カフェにて

賑わっているカフェ。カウンターで注文の際に「店内は大変混み合っておりますので、先にお席の確保をお願いします」と言われることがある。促されるまま、注文を後回しにして席を探す。予約札があるわけではないから、自分の席のしるしになるものを置くしかない。たいていはハンカチ。ハンカチがなければノート。「命と同じくらい大切なノート」と広く宣言しているにしては、不用意に置くものである。

カフェ賑わい空席わずか 片隅のテーブルのノートは自分のしるし /  岡野勝志

確保したテーブルに注文したコーヒーを自分で運ぶ。隣りの男性はテーブルに所狭しと書類や本を広げ、パソコンに向かっている。彼はトイレに立つ。すべて置きっ放し。おまけに、上着も椅子にかけたまま。なかなか戻ってこない。こっちがドキドキしてしまう。彼の陣取った場所はしるしだらけ。しかし、それは席外しの証でもある。この国の人々の安全安心ボケ、ここに極まる。


街歩きの途中で一休みする。公園のベンチに腰掛けるのもいいが、喫茶店を探してコーヒーにありつくのが愉しみの一つ。チェーン店が一杯200円か250円でまずまずのコーヒーを提供する時代だ、年季の入ったマスターが仕切っている喫茶店の倍額のコーヒーが引けを取るはずがない。しかし、稀にハズレがある。昨日がそうだった。ハズレの後に帰宅して真っ先にすること。お祓いではない。自分でエスプレッソを淹れて飲み直し。

初めて入る店の気配は店名と店構えから判断するしかない。まあいいのではないかと直感して入った。昭和レトロだが、インテリアも照明も悪くない。とびきりうまいのを淹れてくれそうな雰囲気のマスター。待つこと56分。コーヒーを一口すすった瞬間、レトロな喫茶店は「場末の茶店さてん」へと転落した。

ああ、レトロな構えにほだされた

注文したのはブレンドなのに

出てきた一杯はアメリカン

香りのない超薄味のアメリカン

砂糖入れなきゃ飲めやしない

自分の勘の悪さが情けない

『涙――Made in tears』を思い出す

♪ メッキだらけのケバい茶店……と

中島みゆき調で口ずさんでみるか

コーヒー運は悪くないのに……

威張っているような砂糖壺を睨み

420円を放り出すように置いてきた

文章読本のこと

十代から日本文学と世界文学を問わず実によく小説を読んだ。三十代半ばでばったり小説を読むのをやめて、数ページで話が完結する雑文を読むようになった。たとえば浅田次郎の小説はほとんど読まないが、エッセイ集はよく読んだ。

若い頃、小説を読みながら、文体や文章術にも興味を覚えた。名立たる小説家が『文章読本』を書いている。谷崎潤一郎、三島由紀夫、中村真一郎、丸谷才一、井上ひさしの読本には目を通した。文章読本と言うと、文章の読み方の技術のように思われがちだが、それだけではない。むしろ、文章の書き方のための読本という色合いが強い。

料理について、おいしい、安全な、清潔な、健康によい、盛り付けがきれいなどの形容ができるように、文章についても様々な評がありうる。上手な、わかりやすい、表現豊かな、正確な、などである。これらは書かれた文章に対して読み手が感じる印象だ。詩であれ小説であれ論文であれ、文章を書くのは伝えるためである。書き手の軸足が表現に置かれることもあるが、意味を明らかにして読み手に伝えるために書くのが基本である。


このところ、永井龍男の雑文をまとめて読んでいる。永井の文章は飾り気があるわけでもなく、鮮やかな表現を纏っているわけでもないが、固有名詞が多く描写も精細であるものの、読みやすい。読みやすいのは、イメージが正確に文章になっているからだろう。たとえば次の一文は、花を愛でる人たちの体験の一部を肩代わりするかのように綴られている。

桜の花の美しさは、花の数の多いことにあるが、いじめられずに、伸びのび育った木は、枝々に打ち重ねたように花を咲かせ、空を、星を、全身でおおってしまうのである。(「花のいのち」、『雑文集 ネクタイの幅』より)

同じ雑文集には「正確な文章」というエッセイが収められている。そこで、永井は「うまい文章」の「うまい」を否定する。そして、次のように断言するのである。

文章の目的は、うまいことにあるのではなく、「正確」な表現でなければならない。(……) 文章は、文章自体でなり立つのではなく、その人の思想、感情の表現として、はじめて形をなすのである。(……) (正確な文章を書く)秘訣は、文章にあるのではなく、表現したい思想なり感情を、しっかりとつかむことにある。(……) 正確な文章を書こうとするところから、文章に対する苦心がはじまり、開眼もまたそこを通してより他に道はない。

個々のことばの表現は踊っているが、単なる寄せ集めに過ぎず、まったく筋を伝えていない文章がある。何を伝えようとしているのかさっぱりわからない。なぜなら、書いている本人がわかっていないからだ。どんなジャンルの文章であれ、書くという行為はどこまで行ってもコミュニケーションである。それは意味を伝えるということだ。文章の上手下手の判断は他人に任せればよい。雑文を書くぼく自身、「上手に書きました」と言って読んでもらう自信はまったくない。しかし、「正確に文章を書く努力」こそが書き手ができる唯一の責任だと思う。この意味で、永井龍男の考え方に強く共感するのである。

人口減少という杞憂

地球規模で見るなら、人口減少よりも人口増加のほうが深刻である。宇宙船地球号の乗客は勢いよく増え続けてきた。「人口爆発!」と題して書いたのが201111月。当時、世界の人口は70億人を突破した。2017年の今日529日午後2時半現在の推計は74200万超だ。この5年半で4億人以上増えたのである。人口増大によって、貧富の差の拡大、温暖化、食糧不足など、近未来に解決困難な不安材料が山積している。

他方、わが国はこれと真逆の現象に直面している。人口減少の恐怖である。某週刊誌の広告に「人口8000万人の国ニッポンで起きること」という特集の見出しがあった。雑誌を買い求めてつぶさに読んではいないが、数行の記事のさわりから伝わってくるのは悲壮感を漂わせる内容だ。「人口が4000万人減ることは、こんなに怖いこと」と不安を煽り立てる。

この記事は去る4月の国立社会保障・人口問題研究所の発表に反応したものだ。推定によれば、2065年の日本の人口は約8800万人で、現在より30パーセント減の水準になるという。現象に歯止めをかける対策を強化するのか、それとも、その水準に落ち込んでもなお生産人口をある程度確保できるような策を講じるのか。少子化対策に進展が望めなければ、人口減少に甘んじながら、あるいは外国人労働力を受け入れながら、経済成長を低速させない工夫を凝らさねばならない。経済を人口という身の程に合わせる覚悟をすれば成行きでいいだろうが、この主張は経済至上主義者からの非難を免れないだろう。


ところで、人口減少と社会の崩壊は異なることをわきまえておくべきだ。半世紀後に8800万に減少しても、その水準は現在のドイツの8200万、フランスとイギリスの6200万を上回る。人口だけで言えば、また、これら三カ国の経済力レベルで妥協するのなら、何の問題もない。週刊誌の記事はまるで一気に人口が4000万人減るような印象を与えているが、半世紀かけて逓減していくのである。激変はしない。指をくわえているだけならともかく、逓減の過程で対策は講じられるはずだ。

人口問題を国家的視点から杞憂しても、対策はつねに概念的かつ総論に終始する。人口と大雑把に言ってしまうから、国家の問題になる。しかし、国家的な影響の前に人々が暮らすまちの行く末を案じるべきだろう。人口が確保できても住民構成が高齢者に偏れば、まちは機能しなくなる。まちの住民構成のうち65歳以上の高齢者が50パーセントを超えると限界集落である。冠婚葬祭などの地域活動はもとより経済的文化的活動が一気に低迷してしまう。

個々のまちから住民が去ってしまうと、仮に国全体の人口が維持できたとしても、日々の経済活動や生活は立ち行かなくなる。人口減少で憂うべきは、国としての経済成長ではなく、人々が――国民としてではなく――市町村民として日々を送る生活のほうなのだ。現在12000万人の多くが大都市に集中し、中山間地域は過疎化して限界集落が増え続けている。国の成長が個々のまちの安定に優先されているかぎり、半世紀後の人口減少対策も絶望的である。

国家の問題の前に地方の問題を扱わねばならない。ぼくたちは国というバーチャルな家に住んでいるのではなく、まちという現実に生きているのである。国の経済成長とは、とりもなおさず、人々が暮らすまちの、常套句を使えば「持続可能な成長」にほかならない。人口が12000万か8800万かということよりも、密度の偏りを是正するのが先決である。住む場所がどこにでもあるのに、まるで砂漠のオアシスに一極集中するような状況のほうが危機的なのだ。人々が地域で暮らせるまちの多様性に半世紀かけて取り組めば、国全体の人口減少などは恐れるに足りない。食糧供給やインフラ整備が追いつかない人口爆発よりは知恵を絞りやすいと思うのである。

五月の雑談

暑くなると喋るのが億劫になる。五月の終わりはまだ大丈夫。突然やって来る若い知り合いとの雑談も弾む。ちょっとした気づきも書き留めておこうという気になる。


ひょんなことからコマーシャルの話になった。「お墓のない人生は、はかない人生というのがありましたね」。うん、あったあった。たぶん関西限定。「はかない」と「墓ない」がダジャレになっただけだが、耳にこびりつく効果があった。

死後の話ではなく、生きている今、もしなかったらはかなく感じるのは何だと思う? 「一つだけ挙げるのはむずかしいなあ、クリープを入れないコーヒーははかないとか……」。うーん、それはない。クリープなんて元から使ってないし。それを言うなら、「コーヒーのない生活ははかない」ではないか。あ、コーヒーを淹れよう。あいにくクリープはないけれど。

「近々ヨーロッパ旅行に出掛けるんです」。羨ましいなあ。ぼくもそのつもりだったが、仕事や体調のこともあって春先に断念したばかり。旅のない人生ははかないと思う。人生そのものも旅だけど、人生以外の旅もいる。別に欧州まで行かなくても、近場を非日常的感覚で歩くだけでも、ちょっとした旅になる。見えなかったものが見えてくるし……。いや、見えているのに見なかったと言うべきか。

旅に出ると人や光景に出逢う。出逢いとは「邂逅」。ふつうは「かいこう」と読むけれど、裏ワザ的に「わくらば」と読ませることがある。「わくらばと言えば、病に葉と書く『病葉』もありますね」。そう、それもある。ちなみに、病を「わくら」、葉を「ば」と読むと思っている人が多いけれど、病葉は熟語訓なので分解できないんだ。知ってた?


最近小さなグリーンをちょくちょく買っている。前からあったのも生き長らえているが、病葉じゃないかと思うことがある。道端の雑草のほうがよほど元気だから。ベランダの鉢植えの名は知っているが、雑草の名は知らない。有名か無名かの差が天と地の居場所になってしまう。雑草にだって名はある。名がありながら無名扱いになるのは人も同じ。

「そろそろアジサイの季節ですね」。たしかに。でも、子どもの頃庭に咲かせていたアサガオのほうが印象深い。ところで、メジャーなアサガオがマイナーなヒルガオに組分けされているのを知ってちょっと複雑な気分になったことがある。有名なアサガオのほうをグループの屋号にすればいいのに……。

朝顔の科がヒルガオでサツマイモ属だと知って見方が変わる /  岡野勝志


「思い出や印象の濃淡、遠近感は人それぞれですね」。だからこそ、こうして雑談ができるわけだ。みんな一緒だったら話すことなどない。ちょっと前までは、思い出や印象は脳の記憶だけに依存していたけれど、最近はそれだけではないような気がしている。自分と長く時間を共にしてくれた物からいろんなことを思い出させてもらっている。

思い出は記憶庫にあるのみならず 物の中にも綴じられている  /  岡野勝志

意味の一角

海面上に現れている氷山は全体の一部分、だから、姿を現わしている氷だけを見て氷山の全貌だと早とちりしてはいけない。このことは小学校で教わった。実物の氷山を調べてみるわけにはいかないので、コップに塩水を入れて氷を浮かべてみたことがある。たしかに……。一角が全体の約10パーセント、すなわち一角の9倍の大きさの氷が海面下に隠れていることを一度知ってしまえば、一角を以て全体を類推することができる。そして、その類推は正しい。

氷山の一角に倣って「意味の一角」と言ってみよう。一を知って全体を推し量るのが意味作用だから、決して異端的な発想ではない。ところで、どんなに言を尽くしても、ある概念のすべてを詳らかにすることはできない。辞書が列挙している用語の意味も用語の一部であって、決してすべてではない。氷山の一角と意味の一角に決定的な違いがあるとすれば、類推の精度である。氷山には数値化できる物理法則が当てはまるが、意味にはそんな法則はない。

意味の一角は人によって変化する。その一角から全体や本質を類推する作用も人それぞれである。「今きみに語ったことは伝えたいことの一角で、それは全体の50パーセントにも満たない」などと誰も言ってくれない。仮に数字で言ってもらってもどうにもならない。という次第で、一角をヒントにしながら、それだけでは不十分なので、読み手や聞き手のほうが知識や経験を用いて意味を補足する。これがコミュニケーションというものだ。この技術を手の内に入れるのは至難であるから、意味はめったなことでは明らかにならず、また確実に共有もできない。


「昆虫とは何か?」と問うことは、昆虫の意味を知ろうとすることにほかならない。『広辞苑』をひもとく。いきなり「①節足動物門の一綱」が出てくる。節足も綱もわかりづらい。いや、こんなことを知っても昆虫がわかったことにはならないだろう。続いて「②全動物の種数の四分の三以上を包含する」と書いてある。どうやら昆虫の種類は多いということらしい。念のために「昆」もチェックしたら「多い」という意味だった。昆にさんずいを付けたら「混」になる。なるほど。次の説明は「③体は頭・胸・腹の三部に分かれ、頭部に各一対の触角・複眼と口器、胸部に二対の翅(はね)と三対の脚がある……」。また、わからなくなった。ちょっと待てよ、これは確かに昆虫の定義だが、そもそもそういう共通の特徴を持つ動物群を昆虫と呼んだのではなかったのか。

ぼくとしては、②で折り合いをつけたい気分である。ジュール・ルナールは博物学者ではなく小説家だが、『博物誌』という書を著わしている。ルナールは言った。

「へび、長すぎる!」

なんとも痛快な意味の一角だ。こんなふうに昆虫の、(触角ではなく)一角を表に出してみるのも愉快である。

「昆虫、食べたい!」
変人でも変態でもない。わが国も含めて世界の一部の地域では、昆虫は食用的存在に見えているのだ。くどくどとした説明よりも見事に的を射ている。イナゴや蜂の子の未体験者は納得しないだろうが……。

「昆虫、キモチ悪い!」
もっともである。これを意味の一角にした人には広辞苑の①と③のような生体的分析は馬耳東風。一匹でもキモチ悪いのだから、群れを成すとチョーキモチ悪くなるはずである。

「昆虫、お友達!」
蚊やゴキブリを飼っている者は周囲にいない。しかし、カブトムシやスズムシをペットとして、いや、それ以上の親愛なる友として飼っている、いや対等に付き合っている人がいる。小学生の頃、梅酒を作るような大きな瓶に砂を入れてアリを飼ったことがある。友達という感覚はなかったが、観察対象として丁重に扱っていた。

「昆虫、重い!」
広辞苑の②に関連するが、昆虫は種類が多いのみならず、個体数をまとめると重いのである。どれだけ重いかと言えば、昆虫以外の動物――鯨、象、人間、その他すべての哺乳類、魚類、爬虫類、鳥類など――が寄ってたかっても適わないくらい重いのである。牛や豚や羊を食すためには育てなければならないが、昆虫には餌を与える必要はない。勝手に繁殖してくれる。「昆虫、重い!」という表わし方は、昆虫が無尽蔵の食糧であることを意味している。

新緑が深まる頃

新緑の季節真っ盛り。陽射しは日に日に強くなる。この時期、光は木々の緑をやわらかく、かつ鮮やかに見せる。湿気をさほど含まない風は爽やかに樹間を通り過ぎる。光が風と新緑を絶妙に調和させる。

平日の昼前、珍しい光景に立ち会う。オフィス街の南北に走る御堂筋に人の影も車の姿もほとんど見えない瞬間があった。新緑は五月中頃から下旬にかけてピークを迎え、その後グラデーションを効かせながら深みを増す。規則正しく大通りに並ぶ高木の緑は初夏を先取りしているかのようだった。

街の一部を切り取って透視図的に眺める時、前景に緑があって、後景に建物が見え隠れするほうが落ち着く。逆の、前景に建物を配し後景に緑を置く構図では、緑が負けてしまうのである。

五月は花の季節でもある。薔薇園でも街中の花壇でもカラフルに咲き競っている。無粋な話だが、色鮮やかなシーンは苦手だ。当てもなくそぞろ歩きするのはくつろぐためであって、強い刺激を受けるためではない。緑には神経をなだめる効果がある。緑も色の一つだが、緑を含むと風景は限りなくモノクロームに近づく。


自然界に晩春と初夏の分節はない。人間が四季や二十四節気などの概念で線引きしているにすぎない。一括りに人間と言うのが乱暴なら、人それぞれとことばを変えよう。人はみなそれぞれの季節感によって春を惜しみ、あるいは夏を待つ。少々気温が上がっても春を感じれば春なのだ。この陽気はもはや夏だと判断すれば夏なのだ。

欧米からの観光客が袖なしTシャツに半パンで歩いている。その前方からジャケットとストール姿の日本人女性がやって来る。真夏丸出しのファッションと春に未練を残すファッションが往来で交叉する。他人の薄着や厚着には誰もとやかく言うべきではない。人それぞれが季節を感じ、好きなように着ればいい。

自分なりの季節感覚で若葉を見つめる。一週間後にはおそらく新緑の深まりを感知する。好きな場所で幻想の扉を開けてみよう。扉の向こうでも緑が広がっているだろう。もちろん緑と自分との間には隔たりがある。しかし、自分はすでに緑の中に投げ出されている。おもむろにベンチから腰を上げれば浄化されている自分に気づく。これが新緑の季節の恩恵である。

諸々のコンビニ表現

一説  便利な表現である。「一説によると」などと書いてあると、他説のことはそっちのけで、妙に納得してしまう。たかが一説なのに、されど一説として説得力を増す。たとえばこんな具合。

「一説によると、アサリの語源は『あさる』が転化したものだという」。

どんな説がいくつあるのか知らないが、「一説によると」とあるだけで素直に受け入れる。この一説、真説か異説かもわからない。『新明解』の語釈㊁にあるように、一説は本来「ある説(意見・うわさ)」にすぎない。他説への言及がなければ、引用された一説を信じるしかない。一説は「排他的唯一説」としてまかり通る。

宝くじ  ことばの意味を掘り下げもせずに、安易に比喩が使われるケースがある。パーティーでのくじ引き遊びと宝くじはまったく違う。なのに、次のような比喩を耳にすることがある。

「こんなチャレンジをしても、宝くじと同じで、当たるか当たらないか分からない」。

「くじ引き遊びと同じ」なら、たしかに当たり外れがある。しかし、宝くじと同じというのは比喩間違い。別に確率論を持ち出すまでもない。宝くじは当たらないものと考えるのが現実的なのだから。「こんなチャレンジをしても、宝くじと同じで、当たらない」と言うのが妥当である。

一円  ぽつんと「一円」と言えば、生活上最小の貨幣価値のことである。ところが、一円にはもう一つ別の、「広い範囲にわたる様子」という意味がある。まったく意味が違うので混乱することはないが、次の例はどうだろう。

「全国一円 (株)ホワイトキャット急配」

再配送の煩わしさに戦略を変えざるをえない宅配業界にあって、このご時世に全国どこへでもたったの一円で配送とはありがたい……と読み違えて荷物を持ち込んでくる人がいないともかぎらない。

おかしい  反論や批判にはきめ細かな表現が求められる。しかし、勢いよく突っかかったのはいいが、止めを刺すのが「おかしい」では的外れにして期待外れである。

某野党党首は反対派の急先鋒に立って滑舌よろしく強いことばを吐くが、さてどこに落とし込むのかとお手並み拝見していたら、「……私は、これは、人として、おかしいと思います」で締めくくった。延々と理屈を並べてきて最後に「おかしい」はない。おかしいなどという表現でコメントする時は半分ギャグっぽく微笑むものだろう。いかめしい表情と口調には合わないのである。おかしいはコンビニ表現だが、この一言でそれまでの強弁の影が薄くなる。

四字熟語  初見であっても、漢字で書かれていれば雰囲気から何となく類推できる熟語がある。たとえば「危急存亡」に出合うとする。何となくではあるが、危険が迫っていて命にかかわりそうな場面のことだと見当がつく。とは言え、四字熟語は知識・教養であるから、知らなければ意味不明である。たとえ書くにしても、「跳梁跋扈」だの「臥薪嘗胆」だのという熟語は唐突に使わないほうがいい。

漢字が示されても難解なのが四字熟語だ。話しことばで使う際にはいっそう気をつけなければならない。何度も苦い経験をしてきた。前後関係や文脈にも留意して「けいきょもうどう」(軽挙妄動)、「いっしそうでん」(一子相伝)などと発してもほとんど伝わらない。「はくらんきょうき」(博覧強記)などは、「白乱狂気」だと誤解されたこともある。「たじょうたかん」(多情多感)ですらわかってもらえないことがある。四字熟語ももはやコンビニ表現と成り果てたかのよう。使う側には便利で心地よいかもしれないが、小気味よい音を響かせる割には雰囲気以外の意味はほとんど伝わらないのである。

一本気な自販機

自販機は便利である。ここまで生活に溶け込んでしまった現在、ある日突然一斉撤去されたら不自由このうえない。あればありがたいではなく、無ければ困る存在になってしまった。だが、罪過もある。デリカシーに乏しい画一的なデザイン。一隅に数台が居並ぶと街の景観を著しく損ねる。それに、硬貨とモノが交換される動作は、いかにもワンパターンで無機的だ。

デザインに見所があり、景観の邪魔にならず、親しみやすく機械動作してくれるなら大目に見てもいい。そんな自販機に、つい最近出合った。屋外ではなく店内に設置された、かつての機械の良さを残す一台。久々に機械のかいがいしさに感応した。あのガチャガチャに似て、人と機械がフレンドリーだった頃の名残をとどめている。使い方がすぐに呑み込めない。硬貨投入から商品を受け取るまで少々時間を要したが、なかなか味のある機械だった。

その自販機はピーナツやオリーブなど、ワインのおつまみ缶専用である。高さ6.5センチ、直径5センチほどのごく小さな缶だ。この店ではワインの自販機もあって、好きなだけ量り売りしてくれる。一本買うには手が届かない高級ワインをグラス半分とか4分の1の量で味見できる。ワインを試飲する客はおつまみも欲しくなり、この機械に向かう。まず左から百円硬貨を一枚、右からもう一枚を同時に投入する。硬貨を入れたら、おもむろにアナログっぽいダイヤルを回す。軽く回すだけでは反応しない。しっかりと回し切るとピーナツの缶がガーンと落ちてくる。センサーなど付いていないから、動作はぎこちない。


自動販売機はモノを売る。モノでなければ、切符のような価値を売る。いずれにせよ、販売装置である。では、自動とは何か? ここが解釈の岐路になる。自動だからと言って、何から何まで機械がやってくれるわけではない。この機械の場合、縦割りに商品が分類されていて、本体をぐるっと回して欲しい商品を正面に持ってこなければならない。コインを入れ、ダイヤルを回し、落ちてきた缶を身をかがめて取り出さねばならない。機械がやっているのは硬貨を確認して缶を落とすだけである。それでも、これは自販機だ。ちなみに、英語ではわざわざ自動などとは言わない。単に“vending machine”(販売機)だ。自動とは、機械の動作のことではなく、無人という意味なのである。

自販機の第一号機には諸説ある。『自動販売機の文化史』(鷹巣力著)によると、2000年前の古代エジプトに原型があったという。アレキサンドリアの神殿内に取り付けられた聖水自販機がそれだ。上部の口から装置の中に硬貨を入れると受け皿に落ちる。重みで受け皿が傾きテコが作動し、水の注ぎ口のふたが開いて聖水が出てくる仕掛けである。起源を近代に求めるなら、元祖は英国の切手・収入印紙自販機(1857年)とされる。これは世界初の特許自販機だが、実用に供されたかどうかは不明。

前掲書は2003年に書かれたが、その当時も現在もわが国の自販機の普及台数はおおむね500万台をキープしている。自販機利用人口を1億人とすれば、20人に一台の割合。日本全国至る所に備わっていて不思議はない。むしろ、自販機のない場所を探すほうが難しい。飛行機内では見たことがない。無人島や刑務所にもないだろう。他にない場所はどこだろう……と想像し、皇居が思い浮かんだが、天皇皇后両陛下が利用しているイメージはまったく湧かない。「ない!」と結論を出す前に、調べてみた。なんと皇居内に自販機があるのだ。宮内庁の食堂の牛乳の自販機がそれ。牛乳は御料牧場製で、お値段は一瓶60円という格安である。一般人はよほどのことがないかぎり出入りできないから、まず賞味機会には恵まれない。

無機的な文明装置としてではなく、プリミティブな文化的機械としての自販機。モノを手にするまでの過程がアナログ的で、動作が少々不器用。そんな一本気な自販機が街中ではなく屋内で待ち受けているのなら、拒絶する理由はない。

〈衣食住〉雑考

衣食住によって人の暮らし向きを窺うのが世の常である。老いも若きも、男も女も、居を構えて卓につく。その時、おそらく衣服を纏っている。衣、食、住と並ぶ順に重要度が高いわけではない。多分に語呂の良さを考慮してのことだろう。文明的生活にはどれも欠かせないが、重要度と言うなら食が一番である。富める者もそうでない者も、まずは食わねばならない。

衣食住が生活の基本の基本であることは自明だ。ところが、「衣食足りて礼節を知る」という慣用句では住が欠落している。住居で裸で暮らすライフスタイルがないことはないが、肌に密着した衣があれば住み家がなくても何とかなる。実際、都会ではそうした生き方の路上生活者を見掛ける。西洋に「鳥かごはどんなに立派でも餌の代わりにはならない」という諺がある。住に対する食の優位性を謳っている。「衣服が人をつくる」というのもある。これに倣えば「食が人を生かす」ことは間違いない。


ところが、自然界の生きものたちは巣を作っても衣を求めない。この点においてヒトは彼らと同類ではない。ヒトが生きる上では衣食は絶対的な必要条件でり、衣食足りてこその住み家なのである。さて、衣食住の三点セットが整ったとしよう。それでも、幸福は担保されない。生命的に生き長らえることを幸せな暮らしへと止揚するには、さらにその他諸々の十分条件が揃わねばならない。

ヒト以外の生きものの生存を支えるのは「性食住」である。生きものは生きるために営み餌を探す。縄張り争いに勝ち抜けばテリトリー内に巣を作る。生殖、捕食、繁殖の流れはきわめて合理的に見える。生きものによっては移動しながら行く先々でこの合理的行動を繰り返す。衣服を鞄に詰めて旅する渡り鳥はこれまでのところ一羽も発見されていない。

対して、ヒトが暮らす様相はもっと複雑である。衣の他に「医」が欠かせないし、生にも「意」を求める。食に加えて「職」が必要だし、「色」のある装いを欲しがる。さらには、住のみならず、時には「銃」を携え、飽くことなく「充」の状態を目指す。こんなふうに、あれもこれもと条件を満たしたとしても、幸福という境地に到れる保証はない。衣食住その他諸々足りてなお、怒り哀しむの理から抜け出せないのである。衣食住にあと一つだけ足して「衣食住□」とするなら、その「□」にどんな一文字を入れるかによって人生哲学が浮かび上がる。人間関係とコミュニケーションを重視するぼくは今後も「衣食住」で生きたいと思っているが、「衣食住」も捨てがたい。

GWの街歩き

う何十年もGW中に遠出していない。ゴールデンウィークという和製英語が気に入らないからではなく、わざわざこの期間中に行ってみたい場所がないという理由。混雑も長蛇の列も歓迎しない。人影まばらな街中を当てもなく歩くほうがよほどいい、と考えている。歩き慣れた道すがらに新しい発見があって、近場の街歩きもまんざらでもない。この時代、自分のペースを貫ける機会は貴重である。御堂筋を大阪版シャンゼリゼ通り、などとぼくは思わないが、誰かがそう比喩したことがある。その御堂筋を歩いてみた。


御堂筋は全長4キロメートル。往復するのは大変だ。しかし欲張らずに、たとえば本町から北上して淀屋橋へ、そこから少し足を延ばして土佐堀川と堂島川を渡ったあたりまでなら1.5キロメートル足らず。行って帰ってきてもちょうどよい距離だ。ところで、御堂筋は彫刻ストリートでもある。東西の舗道に世界レベルの逸品を含む29体の作品が屋外展示されている。複製やレプリカではない。なかなか太っ腹な試みだといつも感心しながら鑑賞している。

陽光ひかりの中で』という作品がある。ウェブの解説にはこう書いてある。「人は心満たされるとき、豊かな暖かさを醸し出すと同時に、私たちに安らぎを与えてくれる(という作者佐藤敬助の思いが表現された作品)」。このコンセプトを結実させて一体の像が誕生した。すなわち、陽光の中で全裸の少女(?)がシャツだけを着て座る姿だ。なるほど、芸術は不可解にして深淵である。

ビルが建ち並ぶ通り。とある企業の敷地内に誰でも入れる空間がある。プロムナードがあってそぞろ歩きができる。あっと言う間に踏破できてしまうが、先がわからないように少々曲がりくねらせてあるので、視覚的には長い遊歩道に見える。歩けばプロムナード、石のベンチに腰掛ければオアシス気分。樹木の隙間に見えるビルを無いことにすれば、見知らぬ街に遠出してきたような錯覚に陥る。もちろん困惑する錯覚ではない。

帰りは御堂筋を南下する。ネオルネサンス様式の日本銀行大阪支店前で立ち止まれば、道路を挟んで市役所、図書館、中之島公会堂が展望できる。高層ビルが多い立地にあって市役所は9階建て。今では低層の部類に入る。空が晴れて澄みわたる日には川面に青が映り込み、いい感じの水辺の風景になる。ところが、景観努力の最後の詰めが甘い。「追突注意」という黄色い立て看板にがっかりするのだ。この看板で追突事故が減るとは思えない。下手に差し出がましいマネをすると景観が台無しになるという例である。

気分を取り直して南下する。御堂筋が途切れて別の通りに変わる。緑と共存するといううたい文句の商業施設に入る。かなり疲れている。疲れたら座りたくなるものだ。疲れている時はソファは逆効果だ。また、身体全体を包み込んでくれるような椅子もよくない。尻にやさしくない堅いベンチがいいのである。公園でくつろぐベンチはおおむねそういうしつらえになっている。

自分に合う家具選びは難しい。しっくりくるかこないかの感覚は身にまとう衣装に似ている。椅子は家具である。座り心地とデザインと用途の三要素を揃えてくれる椅子が理想だ。言うまでもないが、「彼が次に狙う椅子は……」というような比喩としての椅子の話ではない。家具としての、あるいは作業や休息環境としての椅子。エスカレーターを上がると、足腰を休めるのに絶好の長椅子が現れた。背もたれもクッションもない簡素なデザイン。ここに三人で掛けるのではなく、独り占めできれば贅沢このうえない。そして幸いなことに、しばしの間、思い通りになったのである。