて有利だ。また、おおむね短い名前のほうが長い名前よりも親しみやすい。聞きやすく読みやすい名前はそうでない名前よりもわかりやすくて覚えやすい。こういう視認性や可読性がセオリーとして広まると、短くて読みやすい名前が増える。ここに言いやすさが足され、ついでに検索しやすさが考慮される。だが、どれもこれも似たり寄ったりの名前が氾濫することになる。つまり、差異化したつもりが、期待したほどの効果なしという結末。

〈千年ロマンへと想いをはせ、海の幸、山の幸、自然豊かな宇佐のチカラの恵みを未来へと紡ぎ広める条例〉

昨年暮れにこんな条例が生まれた。大分県宇佐市議会が本会議で全会一致で可決した、日本一長いと思われる名称だ。誰も覚える気にはならないが一応差異化はできている。ユニークゆえに話題性はある。それが証拠に新聞で取り上げられた。そして、覚えていなくても、「宇佐」や「条例」で検索すればヒットするだろう。やがて「千年ロマン条例」と略され、宇佐という固有名詞は抜け落ちるかもしれないが……。


仮にネーミングで成功したとしても、成功を台無しにしてしまう要素がある。表示のクオリティだ。名前なら文字のデザイン。仮に文字のデザインがよくても看板が劣化すればお粗末になる。名前だけではない。案内の表示にも当てはまる。写真は先日宿泊したホテルの部屋案内表示である。こぢんまりとしたホテルだが清潔感があり、まずまず設備も充実している。この表示を見るまでの印象は悪くなかった。

だが、「ノドリーコーナー」にはがっかりした。謎の「ノドリー」、最初「ドリンクコーナー」だと思ったが、即座に読み解けた。ランドリーの「ラ」の文字と、ンの「`」が剥がれたままになっているのである。このことに気づかない清掃人、ホテル従業員の鈍感はどうだ。いや、気づいているが放置しているのに違いない。案内表示を見くびっていると言わざるをえない。

「アダルト」という名のごく普通の喫茶店がある。この名前を見て一見の客は入店をためらう。どんなに店構えが立派でも、コーヒーが飲みたくて死にそうでも、通り過ぎる可能性大である。では、店名を今時はやりのカフェらしくリネーミングするとしよう。それでもなお、この店のテントは「café」の文字の「é」が剥がれて欠損し、「caf」になっている。名はクオリティの象徴であり、名を伝える表示もクオリティを担う。こんな表示を放置したまま営業している店のコーヒーがうまいはずがない。店でリラックスしてコーヒーを飲む自分の姿が想像できないのである。

覚えやすく発音しやすいだけでは不十分。文字にも留意しなければならない。ことばを無神経に使えば命取りになる。名の失態は実のイメージを損なうのである。ヨハネによる福音書を思い出したので、最後に引用しておきたい。

初めにことばがあった。言は神と共にあった。言は神であった。(……)
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった(……)

やればできる??

味も素っ気もなく夢も希望もないことを書くが、「やればできる」などと根拠なく自他ともに励ますのはやめたほうがいい。「できないことは、やってもできない」のほうがずっと確かなのである。やってもできなかった件数はやってできた件数を圧倒的に凌ぐ。経験的に自信をもって証言できる。

「できる」とは諸々の資質、努力、能力の絶妙な組合せの結果である。いま「諸々の」と書いたように、「できる」に到った要因を、または要因の組み合わせ方を特定することはほとんど不可能だ。成功の秘訣や鉄則などについて書かれたハウツー本は後を絶たないが、秘訣や鉄則が理解できて誰もが真似できるとするならば、そういう類いのことをもはや「できる」などとは言わない。「歯を磨くことができる」などと大人が自慢したら滑稽ではないか。その行為に「できる」の出番はない。大人はただ「歯を磨く」にすぎない。

意を注ぐべきは「できないこと」のほうだ。いま、自分は「できること」を目指して何々をしている……けれども、意に反して、うまくできない。この時のできないという自覚と原因の分析が「できる」へのヒントになる。できることへの熱っぽさに比べて、できない理由を明らかにしようという思いは冷たい。ただやみくもに試行錯誤するだけではいかんともしがたい。やがて、できそうもないことを薄々感じ始めると、できない理由を探ることもなく、「実は、これはできなくてもよかったのさ」と自分を納得させて幕を引くことになる。


誰がやってもできることに目を見張るような価値はない。めったにできないからこそ「やれば」という仮定が成り立つ。たとえば企画を志す人たちに断片的なことでもいいから日々書きなさいと助言する。読み聞きしたこと、考えたことをノートに書くのに才能はいらない。しかし、継続の難しい習慣的行為である。だから、啓発にあたって一度も「やればできる」などとぼくは言わない。試みてもそう簡単にできないことを知っているからだ。三日間ならできるかもしれない。しかし、一ヵ月、三ヵ月と続けるのは百人中二、三人いるかいないかだ。対象が何事であれ、「やればできる」と鼓舞する側に根拠らしきものはなく、たいていの場合、から元気な励ましで終わる。事の難しさをよくわきまえて「やっても容易にできるものではないが……」と補足しておくのが良心というものだろう。

元々「やればできる」にはできるという意味合いは乏しい。できるという確信があれば、わざわざ「やれば」という仮定をすることもない。できることよりも、実は、「やれば」の「やる」のほうに意味がある。「やれば」には、めったにやり遂げられない困難さが前提されているのである。困難なものを「できる」というのはある種の欺瞞ではないか。かつて著名な占い師が「努力すれば金メダル」と選手に告げた。やればできると同じ構造である。但し、この占いは絶対に的中する。もし金メダルを獲得したら努力をしたからであり、金メダルを逃したら努力が足りなかったからという理屈がつく仕掛けだ。努力の度合については言及されず、できる・できないに焦点を当てている。

宝くじのことを考えてみればよくわかるはずだ。買わなければ当たらない。つまり、当たるためには買わねばならない。しかし、「買えば当たる」の何と心細いことか。やらなければできない。できるためにはやらねばならない。ここまではいいが、この先の「やればできる」に無理があることがわかる。論理を飛躍させること、いや、もっと言えば、あまりにも現実味のないことをスローガンにして自慰するのはやめよう。もちろん恣意的に偶発的にできることはある。やらなくてもできることが稀にあるだろう。しかし、やってもできないことの蓋然性の高さを心得ておくべきである。

できる・できないの結果にこだわることをやめた瞬間、「やれば」のほうが意味を持ち始める。励みとすべきは、「星に手を差し伸べても、一つだって首尾よく手に入れることなどできそうもない。だが、一握りの泥にまみれることもないだろう」というレオ・バーネットの至言である。

写真からの連想

目まぐるしく過ぎたこの一週間。しかし、隙間の時間はあるものだ。ちょっとした隙間にメモしたり写真を撮ったりしている。なぜこれを書いたのか。記憶を再生できないメモはあるが、写真には記憶がくっついていることが多い。記憶がよみがえり、それだけで終わらずあれこれと連想することがある。


衝動で買って手元にあるのだから、これが何かはわかっている。わかっているが、今こうして見てもすでに知ってしまったその名前となかなか一致しない。以前誰かにもらってまだ封を開けていないヒノキのチップにそっくり。風呂に入れたら大変なことになる。これはキャラメル味のココナツである。見た目以上に美味だ。小皿にいくつか置いて「お一つどうぞ」以外に何も言わずに差し出してみよう。いったい何割の人が一粒つまんで口に放り込むだろうか。キャラメルコーンを食べるのに勇気はいらない。キャラメルココナツには、いる。


パワーポイントのクリップアート素材を漁っていたらカジュアルな読書人の写真に出合った。いや、これは読書ではなくて朗読しているのではないかと思い直す。そうだ、書評会で朗読をしてもらおうとひらめいた。不定期で主宰している書評会では一冊の本を読んでまとめることになっている。読めなかったら発表はできない。しかし、朗読ならできるだろう。本の気に入った一節、1ページだけ選んで読めばいいのだから。見開き2ページなら3分もかからない。聴く方も飽きない。たとえば森鴎外の短編『牛鍋』の歯切れのいい冒頭だけなら30秒で朗読できる。但し、噛んでばかりで流暢さを欠いては台無しである。

鍋はぐつぐつ煮える。
牛肉のくれないは男のすばしこい箸でかえされる。白くなった方が上になる。 斜に薄く切られた、ざくと云う名の葱は、白い処が段々に黄いろくなって、褐色の汁の中へ沈む。 箸のすばしこい男は、三十前後であろう。晴着らしい印半纏しるしばんてんを着ている。そば折鞄おりかばんが置いてある。 酒を飲んでは肉を反す。肉を反しては酒を飲む。


ディベートの試合の審査では「バロットシート」なるものを使う。議論の内容の要点をメモし、争点の攻防をわかりやすくフローの形で再現する。何週間も準備をして試合に臨んでいる人たちのことを思うと、安易な聞き方はできない。全身を耳にして傾聴する。話すスピードは書くスピードよりも速いのが常であるから、書き味のよい筆記具を選ぶ。

ディベート大会では数種類の万年筆と水性ボールペンを用意する。その日の調子と気分に応じてこの一本を選ぶ。これと決めれば一筆入魂である。一昨日の大会では左から二本目のブルーブラックインクのボールペンで書き込んだ。


久々に行きつけの古書店を覗いた。全集のうちの一冊『文体』が新品かつ格安だったので、なまくらにページをめくっただけでさっさと買って帰った。文体というのはすでに比喩された術語である。なにしろ「文の身体」なのだから。自分の姿勢、身体つきを知らないわけではないが、後日講演している写真を見て、奇怪な立居に驚くことがある。文体になると紙に書かれたものと自覚との間にはかなりの落差があるに違いない。自分の文体を意識したことはほとんどなく、またテーマによってスタイルが変わるのを承知しているから、自分流の文体などあるはずがないと思っている。

しかし、ぼくの拙い文章をよく読んでくれている人は、テーマに関係なく、文体があると言う。喜ぶべきかどうか悩む。他人様の文章を読んでいて、退屈するのは文体にではない。明けても暮れても同じような話にうんざりするのである。文体が織り成す文章の中身がマンネリズムに陥らないように気をつけておきたいと思う。

肯定と否定をめぐって

毎年2月に神戸で開催される全国ディベート大会に関わってから今年で8年目になる。この大会は「防災・社会貢献」に関する論題に特化していて、高校生、大学生、社会人がオープンで議論を競う。ぼくのディベートキャリアはまもなく47年。ディベートの研究者でもないしディベートで生計を立てているわけでもないが、現場での指導と審査にはかなりエネルギーを注いできた。〈関西ディベート交流協会〉という非営利組織を立ち上げて活動してからもまもなく28年になる。にもかかわらず、論題の証明・反証の方法について、議論の優劣判断について、まだよくわからない。深いからではなく、議論が生き物であるため理想の定型が見えないからである。

論題というのはテーマだ。テーマだが、「~について」という形式で記述しない。変革の方向性――または価値の大小――をあらかじめ示す。たとえば「わが社は毎朝掃除をすべきである」という具合に。すでに毎朝掃除をしているなら、わざわざこの論題を議論するには及ばない。掃除をしていない、あるいは、掃除をしていても毎朝ではないという現状があるから、それを変えようと提案するわけである。論題にはすでに「一つの答え」が書かれる。その答えの是非を問う。

論題を肯定する、だからその妥当性を立証しなければならない。この立証に対して否定が生じる。この肯定と否定の立場がディベートの論題をめぐる関係図式になる。しかし、先の論題「わが社は毎朝掃除をすべきである」の例で言えば、毎朝掃除をしていない現状があり、それが望ましくないからこそ論題が生まれたのである。「今のままでよい、何も変えなくてもいい」という立場を「推定」という。疑わしきは罰せずを意味する〈推定無罪〉という術語が示す通り、誰も異論を出さなければ、あるいは単に疑わしいと言うだけで問題を立証できなければ、変革などいらないという立場である。実は、この立場が本来テーゼなのだ。これに対するアンチテーゼが論題であり、論題の肯定ということになる。


現状の政策は、かつて別の旧政策だった〈テーゼ〉に対する新しい政策としての〈アンチテーゼ〉であった。しかし、月日が経てばどんな政策も陳腐化し問題を孕むようになる。安住のせいか怠慢のせいか知らないが、惰性のように維持されて今に到る。ここにおいて、かつてのアンチテーゼが検証のまな板に載せられてテーゼと見なされる。そして、このテーゼに対する変革案が論題で謳われ、それを肯定する立場が新たなアンチテーゼとなる。このアンチテーゼが立証されると、テーゼは覆される。覆されてはなるものかとアンチテーゼを検証し反論する。これがテーゼによるアンチテーゼの否定である。ややこしい話のように見えるが、これが弁証法の出発点になっている。

二律背反の論題を一方が肯定し、他方が否定する。いずれの言い分にも理があると思っても、両方は同時に成り立たない。だから、教育ディベートの審査では議論の優勢な者に軍配を上げる。客観的な証拠と説得力のある論拠が優劣を分ける。教育ディベートでは、論題を肯定する側に立つか否定する側に立つかは自分で決められない。コイントスで決まる。個人的に論題を支持していても、50パーセントの確率で否定する側に回る。したがって、主観的な思いを棚上げして、客観的かつ虚心坦懐に論題に向き合い、「相反する命題のいずれをも証明できなければならない」というアリストテレスの教えを実践することになる。

「肯定は立証責任を負うから大変だが、否定はただ反論していればいいから楽だ」などと言われた議論未熟な時代があったのは確かである。しかし、教育ディベートと異なる実社会の議論は必ずしもそうではない。論者は自分の価値観を引きずる。虚心坦懐の心得が難しいのだ。裏付ける証拠が客観的であっても、論拠や理由づけに主観が入り込む。この傾向は、否定言論よりも肯定言論において顕著になる。たとえばお気に入りのスポーツチームが勝つだろうという推論は我田引水になりがちだ。人間には「ひいき」に対して先入観を優先し、疑いを挟まない傾向があるのだ。

論理的かつ分析的な技術を身に付けるには否定することを覚えなければならない。少々自論が甘くても精度の高い否定検証ができれば、テーゼの質を高める作用が働く。別に二者間でなければできないことではない。いや、むしろ一人の人間においてこのような弁証法的思考を身に付けることに議論の意義がある。

時々自虐のすすめ

「あるがままに」などということはほとんど不可能だと思うが、仮にあるがままに現実をすべて受け入れることが可能だとしよう。その時、疑念は生じない。いや、生じさせてはならない。もっとよさそうな現実も想像してはいけない。何も考えず、ずっと今の現実に向き合うのみ。やがて願望も期待も消え去って思考停止状態に陥るだろう。未来の可能性は閉ざされる。翻って、あるがままであることをしばし棚上げしてみる。それは現実に問題――何か変?――を察知することにほかならない。おおよそ変革の発案動機はここから生まれる。発案に便宜上「新しい試み」と名付けておく。

新しい試みは現実の変革を目指す。したがって、そこに弊害が内蔵されているとしても、いきなり未だ見えぬ弊害に神経は使わない。新しい試みを実行した後にはじめて新たな弊害に気づく。気づいて知らん顔すれば、自ら変化を加えた現実をあるがままに受容することになる。それは発案動機に反するから、弊害にはそのつど対処療法を施すことになるだろう。現実の変革、その変革によって生じる新たな弊害、その弊害への対策という企ては、カオスへと向かうエントロピーの法則に似て、とどまる所を知らない。これは、ある種の自虐行為ではないか。

新しい試みに新しい弊害が含まれるというのは、別に稀なことではない。かつて完璧に成された試みがなかったのは、必ず試みの中に弊害の種が内因していたからである。自浄作用は自壊作用を伴う。そして、強引に言えば、自壊作用は何がしかの意志的な自虐作用を誘発する。


現状に対するアンチテーゼを出した勇気を褒めたものの、そのアンチテーゼの抱える新たな弊害を指摘した途端、不機嫌な顔になる。そして、可愛い自分のアイデアを必死に守ろうとする。このようなナルシズムを増長させる理由は何だろう。現状検証という客観的なプロセスを経たことと無関係ではないようだ。独りよがりではないと信じているのである。これでは、あるがままに現実を受容しているテーゼ側と何ら変わらない。

自分大好きというのは、ある意味であるがままであることよりも性質たちが悪い。そもそも自分などというものはないのかもしれないではないか。にもかかわらず、人は自分を発見して自分が好きになる。もっとも自分の発見は自分がよくわかっていることを担保しない。いや、自分をわからないままに発見した気になったから自分が好きなのかもしれない。

「このアイデアは現実のこんな問題を解決する試み。助言をいただきたい」と言うから、「そのアイデアからは新しい弊害が生まれる」と指摘する。ところが、この指摘が、批判ではなく、非難だと受け止められる。褒める人がいい人で、批判する人がよくない人とレッテルを貼られれば、批判指導する立場のはずなのに弱腰人間と化して無難に褒めのほうを選ぶようになる。自己保身のために他人を褒めているにすぎないのである。

辛口派のぼくは本人のことを考えて批判する。出来がよいと判断しても、いくばくかの皮肉や毒舌をからめて評する。長い目で見れば、ほめ殺しよりはよほどいいと経験的に学んできたからだ。自画自賛がまずいとは思わない。だが、自虐的なジョークの一つも挟みながらでなければならないだろう。

テーゼに対して批判するアンチテーゼ人間は己の変革案に驕ることなく、その案に対しても時々自虐的になることを忘れてはならない。自虐的とは自分いじめであり、高く重ねた積み木を崩すような苦痛を伴う。覚悟が必要だ。もし「時々自虐」が受け入れがたいなら、次善策がある。「日々自省」がそれだ。自省の念を込めて締めくくっておく。

木を見る

「木を見て森を見ず」。物事の一部にばかり気を取られると全体が見えなくなるという戒め。早とちりしてはいけない。木を見るなと言っていないし、先に森を見ろとも言っていない。この成句は「木も森も見ておこう」と無難に教えているのである。

木は部分・局所・細部の比喩である。対して、森は大局を意味している。全体を見据えて状況や成り行きを理解し判断するのを「大局観」という。もちろん大局観は身につけたい。しかし、先験的に大局観に恵まれることなど不可能だ。通常、ぼくたちに森が見えることはないし、それで特にまずくなることもない。もし森を見ようとして森深く入り込めば、逆に森が見えなくなる。目の前に樹木の群生は見えるだろう。しかし、それは森の全体ではない。一本一本の木の、いくばくかの集合にすぎない。

ドローン目線で森を俯瞰できたとしても、ぼくたちは環境や生態を判断する材料を持ち合わせていない。せいぜい「鬱蒼うっそうとしている」とか「緑が深い」と感嘆する程度だろう。森が見えずとも、ひとまず目の前の一本の木を見ることに勉め、そのことに満足することから始めるしかないようである。木だけを見ていると森は見えないぞと戒められたが、木を見ることは森を想像できる可能性に開かれている。


昨年暮れに自宅周辺を歩き、力感的な一木いちぼくに出合った。由緒ある神社の樹齢数百年を数える楠と比較すれば見劣りする。見上げなければならないほどの巨木ではないが、数ある樹木の中で自生の造形美が目を引いた。ほとばしる生命力を感じたのは、自分が体調不良だったせいかもしれない。

「強くて逞しい木を見ると抱きつきたくなるのです」と言った女性がいた。幹の胴の一部にしか手を回せないが、それでもエネルギーが十分に伝わってくるのだそうだ。木は気に通じる力を宿すということか。どんな木でもいいわけでもなく、神木でも気に通じないことがあるという。木の枝ぶりや全体の形との相性みたいなものがあるに違いない。

「谺」という漢字がある。「こだま」と読む。こだまは谷間に響く音や声だが、昔は濁らずに「こたま」と呼ばれていたという。「木魂」や「樹神」という字も当てられていたようだ。見慣れているのは「木霊」。いずれも樹木に宿る精霊の表現だという(中村幸弘『読みもの 日本語辞典』)。ピピッとひらめいた木に抱きつく癖があったあの女性は妖精の存在も信じていた。木の精霊を感知することくらい朝飯前だったのだろう。

一本の木が伝えているものを感じ、そこから様々に思いを馳せていれば、やがて大局が見えるかもしれない。木と森の両方を見失うよりは、ひとまず一本の木に関心を払えることを喜びとしておく。繰り返しになるが、木と森は人の見方・生き方の比喩である。

翻訳ソフトの腕試し

ソーシャルネットワーク上にノートルダム寺院の写真が掲載され、フランス語と英語の説明文が付いていた。

Notre-Dame de Paris, un lieu que l’on ne présente plus!
Notre-Dame de Paris: this place needs no introduction!

意味は明らかだが、翻訳アイコンがあったので試しにクリックしてみた。フランス語の訳は「ノートルダムドパリ、私たちはもはや提供していない場所です!」。「私たち」がパリ市か旅行代理店のことか知らないが、もはやノートルダム寺院が見学できなくなったかのようである。英訳のほうは「ノートルダム de Paris: この場所は導入は必要ありません!」  寺院に何かを持ち込もうとしたが、それはわざわざいらないという感じ。仏英の原文ともに「あらためて紹介(説明)するまでもない場所」と書いてあるのだ。この翻訳ソフトなら人間が勝つ。

これと前後して、Googleの翻訳ソフトのAIがかなり進化したという話を小耳に挟んだ。お手並み拝見とばかりに試してみた。なるべく平易で自然な文章を即興で作って入力した。

四方八方からやってくる話題や時事をニュースという。ニュースの情報量は日々ますます増大しているが、何も知らずに日々過ごすよりはニュースに触れるほうがいいかもしれない。【A

入力しているのとほぼ同時進行で英文が現れてくる。その早さに正直驚く。出来上がった英文がこれである。

The topics and current affairs coming from all directions are called news. The information volume of news is increasing more and more from day to day, but it may be nice to touch news rather than spend days without knowing anything.

わかりやすい英語で日本語を過不足なく見事に訳している。正直言って、学生アルバイトが初稿で書く英文よりもよくできている。なにしろ瞬間芸だから、コストパフォーマンスでは翻訳ソフトのほうが上だろう。ちなみに、この英文を同じソフトで和訳させてみた。アワビを干しアワビにして、それを戻せば元のアワビとは違うだろう。そんなふうになると思ったが……。

すべての方向から来るトピックと時事はニュースと呼ばれます。ニュースの情報量は日々増えていますが、何も知らずに日々を過ごすのではなく、ニュースに触れるのはいいかもしれません。【B

話題を「トピック」にしたのには違和感はあるが、「である調」を「ですます調」に変え意味もきちんと伝えていて合格だ。英語を経てもなお、ぼくの書いた【A】とソフトの【B】はほぼ同じ表現、同じ内容を伝えている。以上の日→英→日……の動作を何度か繰り返させたところ、from day to dayday by day、時事→時事通信、current affairs newslettersなどの小さな変更は見られたが、原意はおおむね踏襲されていた。これは侮れないと思った。


この調子でAIが進化していけば、翻訳ソフトは十年、いや数年以内に、囲碁や将棋のソフトのようにプロが舌を巻くレベルに達するのか。そんな想像がよぎったが、ぼくが書いた文章が案外素直で訳しやすかったかもしれないと考えた。そこで、もう一題試させることにした。冒頭のノートルダムのようなでたらめ翻訳文で馬脚を現すかもしれない。

ぼくは一人称単数の表現を状況に応じて使い分ける。

一文目だけを入力したら、瞬時に“I use the first person singular expression according to the situation.”と翻訳された。完璧である。しかし、実はこれに続く次の文章に難しい仕掛けをしたのだ。

ぼくは普段「ぼく」と言うが、友人に対しては「俺」と言う。目上の人や得意先の前では「私」と言う。たまに冗談っぽく「わし」と言ったりもする。

この三つの文章も瞬間芸であった。

Usually I say “I”, but to a friend I say “I”.  I say “I” in front of superiors and customers. Sometimes I say “I” like a joke.

最終文の「時々私はジョークのように私と言う」はおもしろすぎる。いや、全文が冗談になっている。予想通りだった。意地悪されたソフトは、どんなシチュエーションでも自分のことを“I”と言うほかないのである。これは翻訳ソフトの「誤訳」ではなく、今のところ「推論の限界」または「異文化の壁」と言うべきか。ソフトは「ぼく」と「俺」と「私」と「わし」を正しく訳した。しかし、英語の一人称単数は“I”の一つしかない。日本語のそれぞれのニュアンスを伝えるには、英語の表現を増やすか、日本語の表現を、たとえば「私」一つに限定するしかない。すなわち、文化の修正である。それは無理な話。この一例から、人間がAIに追い越されない最後の砦がどこにあるのかがわかるような気がする。

食卓考

食事、食事の場、食文化、共食などのことを書こうとして、ひとくくりにするぴったりのことばが思い浮かばなかったので、食卓としてみた。「食卓考」だがテーブルの話ではない。

イタリアで始まったスローフード運動の前から、仕事は早く食事はゆっくりという主義を貫いていた。男子四人集まってテーブルを囲んだら、食べるのはたいてい一番ゆっくりである。普段は饒舌、しかし食事中は案外寡黙である。好き嫌いはまったくない。ぼくをよく知る人はぼくを食事に誘うにあたって余計な気遣いをするには及ばない。出されたものは、たとえそれが見た目グロテスクな初体験の料理であっても、食べる。残さないで食べ尽くす。食材に対して傲慢になってはいけないと心している。ゆえに、好き嫌いの激しい人と食卓を囲まないわけではないが、眼前で好き嫌いを露わにする人を快く思わない。それを感知する人たちはぼくとの食卓から離れていく。来る者拒まず、去る者追わず。

食事はみんなで和気藹藹と語らいながら食べるほうがおいしいという定説がある。必ずしもそうではない。話が弾んだのはいいが、何を食べたかうろ覚え、しかもせっかくの料理の味も十分に堪能できなかったということがよくある。一緒に食べるからうまくなるのではない。一緒だから会話と場を楽しんでいるにすぎない。小雪舞い散る寒い日に、今夜はみんなで鍋を囲もうと思う。こっちがご馳走するのだから、何鍋にするか自分で決めればいいが、先に書いたように、人には好き嫌いがある。温情をほどこすつもりで聞いてみると、あれは苦手、それは嫌い、これがいいと好みが割れる。ならば別の機会にということになり、結局、捌き立ての旬の真鱈の一人鍋を食べる。鱈で腹が膨らんでたらふくになる。


ろくに喋りもしないのに打ち合わせと懇親会の好きな男がいた。得意先に打ち合わせをしようと自分から声を掛ける。その後に親睦を兼ねて接待的な場を設ける。これが狙いだ。食事にはお疲れさまの意味もあるが、彼にとってはほっと溜息をつく「逃げ場」だった。仕事から離れるので雑談が交わされるが、適当に聞き流しながら、時折り社交辞令的なうなずきと作り笑いを挟みつつ、黙々とビールを飲み箸を動かすばかり。接待などしていなかった。食事は自分を労う息抜きの場であった。

続いて腹一杯の状態で二次会へと向かう。六千円のリーズナブルな会席料理の後に、ピーナツとおかきをつまみながらカラオケ三昧。支払いが会席料理の倍額というのも稀ではない。「親が死んでもじき休み」という言い回しがある。次に何があろうと、たとえどんなに忙しかろうと、食べた後は一休みせよという教えである。この原義の他に、ご馳走の食後感という余韻に浸るという解釈を付け加えておきたい。食事前の「おいしそう」、食事中の「おいしい」、そして食後の「おいしかった」で食卓の満足が完結する。ぼくはそう考えている。

食卓の味わいは料理への集中力によって深まる。五感を研ぎ澄ますべきである。会話を交わすことを排除しない。しかし、料理の価値を減殺するようなお粗末なお喋りは集中力の邪魔になる。年に数回、十数人に囲まれる懇親会に出席する。主賓の栄誉に浴するものの、矢継ぎ早の質問に答えるばかりで、ろくに食事を楽しめない。豪華な料理の下手な共食は一人の粗食に劣ると実感する瞬間である。