好きこそものの上手なのか?

何かを嫌うエネルギーによって幸運が逆説的に招かれる。そんな珍事の事例を昨日書いた。いまたまたま珍事ということばを使ったが、これが稀なケースかと慎重に考えてみたら、実はそうではない。意外にも頻繁に発生しているの。いや、ぼくの身の上に起こっているのではない。ぼくにはあまり起こらない。嫌悪エネルギーを炸裂させて何かを生み出してしまうのは、好き嫌いの激しい人たちである。

ぼくときたら、まず食べ物の好き嫌いがない。国内はもとよりどこの国にいても出された食べ物を拒否したことはない。もちろん罰が当たるのを恐れたりモッタイナイの精神で生きたりしているわけでもない。おそらく環境と習慣形成によるものだ。人間や仕事のテーマになると食べ物ほど何でもオーケーとはいかないが、世間の水準に比べれば許容範囲はかなり広いと思っている。好き嫌いがないのは、どちらかと言えば美徳とされているようだから、少しくらいは胸を張ってもいいのだろう。

ところが、この好き嫌いの無さが一概に長所にならないのだから不思議である。むしろ、好き嫌いのない特性が「癖がなくて、包容力があり、融通がきく」へと敷衍される。癖がないは「特徴がない」、包容力があるは「相手につけこまれる」、融通がきくは「ゴリ押しを受容する」と読み替えることができる。なんだか、少しもいいことがないではないか。まるで思想なき八方美人、あるいは無難な等距離外交みたいである。


嫌いなものがないことが「何でも好き」を意味するわけではない。「とりあえずオーケー」という程度の好みも多々含んでいる。そうなのだ、「好き嫌いがない」というほんとうの意味は「嫌いがない」ということであって、「何かをとても好んでいる状態」なのではない。だから、ここにおいて「好きこそものの上手なれ」は成立しにくい。「ものすごく好き」が際立たないと上手への道は開かれないからだ。

もしかすると「嫌いこそものの上手なれ」が真なのではないか。何事かを猛烈に嫌う人間は、その対極にある対象を極限にまで愛好するのではないか。「嫌いなものは嫌い」で生きている人間はおそらくわがままだろうが、他方で「好きなものは好き」を貫いているはずである。メリハリがあって、答えは決まっている。嫌いなものを再考する余地などないのだから、好きなものへと向かうエネルギーは好き嫌いのない人間の比ではない。ある対象への嫌悪は、その反動として別の対象への偏愛を生む。それが結果的に「好きこそものの上手なれ」につながるのではないか。  

好き嫌いのない人間がなんだか小器用な小人物に思えてきた。なるほどぼくが強みだと思っていた性向は実は弱みだったのかもしれない。いやいや、ぼくがそうだからと言って、好き嫌いのない「同胞」を同じように扱うべきではない。でも、好き嫌いの激しい人たちに負けない強みの一つでも見つけないと悔しいではないか。しばし黙考……。あった、彼らになくぼくたちにある強み。それは「迷う楽しみ」である。 

ドンブリ勘定の総論

「人のふり見てわがふり直せ」とつくづく思い知った次第である。正しく言い換えれば、「人のコメントを聞いてわがコメントを直せ」となる。昨日の話だ。

民主党による政権交代が確実になった情勢を受けて、ある経営団体のトップが「今年3月、7月と中堅中小企業は(この経済状況の中を)何とか乗り切ってきた」とコメントしていた。前後関係の文脈に意味があったのかもしれない。だが、この人のこの視点はマクロ的でありコメントは総論であった。こういう言い方が可能であるならば、どんなに困難な局面にあっても中堅中小企業は「いつの時代も」何とか乗り切ってきたと言えるではないか。

まるで草食動物が何とか生き延びてきたと述懐しているようである。地球上に生まれてこのかた草食動物は滅んでいない。たしかに生き延びてきた、総体としては。「いつの時代」も命を絶やさなかった。個体は次から次へと没しては新しい命へとリレーして、総体として今に残ってきた。だが、今年に限っても、アフリカの草原で肉食動物の餌食になった草食動物の個体はいくらでもいるはずだ。草食動物というグループ概念がびくともしないからと言って、少なからぬ個体が肉食動物の胃袋の中に消えたのは疑いえない事実である。

比喩が一人歩きをするとまずいから、話を中堅中小企業に戻そう。ぼくの会社――れっきとした中小企業――は、お説の通り、たしかに何とか乗り切ってきた。今のところは、幸いにして総論でくくられた一員である。だが、総論コメントは「乗り切れなかった中堅中小企業」にまったく配慮していない。中堅中小企業総体としての種は存続しているが、少なからぬ企業が乗り切りに失敗しているのが実情なのだ。


「中堅中小企業は何とか乗り切ってきた」という総論的概括は、個体に目を向けてはいない。そもそも総論とは各論の対義語なのであるから、各々おのおのに関与することはないだろう。今年に入っての倒産企業が全体の何パーセントか知らないが、まさかこれらの企業も含めたうえで「何とか生き残った」はない。とすれば、例のトップは「何パーセントかの生き残れなかった企業」を知っていて、なおかつ生き残り組から除外してコメントしたのだ。総論でさらりと片付けてしまうとはあまりにもひどい話だ。

国家にとっても、経済団体にとっても、「生き残り」は総論扱いで済ませてしまえばいいテーマのようだ。他方、中堅中小企業の各社にとっては、自社の問題であり各論課題なのである。各論で語ってほしいと待ち受けている人間に総論をぶつけるのは無神経であり冷酷だ。とりわけ倒産した企業にはたまらぬコメントになったに違いない。

「総論よりも各論」を心得としているぼくだが、他山の石とせねばならない一件ではある。マクロに語ったり一般論を唱えたりする時、論理的な誤謬に気をつけるのはもちろんだが、もっとたいせつなのは特殊や個別への思いやりである。「昨年来の金融不安の影響を受けた中堅中小企業。それぞれに企業努力を重ねたものの、緊急対策も功を奏さず、息絶えた企業も少なからずあります」。少なくともこの一言を添えてから総論を述べるだけの感受性を持ち合わせるべきだろう。 

軽はずみなお愛想や同調

ずいぶん昔のことなので、誰かから教わったのか書物で読んだのかよく覚えていない。店で食事をして客のほうから「お愛想あいそ」と会計を求めてはいけないという話。そのわけは「金を払うから、さあ愛想しろ」ということになってしまうから。つまり、お愛想は店側のことばであって、客側のことばではない。客は「ご馳走さま。お勘定してください」というのが礼儀である――このように聞いたか読んだかした。ぼく自身は、自前で外食をするようになってからは「お愛想」と言ったことはなく、いつも「お勘定してください」だ。

もともとは「お食事中に会計のことなど持ち出すのは、まことに愛想づかしなことですが……」という常套句が転じて、会計のことをお愛想と呼ぶようになった。さて、ここで取り上げたいのは寿司店や居酒屋でのお勘定マナーではなくて、日々のコミュニケーションでの「相手の機嫌をとるためのお愛想」にまつわる話である。

誰かの「こうしたらどうだろう?」との提案に無検証のままイエス反応を示す「お愛想人種」が目立ってきた。いや、昔からこういう連中のことを「茶坊主」などと呼んで小馬鹿にしてきた経緯がある。だが、茶坊主には目的があった。そこには力関係のようなものが働いていて、意に反してでも人間関係を維持するために迎合役を演じていた。気になるお愛想人間のほうは無思考なのである。無思考ゆえに対話にすらならない。力関係などまったく働いていないし気にもかけていない。にもかかわらず、彼らはただ単に相手の機嫌を取って軽はずみに同調するだけ。そして、パブロフの犬のように無条件に反応するのみ。


同調ということば自体に悪い意味はない。調子や波長を極力同じにしようと努めるのはコミュニケーション上決してまずいことではない。だから「軽はずみな」と修飾しておく。軽はずみな同調とは、他人の意見に自分の意見を無理やり一致させることだ。本心はノーまたは「ちょっと待て」なのである。にもかかわらず、お愛想を振りまいて御座なりに場をやり過ごす。

イエスとノーが拮抗して選択の岐路で迷ったら、「とりあえずノーを表明して検証してみよ」とは、交渉や議論においてよく言われることだ。誰にも経験があるだろうが、軽はずみにイエスで安受けしたのはいいが、後日ノーに変えるのは大変だ。イエスをノーに変えるエネルギーに比べれば、ノーをイエスに変えるのはさほど問題ではない。早めのノーはつねに遅めのノーよりも有効であり、免疫効果も高い。

もちろんノーにはとげがある。誰だって「ノー」と突きつけられて気分のよいはずはない。自分がそうなると嫌なので、軽はずみな同調者は棘を避ける。最初は人間関係に棘をつくりたくないと意識してお愛想をしていたはずだ。ところが、このお愛想を何年も繰り返しているうちに、棘を刺したり刺されたりの経験から遠ざかり、やがては無意識のうちに「はい」とか「いいですね」と無思考・無検証同調をしてしまうようになる。あとはダンマリを決めこむ。ダンマリの数歩向こうには黙殺・無視があり、棘どころではない苦痛をともなう残酷な人間関係が待ち受けている。そのことに彼らは気づいていない。  

商店街の敗北が意味すること

仕事柄出張が多い。行動エリアは縮まったものの、数年前までは「北は北海道から南は沖縄まで」だった。たいてい懇親を兼ねた食事会があるので、その後にホテルにチェックインすることもある。余裕があれば別だが、翌朝はなるべく早い時間に帰阪する。研修が23日になる場合は、毎日の研修後はだいたいフリーである。いったんホテルに戻ってから、ぶらりと夕食に出掛ける。一人ではアルコールを口にしないので、食事のみ。ついでに軽く散策してみる。

15年くらい前までは、珍しいご当地名産の土産を買っていた。しかし、荷物が重くなったり増えたりする。また、せっかく買って帰ったのに、よく似た物産が大阪でも売っていたということが後日わかる。どこの名産かは書かないが、ちょっと名の知れた珍味が住まいの近くのスーパーで売られていた時は、もう二度と土産を買うまいと誓ったものだ。自分で買うのは今では弁当だけになった。

便利な駅前のホテルに滞在するので、必然交通量の多い駅周辺を歩くことになる。そして、少し歩けば、どこの街にもたいてい「商店街らしき」風情が見えてくる。残念ながら、「これぞ商店街!」と格付けできる通りや一角にはめったに出くわさない。たいていは「半商店街」であり、よく言われる「シャッター商店街」であり、まだ午後7時だというのにアーケードが薄暗い「消店街」である。がいよりも「骸」と表わすほうがピッタリだ。


商店連合会も個々の店の主人も好き好んで落ちぶれさせたはずがない。しかし、勝手に沈滞化したわけでもないだろう。近くにスーパーができたり市街地から離れた郊外にショッピングモールが立地したりという環境の変化は理解できる。だが、大手の競合他店が出店したから寂れてしまったなどという因果関係は成立しないし、そんな言い訳をしながらしかめっ面して商売してもマイナスオーラを醸し出すだけだ。外的な不利係数をいつまでも放置しておくから、問題はいっこうに解決しない。

シャッター商店街は何に負けたのか? 別のプロフェッショナルに負けたのだが、実は「自分に負けた」。具体的に言うと、伝統的な「買物の楽しさと会話」が、現代的な「時間効率と無言」に負けたのである。相手が強くて負けたのではない。自らの強みを喪失してしまったのだ。それゆえに、この敗北は決定的な終焉を意味しない。つまり、首の皮一枚の危うさかもしれないが、再生可能なはずである。

スーパーやモールにないものを見直すべきなのだ。長く延びたアーケード、通路を隔てて左右に店舗が並ぶ。これこそが、巨大な立方体の空間を四角く区切った大型店にない構造である。この構造が原点だから、まずそこに戻る。しかし、最大の構造問題は店主である。商店街からスーパーやモールへとショッピング習慣を変えた人々は異口同音につぶやく。「スーパーの品物と同じ、しかも割高」、「無愛想」、「品揃えがすくない」……ここにすべてのヒントがある。

商店主はこう言う、「お客さんが来ないから店を閉める(7時頃)」と。お客は言う、「(7時半頃に行ったら)すでに閉まっている」。選択は一つあるのみ。顧客の声を優先して店を開けておく。次に、スーパーにない商品を揃える(少々割高でもよい)。自店の商品だけでなく、他店の商品も勉強する。そして何よりも、愛想と会話だ。高齢化など関係ない。愛想と会話が空気を変える。少数の元気な商店街はそうして生き残っている。  

想定が現実を待っている……

とても不思議な感覚を引きずっている。この違和感はぼくだけのものなのか、あるいはそんな印象を受けた人が他にもいるのだろうか。先週のあの静岡を襲った震度6弱の地震に関してだ。「これは東海大地震ではない」と専門家が言うのである。と言うか、断言するのである。東海大地震はマグニチュード8を想定している、今回の地震はそんな規模ではない、ゆえに「東海大地震はまだ起きていない」。

現実に存在するかどうかわからないけれど、欲しいシャツがあり、そのイメージもはっきりしているとき、いま店で品定めをしているシャツを「これは違う」ということはありうる。「理想があって、その理想に適わない現実」という構図なら頷けるのだ。しかし、地震はシャツではない。「欲しいシャツ」を探すように、誰も地震を待望しているわけではない。「未来に起こるであろう〈X〉」の基準を人間が勝手に規定して、「現実に起こっている〈Y〉」がその基準を満たしていないから、このYは失格と断じているかのようだ。

YXではない」と聞けば、YXに照合した結果、YXに合致していなかった――ふつうこのように解釈する。このとき照合したXは過去のデータでなければならない。簡単な例を挙げれば、「これはペンではない」と言う時、展開は「これをいろんなペンと照合したけれど、ペンらしき痕跡はない、ゆえにペンではない」のはず。ペンは過去または現在に存在していなければ照合することができない。現実を未来と照合するとは、ぼくたちのちっぽけな経験則をはるかに超越している。


地震予知の世界ではこんなふうに表現するものかと納得するしかないのか。だが、くどいようだが、「東海大地震」を「ほぼ確実に想定できるゴール」として設定している。そして、震度6弱のあの地震はまだゴールに達してはいないと結論する。モノが字義に追いついていない、あるいは現実が想定に追いついていない。ひいては、想定のほうが先に行って東海大地震を待っている状況……。

理念が行動を待っている。刑法が事件を待っている。予知が大地震を待っている。何か変ではないか。棒高跳びのバーが5メートルの位置にあって、それを跳べなかったから「失格」みたいになってはいないか。棒高跳びのバーはぼくたちに見えている。それがゴールであり一つの基準なのだ。だから、それをクリアしなければ当然失格――この言い回しには何の問題もない。

地震は見えない。しかも未来形なのである。それを予知して、その時点から逆算して、現実に発生する地震に「ブー」とハズレを示す。「来たぁ~、これだ、ピンポーン」といつかなるのだろうが、それは地震を予知できたことになるのか。現実が想定に追いついてピンポーンかもしれないが、関係者の予知に関しては「ブー」ではないか。思うに、「予知」に毒されているから、「これは東海大地震ではない」という違和感のある言い回しになってしまっている。ところで、こんな違和感を抱くのは、ぼくの感覚のほうが「揺れている」からだろうか……。  

マニフェストで見えないもの

政権公約よりも「マニフェスト」が常用語になった。流行語大賞に輝いたのが2003年。流行語だけに終わらず何とか定着したのをひとまず良しとすべきだろう。それでもなお、政党がマニフェストを公表したからと言って、大騒ぎするほどのことはない。政治を司るプロフェッショナルとして第一ステップをクリアしたという程度のことである。

企画の仕事をしていれば、「企画書」は一種の義務であり必須の提言である。なにしろ、企画書の一つも提出しないで仕事をもらえるわけがない。企画書は「これこれのプランを実施するとこれこれの成果が得られるであろう」という蓋然性を約束するもので、一種のマニフェストと呼んでもさしつかえない。あくまでもシナリオで、「こう考えてこう実行していく」という意思表明であって、「絶対成功」の保証はない。無責任な言いようかもしれないが、やってみて初めて成否がわかるものだ。

研修講師も、たとえばぼくの場合なら「ロジカルコミュニケーション研修」や「企画研修」の意図・ねらい(期待できる効果)・概要・タイムテーブルを事前に提出する。これも特定団体に向けたマニフェストである。空理空論はまったく通用しない。具体的に、二日間なら二日間の、講義と演習の想定プログラムをしっかりとしたため、それが円滑に進むべく運営しなければならない。政党と違って講師は一人だ。マニフェストと党員である自分の考えに「若干のニュアンスの違いがある」などと言って、逃げることはできない。責任者は自分だけである。ステージが違いすぎる? そんなことはない。何事も一人でやり遂げるのは尊いことだ。


政権公約検証大会なるものが開かれて、8団体が議論をしてコメントを出した。小説や論文の「評論」みたいなものである。自民・民主ともに「構想力が欠如」と批判されている。団体のご意見を丸々素直に受け止めたら投票に出掛ける気にはなれない。いやいや、選挙民にとっては、両党プラス他党のマニフェストに目を通せばいいわけで、評論に敏感になる必要はない。何よりもまずぼくたちは原文の小説や論文を読むべきであって、最初に評論に目を通すべきではない。仕事上は上司や得意先の顔色を見なければいけないが、マニフェストの吟味は、誰の影響も受けずに自分の意見を構築できる絶好の機会ではないか。

しかし、マニフェストは政党の政権公約である。政権公約とは、政権を握るという前提の公約である。政権が取れなければ、大半の公約内容は実現しにくいだろう。政権党に反対しながら政権取りに失敗する党が公約を果たせるのは、その政権党と一致する政策においてのみという皮肉な結果になる。さらには、政党の公約であって個人の公約ではないから、マニフェストから個人の力量なり人物を判断するのは困難である。結局、政治家個人を知ることができるのは、従来からのファンであり、その個人に近しい有権者に限られる。

四年前の総選挙で敗れたある候補者。今日からリベンジをむき出しにして立ち向かう。その候補者の周辺筋から聞いたところによると、前回の選挙に負けた直後、大声で有力支持者を叱責した。「お前の運動が足らんから、こうなったんだ!」と怒鳴り倒したらしい。皆がみなそんな下品な言を吐かないと思うが、十人中二、三人はやりそうである。怒鳴るからダメと決めつけられないし、マキアヴェッリもつべこべ言わないだろうが、その程度の度量でも政治に携われてしまうのが情けない。マニフェストで見えない「人間」にどう判定を下すか――ぼくはこちらへの意識のほうが強い。

否定の否定は肯定?

「これはおいしい」の否定は「これはおいしくない」。そのまた否定は「これはおいしくないではない」。変な日本語になってしまった。もっとわかりやすい説明をしようと思ったら記号論理学の力を借りねばならない。そうすると、わかりやすくしようという意図が裏目に出る。ほとんどの人たちにとって逆に不可解になってしまう。

Aの否定は「not A」。これはわかりやすい。次に、「not A」の否定は「NOT not A」。けれども、この大文字の「NOT」が小文字の「not」を打ち消しているので、差し引きすると、「A」の否定の否定は「A」になるというわけ。「犬である」の否定は「犬ではない」。この否定は、もう一度打ち消すので、「ない」が取れて、「犬である」に戻る。

日常の二人の会話シーンを想定するなら、「犬だね」→「いや、犬じゃないぞ」→「いや、そうでもないか」という流れになって、「うん、やっぱり犬だ」という肯定に回帰する。しかし、ちょっと待てよ。「否定の否定」はほんとうに「肯定」になるのだろうか。論理学では、あることを否定して、さらにそれを否定する人間の心理をどう考えるのだろう。書物の中で翼を休める論理学と、現実世界で翼を広げて飛翔する実践論理が同一のものであるとはぼくには思えない。


誰かが「Aである」と言って、それに対して「Aではない」と別の誰かが異議を唱えるとする。つまり一度目の否定。このとき「Aである」と最初に主張している人の心理に変化が起こるはずである。「Aではない」と否定した人も、Aに対して何らかの心理的・生理的嫌悪が働きはしなかったか。

否定にも、アドバイスのつもりの善意の否定と、論破目的だけの意地悪な否定もあるだろう。たとえば、「この納豆はうまい」に対する小学生の「ノー」と大人の「ノー」は質が違うはずである。心理と生理に引っ掛かる度合いも当然異なっているだろう。

「納豆はうまい」という命題をいったん否定して、さらにもう一度否定すれば、まるで手品のように命題の肯定に戻るというのは書物内論理学の話である。「納豆がうまい? とんでもない! 納豆はうまくない」と否定しておいて、この言を舌の根が乾かないうちに否定して「やっぱり納豆はうまい」を還元するのと、最初から素直に「うまい」と肯定するのとでは、「納豆に対する嗜好の純度」が違う。納豆党からすれば、すんなり肯定されるほうが気分がいいのは言うまでもない。


ところで、自民党の否定は「反自民」なのだろうか、それとも「民主党」なのだろうか。自民党の否定の否定は「自民党」なのだろうか。自民党支持の否定は「自民党不支持」。その否定は「自民党不支持ではない」。これは最初の自民党支持と同じなのだろうか。論理学は時間の経過を考慮しないかもしれないが、命題を否定して再度否定しているうちに現実には時間が経過する。自民党の否定の否定は、もしかすると「投票棄権」の可能性だってある。

とても滑稽な台詞

もうギャグとしか言いようがない。どうしようもなく滑稽なのである。あまりにも滑稽なので、もはや笑うことすらできない。油断すると呆れることも忘れる。いや、下手をすると息をするのも忘れてしまいそうだ。何とも言えない感情に襲われて、ただただ冷ややかに「こ、っ、け、い」とつぶやくしかなかった。

政治家という職業人の舌がすべることに関しては、あまり気にならない。勢い余っての失言や無知ゆえの失言や厚顔ゆえの失言は、ギャグにもならず滑稽とも形容できない。気にならないというよりも、強いアテンションの対象にならないというのが当たっている。ある意味で、政治家という職業人に失言はとてもよくお似合いだから、不自然なミスマッチとは思えないのである。

 政治家の〈話しことばパロール〉は独自の体系をもつ。つい昨日まで普段着のことばで喋っていたあの人もこの人も、まさかあなたは絶対に言わないだろうというその人も、政治家になったその日から「~してまいりたいと存じます」と、言語ギアをセピア色した前時代バージョンへと切り替える。そして、誰かの不可解な発言や納得のいかない対応を取り上げて、ついに彼らは、「いかがなものか?」という常套句の常習者になる。


職業とパロールは密接な位置関係にある。ナニワ商人の「まいど!」やサムライの「拙者」と同じくらい、政治家の「いかがなものか?」が定着してしまった。これほどではないが、政権奪取を目指す側の前党首の「なんとしてでも」というのも、あの人にはよく合っていたような気がする。しかし、真性のどうしようもない滑稽は、似合ってるとか似合ってないという次元を超越する。

ユーモアセンスがあっておもしろい知人の男性が、ある会合の開会の冒頭で大真面目に式次第を読み上げたとしたら、それが、「まさか!?」と同時に湧き起こる「どうしようもない滑稽」である。あるいは、ぼくをよく知る人たちが、ぼくの「ただいまご紹介いただきました岡野と申します」を聞いて、「まさか!?」と耳を疑い、「どうしようもない滑稽」を感じるだろう。残念ながら、この種のパロールがぼくの口からこぼれることは絶対にない!

さて、冒頭の話に戻ろう。政権党の重鎮が発した「男の花道を飾る」というパロールのことだ。一瞬、ぼくは清原だと思ってしまったくらいである。前の前の前の首相時代に「劇場」とよく形容されたが、政治の舞台は時代劇色だとかねてから思っていた。だが、「男の花道を飾る」と聞けば、出し物は時代劇から演歌ショーに変わったと考えざるをえない。いやはや、盛夏を迎えて、連日暑苦しい演歌を聴かねばならないのか。はたして新曲は聴けるのか。音程は大丈夫なのか。えっ、そんなデュエットあり? まさか! どうしようもない滑稽だけは勘弁願いたい。 

「ためになる話」など、ない!

そんなバカな、と思われるかもしれないが、「ためになる話」などないのである。読んだり聞いたりした話は、「ためになる」ことが確定してから書かれたり話されたりしたのではない。この意味では、ためになる話もないが、ためにならない話もないということになる。話はもともと毒でも薬でもないのだ。

繰り返すが、「ためになる話」はない。「話がためになる」のである。いや、場合によっては、「話がためにならない」のである。決して禅問答をしているのではない。どのように考えたって、話は話以外の何物でもないのである。こういう考え方を進めていくと、「恐い話」も「おもしろい話」も「つまらない話」もない、ということになる。すべて、話が恐い、話がおもしろい、話がつまらないのである。

話でなくても何でもいい。「修飾語+名詞」という構文で表現される修飾語は名詞の絶対的特性であるはずがないのだ。「堅い」や「やわらかい」は煎餅の特性ではなく、経由した人間の諸感覚を通じて煎餅が「堅い」あるいは「やわらかい」と認識されているだけである。つまり、人間を経由してはじめて、物象や事象や概念は何らかの特性を負うにすぎない。


別にこんなに難しく論じることもないのだが、どう考えても、何事かに価値があるかどうかは、何事かが決めているのではなく、人が決めているのだ。冒頭の「話」に話を戻せば、どんな話であっても、聞き手が感受性を鋭敏にして大いに触発されるべく向き合えば「ためになる」。「ためにならない」と判断できることさえ「ためになった」と言ってもよい。くどいが、「話があなたのためになるか、その他の別のものになるか」は、話が決めるのではなく、あなたが決める。

ぼくたちは「豚に真珠」とか「馬の耳に念仏」とか「猫に小判」などと動物に対して失礼な言を吐く。人間は「美しい真珠」とか「ありがたい念仏」とか「値打ちのある小判」などと、真珠や念仏や小判に絶対的特性を勝手に付与している。しかし、豚は真珠よりもトリュフに鼻をピクピクさせ、馬は念仏よりも物音に耳をそばだて、猫は小判よりもイワシの煮付けに舌なめずりをする。

人間よりも豚と馬と猫がえらいと結論を下しているのではないが、彼らの諸感覚が素直で合理的であることを認めざるをえない。動物たちが諸感覚を通じて素直に対象を吟味するのに対して、ぼくたちは誰かによる評価に左右されている。対象に先行する修飾語なくしては、もはや物事を判断できなくなるほど危うい状態にある。情報や意見について、こうした「権威による評価」への依存症はますます蔓延しているように思われる。うぬぼれてはいけないが、少なくとも自分と権威の意見は互角でもいいはずではないか。  

数字がかもし出す奇異

「イタリアからアメリカへ行って、もうイタリアには戻らないのですか?」

ふつうのことばだが、よく練られた文章である。これは、おおむね日曜日に更新してきた『週刊イタリア紀行』がNo.43のローマ(1)を最後に途絶えていることへの問い合わせである。もちろんローマには戻る。まだまだ素材もある。ただ残念なことに、13ヵ月前の写真をセレクションする時間が少し足りない。ただ、それだけ。


今日午後1時から京都で私塾。そのパワーポイント資料の最終編集がさっきやっと終わったばかり。あまり仕事上で追い込まれることはないのだが、久々に期限間際の集中と緊張を味わった。期限に追われている人たちは毎度こんな調子なのか。それはそれで、一撃の鞭の効果もあるに違いない。


閑話休題――

今日の講座には、悪しき文化と良き文化の話が入っている。連想するのは、〈グレシャムの法則〉だ。「悪貨は良貨を駆逐する」というのがそれ。単純に悪貨が良貨より強いという意味ではない。人は良貨を貯めこもうとする。また、(たとえば銀貨を)溶かして物に流用する。あるいは、そっくりそのままどこかの外国に転売する。そのため良貨が金融市場から消えて、悪貨ばかりが流通する。こういう話である。良き文化の香りを少しでも失うと、企業は金儲け主義という悪しき文化へと向かう。良き文化は自己抑制として機能する。

先週だったろうか、テレビでバーゲンだかアウトレットだかの特集をしていた。つい昨日まで定価5万円だったバッグが、今日から「な、な、なんと70%オフ!!」と叫んでいた。そう、一晩明けて5万円から15千円に。店側はこれを「お買い得」とアピールする。すなわち昨日買った客にとっては「お買い損」。

これは「昨日まで70%上乗せしていた」と考えるものだろう。「本来なら」「元々は」「実際には」などで表現される価値とは何ぞや? 価値について人間はよくわからないから、尺度の一つである価格で判断する。「用の不用、不用の用」をしっかり考えよう。

「経営者なら数字に強くなれ」というのもあるが、かなり怪しい教えだ。これは「商品の値段に強くなれ」と教えているのに近い。重要なのは、「経営に強くなれ、商品に強くなれ」である。だが、いずれも「見にくい」から、「よく見える数字」に視点をすりかえる。力のある人はのべつまくなしに「数値目標」とか「数字で証明」などと言わないものである。