否定の否定は肯定?

「これはおいしい」の否定は「これはおいしくない」。そのまた否定は「これはおいしくないではない」。変な日本語になってしまった。もっとわかりやすい説明をしようと思ったら記号論理学の力を借りねばならない。そうすると、わかりやすくしようという意図が裏目に出る。ほとんどの人たちにとって逆に不可解になってしまう。

Aの否定は「not A」。これはわかりやすい。次に、「not A」の否定は「NOT not A」。けれども、この大文字の「NOT」が小文字の「not」を打ち消しているので、差し引きすると、「A」の否定の否定は「A」になるというわけ。「犬である」の否定は「犬ではない」。この否定は、もう一度打ち消すので、「ない」が取れて、「犬である」に戻る。

日常の二人の会話シーンを想定するなら、「犬だね」→「いや、犬じゃないぞ」→「いや、そうでもないか」という流れになって、「うん、やっぱり犬だ」という肯定に回帰する。しかし、ちょっと待てよ。「否定の否定」はほんとうに「肯定」になるのだろうか。論理学では、あることを否定して、さらにそれを否定する人間の心理をどう考えるのだろう。書物の中で翼を休める論理学と、現実世界で翼を広げて飛翔する実践論理が同一のものであるとはぼくには思えない。


誰かが「Aである」と言って、それに対して「Aではない」と別の誰かが異議を唱えるとする。つまり一度目の否定。このとき「Aである」と最初に主張している人の心理に変化が起こるはずである。「Aではない」と否定した人も、Aに対して何らかの心理的・生理的嫌悪が働きはしなかったか。

否定にも、アドバイスのつもりの善意の否定と、論破目的だけの意地悪な否定もあるだろう。たとえば、「この納豆はうまい」に対する小学生の「ノー」と大人の「ノー」は質が違うはずである。心理と生理に引っ掛かる度合いも当然異なっているだろう。

「納豆はうまい」という命題をいったん否定して、さらにもう一度否定すれば、まるで手品のように命題の肯定に戻るというのは書物内論理学の話である。「納豆がうまい? とんでもない! 納豆はうまくない」と否定しておいて、この言を舌の根が乾かないうちに否定して「やっぱり納豆はうまい」を還元するのと、最初から素直に「うまい」と肯定するのとでは、「納豆に対する嗜好の純度」が違う。納豆党からすれば、すんなり肯定されるほうが気分がいいのは言うまでもない。


ところで、自民党の否定は「反自民」なのだろうか、それとも「民主党」なのだろうか。自民党の否定の否定は「自民党」なのだろうか。自民党支持の否定は「自民党不支持」。その否定は「自民党不支持ではない」。これは最初の自民党支持と同じなのだろうか。論理学は時間の経過を考慮しないかもしれないが、命題を否定して再度否定しているうちに現実には時間が経過する。自民党の否定の否定は、もしかすると「投票棄権」の可能性だってある。