別に行き詰まっているわけではなく、ひらめかないわけでもない。構想の下書きもできているし、素材もほぼ揃っている。しかし、いま取り掛かっている仕事はここから先、道なりで進められそうな気がしない。予期せぬ紆余曲折に巻き込まれるなら、自ら早めに寄り道しておくのも一案ではないか。と言うわけで、水羊羹欲しさに和菓子屋に立ち寄るのを我慢して、視座を変えるためにレオナルド・ダ・ヴィンチに寄り道することにした。
困った時のレオナルド・ダ・ヴィンチというわけではない。ただ、何かしらうまくいかない時は、かつてよく目を通した本やノートに辿り着くことが多い。勝手をよく知っているので、寄り道しても迷うことなく戻って来れる。問題は長居をしてしまうことかもしれない。さて、本棚から引っ張り出したのは『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上) 』。上下巻だが、読みやすいヒントは上巻に集中している。
慣れ親しんだ箴言を飛び石づたいしていると、以前メモしたり暗記したりしたことばの箇所で立ち止まる。今日は翻訳文の古めかしさがやけに気になったので、自分なりに書き換えてみた。
鉄が使われずして錆び、水が腐り、または寒中で凍るように、才能も用いなければ損なわれる。
才能は、この天才のように決して突出したものとはかぎらない。たとえば、ふつうに仕事することも生活することも才能ではないか。それをそのままにしない。とにかく日々知恵を使い、できれば更新する。こうしているかぎり、少なくとも錆びたり腐ったりするのを遅らせることができそうだ。この才能をさらに伸ばす方法については、レオナルド・ダ・ヴィンチは言及していない。残念である。
よく過ごした一日が安らかな眠りを与えるように、よく過ごした一生は安らかな死を与える。
頑張った、結果も出た、充実した一日だった。その一日の終わりに安らかな眠りがいつも保証はされないが、少なくとも夕食時から床に就くまでの気分は何物にも換えがたい。一日と一生を同じようにさらっと扱いさらっと語る。「死」を与えると言われているのに、迂闊にもほっとしている自分がいる。
権威を引いて論じる者は才能を用いているのではなく、ただ記憶を用いているにすぎない。
独力で論じなさい、自らの力で切り拓きなさいということ。いたずらに先人の業績に頼るべからず。権威の言うことをいくら覚えても記憶の勉強にしかすぎない。簡単にコピペできるようになったIT時代の勉強や評論への五百年前の警鐘である。ところで、ぼくはいま、レオナルド・ダ・ヴィンチという「権威」を引用している。才能を用いていないことが少々気恥ずかしいので、このへんで終わることにする。
ところで、なぜわざわざフルネームでレオナルド・ダ・ヴィンチと何度も繰り返して書いたのか。若い頃、世間同様にダ・ヴィンチと呼んでいた。しかし、ある時あることを知った。ダ・ヴィンチ(Da Vinci)とは「ヴィンチ村出身の」という意味。これが姓なので、そう呼んでまったく問題はないが、イタリアではそう呼ばず、むしろレオナルド(Leonardo)を通称としている。とは言っても、面識もないので、親しげにレオナルドと呼び捨てにしづらく、以来、レオナルド・ダ・ヴィンチと言ったり書いたりしている。