サンフランシスコ日記(4)曲がりくねる坂

ガイドブックを頼りにハイド通りをハァハァと息を切らせながら上がってきた。人だかりしているその場所がロンバード通り。あまりにも傾斜がきついので、1920年代に意識的に道をくねらせた。どうくねらせたかと言うと、5メートル下っては道を曲げ、また5メートル下っては道を曲げた。これを何度か繰り返して勾配を少しでもゆるやかにしようとしたのである。

勾配はゆるやかになったものの、車は曲がった直後に次の急カーブに備えなくてはならない。この曲線の坂を下るすべての車は歩くより遅い。赤いレンガを敷き詰め、カーブを描く道路に沿って色とりどりの鮮やかな花々が花壇を飾りたてている。この一画に住んでいる人の車の往来も見かけたが、観光で訪れている大勢のドライバーたちがここを通りたがる。運転しながらも、前の車がつかえるとすぐさまカメラを構えるドライバーもいる。

カメラを構えながら、ゆっくり急勾配の階段を下りては立ち止まりして写真に収めた。家の建て方にも工夫があり、眼下に海岸が見晴らせるので住むには恰好のロケーション。しかし、観光シーズンはさぞかし迷惑に違いない。意識して観光スポットにしたわけではなく、そもそも住民便宜のための工夫だったはずだから、自宅周辺を観光客がたむろするとは想定外なのである。

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ロンバード通りを坂上から下る。光景➊
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光景➋
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光景❸
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光景➍
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光景➎
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通りの終わりまで降りきってから見上げる。花壇の合間を縫うようにくねくねと道が折れている様子がわかる。ここを車が徐行する。

サンフランシスコ日記(3)青い明光

サンフランシスコと大阪は姉妹都市関係にある。姉妹都市だからといってどこかしら雰囲気が似ているなどということはない。しかし、この街にさほど違和感を感じないのは、通りや賑わいや店舗の数などに日本の大都市構造と共通点があるからだろう。もしサンフランシスコに坂とケーブルカーがなかったら、どこにでもある街並みと変わらない。地形と、その地形に合った乗り物がこの街の生命線になっている。

海岸線も特徴の一つだ。ピア39にやって来ると、この街が神戸に酷似しているように見えてくる。正確なことはわからないが、神戸のモザイクがここを真似たのではないか。この推理が間違っているのなら、サンフランシスコのピア39のほうが神戸を真似たに違いない。しばし目を閉じ、再び開けてみると、神戸にいるような錯覚に陥る。

昨日パスした屋台でシーフード料理を食べる。大人の片手より一回り大きいパンの中身をくり抜き、その中に具だくさんのクラムチャウダーを注ぐ。もう一品、イカ(caramari)のガーリック風味のから揚げ。二つで18ドルくらい。「うまいかまずいか」の二択なら、うまいの欄にチェックを入れる。だが、「安いか高いか」となれば微妙だ。18ドルもするならうまくて当然という感じがする。食に貪欲な日本人にとって、フィッシャーマンズ・ワーフの名物料理の費用対効果は普通である。

少し沖合いにアル・カポネが収容されていた監獄の島アルカトラスが見える。遊覧して上陸できるが、所要4時間と聞いてやめた。当初の予定通り海岸沿いを歩き、ハイド通りに入ってブエナビスタ・カフェ(Buena Vista Cafe)の前に出る。アルコールの入ったアイリッシュコーヒーで有名な老舗店だ。競馬ファンならずとも聞き覚えがあるかもしれない。桜花賞とオークスの二冠に輝いた最強牝馬の一頭ブエナビスタはスペイン語で「すばらしい景色」という意味である。

この店の前をさらに上がっていくとリーヴンワース通りと交差する。ここまでの道は冗談抜きに心臓破りの坂だ。その坂から左を見下ろせばロンバード通り。ここが「世界で最も曲がりくねった通り」と呼ばれる曲者の坂。続きは次回。

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ピア39の土産店・飲食店通り。
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ピア39には迷うほどのシーフードレストランがある。
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ピア39のヨットハーバー。
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沖合いおよそ2キロメートルのところにあるアルカトラス島。
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海岸の道路に埋め込まれているトレイルコースの標識。
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手前がクラムチャウダーの大盛り。パンはやや酸味が強い。その上がカラマリのから揚げ。チリソースとタルタルソースがついている。
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いろんな種類のケーブルカーがある。イタリアやオーストラリアでお払い箱になった路面電車が活躍している。
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ハイド通りとビーチ通りの角にブエナビスタ・カフェがある。
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ブエナビスタ・カフェの建物。
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ハイド通りの高い位置から振り返る。なるほど、急勾配が”ブエナビスタ”を演出している。

サンフランシスコ日記(2) ドロレス伝道院

カリフォルニア州はゴールデンステート(Golden State)という愛称で親しまれている。つまり、「黄金の州」。アメリカの州にはすべてこのような愛称がある。学生時代にいくつか覚えた。たとえば、ニューヨーク州がエンパイアステート(Empire State=帝国の州)、フロリダ州がサンシャインステート(Sunshine State=日光の州)という具合。

傑作はミズーリ州だ。この土地の人たちは疑い深いということになっていて、誰かが何々を持っていると自慢しようものなら、「じゃ、見せてくれよ」と言う。なので、ショーミーステート(Show Me State)と呼ばれる。アロハステート(Aloha State)ならハワイ州というわけ。さしずめ「県民性コンセプト」といったところだ。

さて、初日の夕方。ホテルのレストランに心が動かず、ケーブルカーで近くのスーパーへ買い出しに。行きが急な坂なのでケーブルカーに乗る。チキンのローストとサラダとパンを買って部屋で食べる。

食後にカリフォルニア通りの坂を下って東側の海岸を目指した。下りだからぶらぶらと30分くらいは歩ける。途中、中華街を探訪したが、横浜のほうが大規模で活気があるように思う。さらに下ると、オフィス街。そこを抜けて周回バスの乗り場を探したが、あいにく地図が手元にない。誰かに聞けばそれまでだが、ま、いいかと気まぐれにフェリーターミナルまで歩いた。ちょうどいい時間に夕暮れ空が見られたので、歩いて正解だった。

二日目の朝。時差ボケはない。近くのカフェでモーニングスペシャルを注文する。トーストと卵2個のスクランブル。さて、どこへ行くかと少々思案して、ドロレス伝道院(Mission Dolores)に決めた。ホテルからはケーブルでパウエル駅を経由して地下鉄で4駅目。後でわかったことだが、地図に間違いがあり、方向を誤って歩き始めていた。通行人に道を尋ねたが、スペイン語の単語のアクセント位置がよくわからない。「ミッション・ドロレス」と文字面通りに発音したら首を傾げられ、「ミッション・ドローレス」と言い直して通じた。場所は探すまでもなく、目と鼻の先だった。

カリフォルニアにはこのようなミッションが21もあるという。ここが州内最古の建物で、もらったリーフレットには年代的には1791年完成と記されている。但し、この地に入植しミッションが始まったのは建国年の1776年に遡る。あまり細かなことはわからない。白壁の装いからスペインの影響を見て取れる。伝道院から徒歩、ケーブル、バスを乗り継ぎ、再度フィッシャーマンズ・ワーフを目指した。ピア3939番埠頭)からの話は次回。

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幻想的な夕暮れ時のフェリーターミナルの海岸通り。
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夜は10℃を切り、冷たい風が吹く。6月に冬装束でも不思議はない。
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駐車状態から坂の勾配が半端ではないことがわかる。
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朝のカフェ。”モーニング”は日本同様だが、卵料理が選べる。
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ドロレス伝道院の聖堂を覗いたらミッションスクールの卒業式だった。
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18世紀を偲ばせる小ぢんまりした博物館。
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伝道院の中庭。瀟洒な佇まいである。
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ドロレス伝道院と聖堂の全景。
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聖堂と鐘楼。欧米では常にセットである。

サンフランシスコ日記(1)ケーブルカー

たまたまJulie London I Left My Heart in San Francisco”(思い出のサンフランシスコ)を聴く機会があり、ふと拙い滞在記を2009年に綴ったのを思い出した。そのサンフランシスコ滞在記を加筆修正して5回にわたって投稿する。


6月のある日の午前11時半、サンフランシスコ空港に到着した。海岸近くのジャイアンツスタジアム前を過ぎて名所となっている坂に入る。想像以上にきつい勾配の坂をタクシーは勢いよく駆け上る。市街のもっとも高い丘の一つ、ノブ・ヒル(Nob Hill)の一角にあるホテルにチェックインした。

荷を解いて休む間もなくホテルを出て近場を散策することにした。にわか土地勘を得てから、最寄りのケーブルカー乗り場へ。とりあえずフィッシャーマンズ・ワーフ(Fisherman’s Wharf)を目指そうとしたが、待つこと10分、15分、20分……待てどもやって来ない。人はどんどん増えてくるが、ケーブルカーの上ってくる気配はまったくない。

焦れてきたので、10分ほど下り坂を歩いて発着駅へ行ってみた。何か事故があったらしく、乗車待ちの客で長蛇の列ができている。ケーブルカーが何台も連なって動かず、発車待ちの状態。激しい空腹を覚える。近くのショッピングモールに駆け込み、ホットドッグとプレッツェルのシナモンスティックで腹ごしらえした。戻ってくると、ケーブルカーは動き始めていた。

乗車料金は15ドル。かなり割高だ。と言うわけで、18ドルの3日間チケットを購入した。これを使えば、ケーブルカーも市内の地下鉄もバスも何度でも利用できる。乗り放題チケットで心強くなり、方々へ乗り継いでみる気になった。

とりあえずパウエル駅からノブ・ヒルへ戻り、そこから坂を下って海岸へ。海辺は思ったほどの賑わいではない。日本人らしき観光客は何組かいるが、ツアー団体客は見当たらない。そう言えば、残席わずかと急かされて予約したユナイテッド航空の関空発の便はがらがらだった。この時期にしては珍しいインフルエンザの影響があったのか。

明日もう一度来ればいいと思い、フィッシャーマンズ・ワーフは中途半端に歩かずに、ホテルに戻ることにした。ホットドッグのせいもあってカニやエビの海鮮屋台に食指は動かなかった。気がつけば、日本時間なら午前9時。もう24時間以上寝ていないことになる。

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ホテルから見るノブ・ヒルの光景は乾いて澄み切っていた。
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星条旗がなびく建物が宿泊したホテル。到着日の午後は好天、しかし風が強く、とても6月とは思えない寒さだった。
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車両か事故のトラブルが解決して、ケーブルカーがようやく発着駅に入ってきた。
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木製の円盤の上に車両を載せた後は、係員が手動で回転させてケーブルカーの向きを変える。
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フィッシャーマンズ・ワーフの「玄関口」。
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湿気がないせいか、フィッシャーマンズワーフでは海特有の潮の匂いが漂ってこない。
鐘を勇ましく鳴らしながらケーブルカーが疾走する。
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「ケーブルカー鐘鳴らしコンテスト」の開催案内。運転士がテクニックを競う。

日曜日の散策

休みの日に車で出掛けることはない。主義主張ではなく、車を持たないからだ。だから歩く。距離にして10キロ程度なら、交通機関を利用せずに歩く。自分の意思で散策するかぎり、苦にはならない。半日ほど歩き、ランチをして本屋や文具店を冷やかせば、ちょっとしたスローライフ気分が味わえる。

仕事の疲れが出てくる週末には陽を浴びるようにしている。心身のリフレッシュには公園での日光浴が手っ取り早い。ベンチに腰掛けていると、どこかの店の厨房の匂いを風が運んでくる。ニンニクの香り。気の向くまま足の向くままなので、直感に従う。パスタが食べたくなった。

そこから十数分歩いて、何度か通ったイタリアンの店を目指す。本日のパスタはほうれん草とチーズ。具材とパスタの分量のバランスがいい。「よくかき混ぜてお召し上がりください」とシェフ。素直に混ぜる。誰もが経験しているはずだが、ほうれん草を大量に食べると歯の裏が渋っぽくざらついてくる。シュウ酸の仕業。気にせずに食べ続ける。食後のエスプレッソにたっぷり砂糖を入れて飲み干せば渋味を緩和できる。


店を出てオフィス街を歩く。休日のオフィス街は、ビル群に囲まれながらも、人気ひとけが少なく、緑と舗道がビジネス色を排除して、生活空間と見間違うような、ちょっとした街並みに変貌する。その一角に最近オープンしたようなカフェダイニングが目に入る。日当たりのよいオープンテラスには観光客と思しき人たちがゆったりと時間の流れに身を任せている。エスプレッソを飲んだ直後だ、さすがにパスして通り過ぎる。

お気に入りのステーショナリーの店で書き味抜群のサインペンに出合う。サインする機会などめったにないが、ラフな構想をしたためるにはもってこいの走り具合と太さ。値段も260円とくれば、これは買いである。しかし、替え芯はなく使い切りと聞いてあきらめた。使ったペンは捨てにくいのだ。しばらく歩いて土佐堀川に架かる淀屋橋へ。写真左に見える稜線は生駒山。晴天の日ならではの風景からのご祝儀。

中之島に出て空を仰ぐ。リアルタイムで描かれる飛行機雲の軌跡を追う。曲線的に歩行してきて見上げる白い直線。何度も見た光景だが、三つの画像を並べてみたら、飛行機雲の三部作が出来上がった。

水のまちに降りそそぐ白い太陽の光を見た

ひょんなことから昔話が出て、過去を遡る機会があった。珍しく自伝的な話を書こうと思う。

父親に手習いを勧められ、10歳の時に書道塾に通い始めた。好きなのは絵のほうだったが、逆らう理由もなかったので、言われるまま続けた。中学に入る頃に近所の師範の手ほどきを受けることになった。中学3年になってまもなく五段になり、最高ランクの特待生の認定をもらった。それを最後に筆を置いた。

ぼくと入れ替わるようにして父親が書を始めた。三十代後半、かなり遅いスタートだ。もともと器用な人なので、書芸院、日展に入選し、あっと言う間に師範格になった。書道から離れたぼくは、高校受験を控えていたにもかかわらず熱心に絵を描くようになった。

好きこそものの上手なれ。中学時代の美術の成績はつねに5段階の5。中学3年の時の女性教師は「過去何十年も美術を指導してきて、きみが一番センスがいい。絵の道に進めばどうか」とまで言う。この先生は、絵であれ工芸品であれ図案であれ、ぼくのどんな作品も高く評価してくれた。自分では凡作だと思ったのに、いつもべた褒めしてもらえた。ある作品が先生に気に入られ、それを機にある種のブランドができたのだろう。学校内外の賞をいろいろもらったが、いま流行りの「忖度」もあったに違いない。


書道と違って、誰からも絵画を教わったことがない。だから、基本のできていない我流である。もとより上手に描こうという感覚すらなかった。出来上がった絵は同級生が描きそうもない構図であり、風変りな色遣いであり、とりわけ題材そのものがわけがわからない。本であれ絵であれ、作品のタイトルは作品と同等に重要な要素だと今も考えているが、当時もそうだった。絵を描く以上の時間とエネルギーをタイトル案に注いだのだった。

先生に絶賛された作品に『水のまちに降りそそぐ白い太陽の光を見た』というのがある。「作品A」や「無題」や「静物」と名付け、画題の風景の固有名詞をタイトルにしていた同級生の作品と違って、いつも長ったらしいタイトルを付けていた。絵だけで表現できないもどかしさと拙い技術を文章で補ったようなものだ。先生は、絵のみならず、多分にタイトルも評価したのだろうと今も思っている。タイトルは写真のキャプションと同じような役割を担う。情報誌の編集にあたって見出しとキャプションには並々ならぬ工夫をすることがある。

絵描きではなく、元来が企画人であり編集者なのだろう。美術の世界に行かなくてよかったとつくづく思う。ところで、『水のまちに降りそそぐ……』という作品は手元にも実家にもない。子どもの頃の作品は、絵も書もすべて自ら処分したか、処分されてしまった。構図も色もよく覚えているが、再現不可能である。先日、デジタルペインティングの単純な機能を使い、タイトルを再解釈して遊んでみたところ、こんな一枚ができあがった。原作のほうがよほど恣意的で出来はよかったはずである。

そこにある塔

『パリ 旅の雑学ノート――カフェ/舗道/メトロ』という本がある(著者は玉村豊男)。旅人として一週間やそこらパリに滞在すると、カフェに立ち寄り、舗道を歩き、メトロに乗ることが日常になる。この3点セットをパリならではの特徴と見なすことに強く同意する。

さらには、秋深まって黄金色に輝きを放つ枯葉。枯葉と書いた瞬間、あのシャンソンのメロディが流れ始める。芸術とファッションと食文化もパリらしい概念だ。目に見えるものと頭に浮かべる概念を繋ぎながら街をそぞろ歩けば、旅人はすぐさま生活者になりきることができる。ついでに教会や美術館、点在するマルシェと蛇行する川も付け加えておこう。

しかし、上記で取り上げた「らしさ」はどれもパリの「不動の象徴」たりえない。そう呼べるのはエッフェル塔を除いて他にない。諸々のパリらしい風物や特性は属性にすぎないのだ。しかし、エッフェル塔はパリという都市を超越するかのように、いつでも視線の先に聳えている。塔を見ずに暮らすにはかなりの努力を要する。どんなに見ることを拒絶しても、所詮「見て見ぬ振り」の域を出ない。まるでパリのほうがエッフェル塔の属性かのようである。

エッフェル塔が視界に入らないように生きるには、モーパッサンに倣うという手がある。つまり、エッフェル塔のレストランにこもって食事をするのだ。そこだけが、パリで塔が見えない唯一の場所である。モーパッサンのエッフェル塔嫌いはよく知られた話だが、毎日レストランに通い詰めた文豪は、そこに向かう途上では目隠しをするか目をつぶって誰かに導かれていたのだろうか。


エッフェル塔は1889年のパリ万博開催に合わせて建造された人工物にもかかわらず、パリに暮らす人々や旅人にとっては、はるか昔から自然の造形として存在し続けてきたかのようである。過去の記憶をよみがえらせ、現在の経験を実感させ、そして未来の想像を掻き立てる存在として、エッフェル塔はつねに「そこにある」。

エッフェル塔を見るのに苦労はいらない。それは、つねに人々の目に触れる存在であると同時に、展望台に上がれば市中を眼下に見渡せる眺望点でもある。ロラン・バルトはその著『エッフェル塔』で言う。

「エッフェル塔は、パリを眺める。エッフェル塔を訪れるとは、パリの本質を見つけ理解し味わうために展望台に立つことである」

どの街に行っても塔の尖端を目指し、一番高い建造物の最上階に上がったものだが、過去三度パリを訪れたのに、残念ながら展望台に立つ機会はなかった。長蛇の列に並ぶのが苦手なのだ。列の最後尾につくのを諦めて所在なさそうにパネルを読み、塔のふもとで組み上がった鉄骨を見上げて、枯葉を記念に持ち帰っただけである。

という次第だから、塔から街を眺めることに想像を馳せることはできない。塔に触発されるべきぼくの想像力は塔を見つめることだけに限定される。それゆえに、余計に「そこにある塔」――見ようとしなくても、どこにいても視界に入ってくる象徴としての塔――だけが刷り込まれてしまっている。

メトロを乗り継ぎ、カフェで時間を過ごし、舗道を歩く。ノートルダム大聖堂やルーブル美術館を訪れ、セーヌ川やサンマルタン運河の岸辺に佇んでも、エッフェル塔を抜きにしてパリの旅は完結しない。塔を見ずに帰国するわけにはいかないのである。

バルセロナの夜道

バルセロナの旧市街のゴシック地区は歴史の面影を街並みに色濃くとどめている。去る8月、観光名所のランブラス通りが無念にもテロの現場となった。通りから横道に入るとそこからがゴシック地区である。数年前、雨がそぼ降る夕暮れ時に裏通りを歩いてみた。夜道を一人で歩いても大丈夫だろうかと不安にさせる雰囲気が漂うが、人影がまったくないわけではない。勝手知った振りして闊歩することにした。

商店や飲食店の灯りがあるうちは前方がよく見えるが、角を曲がり深く分け入るにつれて店は点在するようになり、道は段々と薄暗くなる。さほど明るくもない街灯と古色蒼然とした建物の壁を伝うようにして暗夜行路を歩く。筋一本間違えば迷路に投げ出されかねないが、何とか目指すバルに辿り着いた。


バルセロナはスペイン北東部のカタルーニャ自治州の州都である。建築家アントニ・ガウディや画家ジョアン・ミロはカタルーニャ出身であり、他にも錚々たる有名人がここに生まれ、あるいは他所からここにやって来て、様々な分野で一世を風靡した。

スペイン語は通常カスティーリャ語と呼ばれ、全土の公用語になっている。ところが、カタルーニャ州でははカタルーニャ語を母語として話している人が多い。投宿したホテルのフロントでは、スペイン語の“Buenos dias”ではなく、“Bon dia”と挨拶された。語源的にはみな同じだが、ポルトガル語の“Bom dia”、フランス語の“Bonjour”、イタリア語の“Buon giorno”の音のほうが近い。ガウディゆかりの邸宅のアートギャラリーでも、スペイン語と並んでカタルーニャ語の図録が売られていた。そのカタルーニャ語版を、読めもしないのに記念に買った。

今そのカタルーニャ州が国家として独立しようと激しく動き始め、スペインが混迷の状況に置かれている。多数を占める独立派は「カタルーニャはスペインではない、れっきとした別の国だ」と訴え、文化も風習も違うと強調する。カタルーニャ語にはスペイン語との共通語も少なくないが、スペイン語の一方言として片付けてしまえるような同質の程度ではない。とは言え、当地には独立反対派もいて、独立後の経済的自立の、一抹どころでないかもしれない不安に怯えている。


さて、入ったのは知人が紹介してくれた“El Xampanyet”というバルXで始まる単語はカタルーニャ語特有だ。この綴りで「エル・シャンパニエット」と読む。地元の人たちや観光客で賑わう店ゆえ、カウンターに二、三人分の空きがあるのみ。まるで暗黙の了解ができているかのように、店名と同名のスパークリングの白が阿吽の呼吸で出てくる。カバの一種である。

棚にはおびただしい種類の缶詰が図書館の本棚のように整然と積まれている。缶詰を使ったお手軽スピードメニューのタパスが所狭しと並ぶ。マグロとチーズの串、アンチョビ、生ハム、バゲットを選ぶ。小皿なので種類が楽しめるのがタパスのよいところだ。ぼくの背後では丸テーブルを囲んで数人のスーツ姿が立ち飲みしている。振り向いて視線が合い、自然と輪の中に入って乾杯というムードになる。聞けば、イタリア人、スペイン人、ドイツ人らのビジネスマンだった。

店を出ると小雨は上がっていた。濡れた石畳はほどよく光に照らされて、普段見慣れぬ色に染まっていた。その日着ていたエンジ色の半コートは今も愛用している。季節は今頃の晩秋。この時期の夜更けの澄んだ空気は酔い覚ましの深呼吸に向いている。

もう一度バルセロナを訪れたいと熱望しているが、現状に鑑みるに小躍りして行きづらい。しばらく様子を見ることになるだろう。

深まる秋の記憶

明日から3日間の連休。予定は特にない。秋深まる気配に心身を晒すような休暇にしてみようと思わなかったわけではない。しかし、「行楽シーズン到来」という世間一般の常套句が脳裏をかすめた瞬間、尻込みしてしまった。

今住む街の周辺にも、手招きせずとも秋は向こうからやって来る。眺めるのは同じ光景だが、初秋から晩秋へと模様は変わる。他の季節に比べて、秋の風情のグラデーションは豊かだ。たとえその場が都会であっても。と言う次第で、近場を散策すれば十分ではないかと、半分前向きに、だが半分面倒臭がりながら、結局、例年と同じ過ごし方に落ち着きそうである。

オフィスから歩いてすぐの場所に天満橋が架かり、その下を大川が西へと流れている。天満橋の下流にある次の橋が天神橋。二つの橋の距離はわずか350メートル。橋を渡った対岸には、ちょっとした遊歩道があり、川に沿って歩くと樹木の色合いが秋ならではの装いを演出している。もうかなり色づいているだろうと想像するばかりで、夏が過ぎてからはまだ歩いていない。


こんなことを思いめぐらしているうちに、記憶の扉が開いて過去に誘われた。場所はパリのヴァンセンヌの森。広大な森の端っこに一瞬佇んだに過ぎないが、撮り収めた数枚の写真の光景が、タブレットのアルバムを検索する前に忽然と現れたのである。

ヴァンセンヌの森(Bois de Vincennes)。それは201111月だった。今の時期よりももう少し秋深まった頃。緯度の高いパリのこと、日本の感覚ではすでに冬だった。それが証拠に写真に映るぼくの衣装はしっかりと乾いた寒さに備えている。約10日間借りたアパルトマンはパリ4区のマレ地区、メトロの最寄り駅はサン・セバスチャン・フロワサール。あのバスティーユやヴォージュ広場やピカソ美術館も徒歩圏内という好立地だった。

その日は青い空が広がる絶好の日和。窓外の景色を堪能しない手はないから、メトロではなく迷わずにバスを選んだ。広い道路の閑散としたエリアにバスが停車する。そこから、自分なりには森に入って歩いたつもりだが、後で地図で確認すると入口あたりをほんの少し逍遥した程度だった。ともあれ、静謐の空気が充満していた。色があるのにモノトーンに見せる風景が印象深い。朝靄のあの光の記憶は今もなお鮮明である。

心身が浄化されて帰りのバスに乗り込んだ。バスに乗る直前に歩いた通りの名称がジャンヌ・ダルクと来れば、忘れようとしても忘れるはずがない。秋は記憶の扉が開きやすい季節なのだろう。「記憶は精神の番人である」というシェークスピアのことばが思い浮かんだ。

行きつけの店

昨夜、半年ぶりになじみの蕎麦屋に寄り、ざる蕎麦を注文した。徒歩圏内には名の通った蕎麦屋が数軒あるが、蕎麦はここでしか食べない。実は、ぼくが勝手になじんでいると思っているだけで、店にとってぼくは常連客ではない。十数回ほど足を運んでいるが、月に二、三度という頻度ではない。それどころか、半年や一年空くことすらある。顔を薄っすらと覚えている店員がいるかどうかも怪しい。

タイトルを書いてから、山口瞳に『行きつけの店』という本があるのを思い出した。池波正太郎の『ル・パスタン』にもその類の話が出てくる。行きつけとは気になる表現である。今朝、ドイツ文学者の池内紀の新刊『すごいトシヨリBOOK』が朝刊の広告欄に出ていた。抜き書きに「自分の居酒屋、自分の蕎麦屋を持つ」とある。はたしてぼくに「自分の」と言えるような飲食店があるのか。

働き盛りの二十数年間、接待をする側でもありされる側でもあり、ずいぶん贅沢な店でご馳走をいただいてきた。元々食材や料理に人並み以上に食い意地が張り、強い好奇心があったので、私費でもいろんな店を覗いてきた。今のようにスマホで食事処を事前にチェックすることはなかったから、見当をつけた店に入るのは賭けだった。どちらかと言うと、一見の勘は良いほうで、十軒のれんをくぐったらだいたい八勝二敗という感じである。


昔はジャンル別に行きつけの店がそれぞれ二、三軒あった。複数の店でぼくは確実に常連扱いされていた。今ではほとんどない。広告にあった前掲の本では、歳を取ってこその行きつけの店を「自分の居酒屋、自分の蕎麦屋」と言っているようだが、ちょくちょく行く店で、店主がぼくをよく知っている店は数えるほどしかない。オフィス近くなら、隣りのつけ麺店と二つ通り向こうの喫茶店くらいのものだ。酒がなくて困るタイプではないので居酒屋にはほとんど足を運ばない。自分の居酒屋は過去にもなかったし今もない。

「行きつけの」とか「自分の」とか言えるような店などいらないとずっと思ってきたが、昨夜久々の蕎麦屋に行き、今朝偶然に本の広告を見て、ちょっと考えが変わった。行きつけの蕎麦屋、行きつけの立ち飲み、行きつけのバー、行きつけの食堂……この歳だからこそあってもいいのではないか。周囲にこれといった居酒屋はない。気に入っていたバーは閉店した。おかずを選べるような大衆食堂は消えて久しい。まずは昨夜の蕎麦屋をもう少しひいきしてみようと思った次第である。

いきなり二八のざる蕎麦のつもりが、夜の九時前だというのに先客たちはみんな料理を食べて飲んでいる。釣られるように瓶ビールを注文した。グラスはヱビスだがビールは黒ラベル。あてにはいつもの裏ごしおから。この店でこの一品を所望しなかったことは一度もない。

辛味大根にほどよく刺激され、蕎麦の噛み心地、喉越しは申し分なかった。久しぶりなのに落ち着くのは、心のどこかで「自分の蕎麦屋」と思っているからだろう。大晦日に訪れるだけではもったいない店だと思いながら店を出た。いい夜風が吹いていた昨夜であった。