二〇一九年七月、プチ随想

防災ニュースで天気予報をチェックする。今日の熱中症情報欄には〔危険〕とある。午後2時現在、35℃。オフィスのベランダに出ると、微風が外気の熱とエアコンの室外機の熱をミックスして運び、酸欠の罠を仕掛けている。

午後3時のコーヒーのつもりが、フライングして午後2時に淹れた。豆はインドプランテーション。雑味なくさっぱりとしている分、眠気払いの効果はどうだろう。最近復活したぶどう糖のタブレットを口に含み、コーヒーを啜る。

今日はゆったりペースだが、先週は仕事の後にもう一仕事が控えていて、午後3時からも闘っていた。闘いの武器はコーヒーとぶどう糖。時折り、オフィスの外に出てワンブロックほど歩いて戻ってくる。暑さの逆療法という息抜きだが、今日これをすると危険である。

ところで、いま「闘い」と書いたが、仕事と闘っているわけではない。仕事は生業なりわいであり食い扶持であるから、闘うべき敵どころか、心強い味方のはずだ。存在しないゴドーを待てないように、存在しない敵に立ち向かうことはできない。そもそもはっきりと勝ち負けの決着がつくような仕事をしているつもりもない。


今月、訃報が二件届いた。享年65歳と63歳。二人を含めると、この一年半で60代の友人知人が7人も逝ってしまった。これはちょっと尋常ではない。平均寿命が延びて、周囲には80代後半から90代が少なからずいる。その一方で、ここ数年、50代、60代の訃報も届く。

ホモサピエンス的な遠大なスケールで眺望すれば、歴史は始まり、そしていつか終わる。しかし、個人の歴史の終焉は同時代人として確認できてしまう。どなたも遣り残したこと多々あるに違いない。遣り残しはやむをえない。一人の人生で何もかもできないからだ。しかし、可能なら、考え残しはなるべく少なくしておきたい。元気なうちに、他人の死を通じて、人間を、人生をもうちょっと考えておくべきだと思う。

感傷的に七月を終えるつもりはない。読もうと思って放置していた本を引っ張り出して傍らに置き、それでもページを繰ることもなく、インドプランテーションを味わう。味わえるという、ただそれだけのことで、熱気で間延びしかけていた時間と空間がほんのちょっぴり引き締まった。

人間の文化的抵抗

技術は何もかもお見通しではない。欠点を孕んでいるし弊害ももたらす。利便性と問題を抱えているから、これまた何もかもうまくいく保証のない〈弁証法〉的な手段によって改善を図ろうとする。

技術はどこに向かうのか? 〈どこ〉を確定することはできないが、陳腐化と刷新を繰り返しながら、これまでに通ったことのない道を突き進む。他方、人はどこに向かうのか? これまた〈どこ〉かわからないが、この道はいつか来た道に何度も戻ってきた過去がある。不可逆の技術と可逆の人間が対比される。

止揚しながら高度化する技術。ブレーキをかけて時々止まり、時々いつかの道に戻ってくる人間。人は戻って来て反省しようとするのだが、技術のことが気になってしかたがないから、戻ってきても技術の影を気にせずに反省するのは容易ではない。


技術を〈文明〉として、人間を〈文化〉として眺めてみる。

文化は特定のコミュニティに固有の「生活の耕し」である。これに対して、文明は文化の構成員を包括的に束ねて集団を巨大化し画一化しようとする。文化(culture)はコミュニティの農(agriculture)と不可分だった(だから「耕し」という意味のcultureが入っている)。文明(civilization)はコミュニティを超越する技(engineering)によって基盤を作ってきた。その基盤上に空間と時代を構築してきた。何もかもお見通しではないにもかかわらず。

文明は文化的な営みや地域社会を包括する。文明はつねに支配的である。文化的人間は市民として文明に組み込まれる。文明に包括されると、市民は“citizen”ではなく“civil”と化す。この“civil”はちゃんと文明の“civilization”に取り込まれている。

文化は時折り文明の対抗概念として、文明に支配されぬよう抵抗しなければならない。あるいは、文明に文化の価値を認めさせなければならない。文化にそれができた時代はあったが、巨大化した文明のもと、今日どんな方法があるのだろうか。

情報にまつわる錯覚と幻想

現状を分析して問題の原因を探り、しかるのちに問題の解決案を編み出す。これが一般的な企画手順である。ところが、こうして立案される企画は現状に軸足を置いたマイナー改善策の域を出ない。めったなことでは斬新なアイデアが生まれそうにない。

この手順に従うと、できるかぎり情報量を増やそうと躍起になりかねない。情報量に比例して企画の質が上がるという、まったく信憑性のない通念にしがみつく。実際のところ、現状を緻密に分析しなくても、どうすればいいか、どうしたいのかと想いを強くしていれば、アイデアの芽生えに近いところで発想できることがよくあるのだ。

にもかかわらず、人は情報収集に励む。人の情報入力にはキャパがあり、情報源への目配りにも限界がある。日常生活で触れる話題、雑談、テレビのニュース、新聞、雑誌、本だけでかなりの情報量になる。ここにインターネット――画像に動画にSNSにメールなど――が加わる。


21世紀に入って20年足らず。しかし、今日、前世紀に日々接した総量の何乗にも達するほどの情報に晒されている。晒されているだけならまだしも、キャパシティの程をわきまえずに情報を探し求めて取り込もうとする、いや、取り込まねばならないと急かされる。手に入れた情報のほとんどが、あってもなくてもどうでもいいものばかりである。

実際にショッピングに出掛けて知りえる事柄よりも、ネットショッピングにともなう情報のほうが圧倒的に量が多い。店舗ではスペースの限界が購買の選択肢の限界であるが、ネット上では選択肢は無限大。しかし、選択肢の多様性や豊かさが必ずしも賢明な判断を促すわけではない。

仮にかなりの情報量をインプットできたとしても、活用はままならず、情報の在庫ばかりが増え、やがて旬が過ぎて価値を失う。実は、増えていると思うのは幻想で、情報はまたたく間に揮発する。それなら、最初からキャパに見合った情報、何がしかの縁を感じる情報だけにしておけばいいではないか。ともあれ、情報量がアイデアを促すのではない。情報と思考の組み合わせこそがアイデアの源泉なのである。

嘘か真か、真か嘘か

『夢中問答』第五十七に次のくだりがある。

「山水をこのむは定めて悪事ともいふべからず、定めて善事とも申しがたし。山水には得失なし、得失は人の心にあり」

悪事も善事もこちら側の感じ方次第。幸も不幸も対象の内にはなく、ただ己の幸不幸感があるのみ。ならば、嘘とまこともこちら側の判断に委ねられるのではないか。

『吾輩ハ猫デアル』は、元々『いいえ。実は吾輩は猫です』だったという説がある。吾輩、、とはずいぶん古風だが、時代が明治という理由だけではなかった。最初に「貴殿、、は犬ですか」と聞かれたのだから、初等英語のやりとりに従えば、そう応答するのもやむをえなかった。しかも、聞かれた方に犬という意識がまったくなかったので、正直に「いいえ」と答えた。初等英語の規則などどうでもいいではないかというのは素人考えだ。漱石が英語の教師だったことを思い起こさねばならない。

さて、「いいえ」と答えたものの、すぐにぶっきらぼうな返事だと気づき、身を明かすことにした。ゆえに、「いいえ」の後に「実は吾輩は猫です」と付け加えたのである。あの名作は最初の原稿の段階では、問いに対する素直な返事、『いいえ。実は吾輩は猫です』が題名だったらしい。

奇妙な題名であるが、それにもまして不親切ではないかと不安になった。前段の問いを含めないと読者には何のことかさっぱりわからないではないか。と言うわけで、『貴殿は犬ですか。いいえ、吾輩は猫です』と書き直した。「じっくりコトコト煮込んだスープ」よりも字数が多い。

編集者が助言した。「ですます、、、、ではぬるいので、である、、、にしてはどうか。しかも、問いと答えの形式にこだわる必要もなさそう。ついでに、思い切って短くし、ひらがなをカタカナにしてみたい」。と言うわけで、『吾輩ハ猫デアル』になった。あまりよく知られていないエピソードだ。

この作品には未完で未発表の続編があったとも言われている。『イカニモ貴殿ハ犬デハナイ』がそれだ。これもあまり巷間で取りざたされなかったエピソードである。

エピソードというものは嘘であれ真であれ、名立たる名作に付加され増幅される。どうやら嘘っぽいというのが直感だが、しかし、もしかして真ではないかと思うほうが愉快である。そんな嘘の話が世の中では蔓延はびこりやすい。

具のないサンドイッチ

メモがエッセイに昇華することもあるし、レアなまま在庫になることもある。在庫は処分しなければならない。恒例の月一か月二の小さなメモ展。

📒

雑談中に誰かが「EUの委員長ね……」といきなり言い出したら、もうオチは見え見え。
EUの委員長ね、見た目はかなりのシニアだけど、元気そうだなあと思っていた。それもそのはず、名前見たらユンケルだもんね」
最近知ったのだろう、ユンケルの名前。ぼくはこのギャグは使わない。欧州委員会委員長、ジャン=クロード・ユンケルのこと、前から知ってるから。

📒

長らくイタリア語を使っていない。先日、ワインショップでイタリア人に会った。初対面。特に喋ることもないので、“Ciao!”と挨拶だけして適当にワインの品定めをしていた。会計を終えた後、再び目と目が合ったが、特に喋ることもなく、別れ際にもう一度“Ciao!”と言った。“Ciao!”は「こんにちは」にも「さようなら」にも使える便利な挨拶。CiaoCiaoの間は無言。挟む具のないサンドイッチみたいで可笑しかった。

📒

一重の勝負は紙のみにあらず。ひんにもあり。品の上下は隣り合わせ、すなわち品一重なり。その境界にありて下ることなかれ。僅かに上にあろうとするのが人のあるべき姿なり。

📒

多芸だと褒め倒されてただ仕事 /   岡野勝志

まあ、平均よりは少し芸が多いかもしれないが、「多」が無数であるはずはなく、せいぜい三つか四つ。専門の仕事以外に何かを小器用にこなすと、すぐに多芸と呼ばれる。そうそう、多芸は無芸の類義語である。

📒

〽 任せ任され うまくは行かぬ ドジを踏んだらぼくのせい /   岡野勝志

書体が秘めるもの

起業してから幾多の困難を克服して成功を収め、創業者が財産を遺した。二代目は首尾よく承継して守成をやり遂げた。創業にも守成にもそれぞれ別の苦労があるが、一般的に「創業は易く守成はかたし」と言われる。これが正しいなら、生業を軌道に乗せた二代目の手腕を褒めるべきである。

しかし、守成の難しさは富家ふかの三代目が証明することになる。世間によくあるのは三代目による家業の没落というシナリオだ。家を売りに出さねばもはや立ち行かない。貼り出された売り家の札を見れば唐様からようのしゃれた字で達筆。さすが祖父と父の財産で遊芸に耽っただけのことはある。こうしてあの川柳が有名になった。

売り家と唐様で書く三代目

三代目の書を褒めたわけではない。商いの道よりも遊芸にうつつを抜かして身上しんしょうを潰し、残したのはわずかに手習いの腕と教養だけという皮肉である。

唐様は和風の草書や行書とは違った楷書系の書体である。この川柳の頃はおそらく江戸時代で、当時は楷書に明朝の書体を取り入れたものらしかった。明治時代には公式の書体として唐様が定められた。将棋の駒の書体として人気のある菱湖りょうこ〉はその一つである。


どうせ家を売りに出さねばならないのなら、唐様で粋に書くほうが少しは高く売れるかもしれない。少なくとも何も書かないで空き家のまま放置するよりも、また札書きが下手くそであるよりもうんとましである。

書体はその名の通り「文字の体つき」を表現している。身体同様に、書の体つきも個性の一つであるから、イメージやニュアンスまでも伝える。同じ「売り家」と書くにしても、草書や行書、明朝やゴシックのどれを選ぶかによって、文字通りのメッセージとは別の隠れ潜んだ意味があぶり出されるだろう。

書における力とは、(……)毛筆に加えられる力ではない。毛筆が沈む深さでも、毛筆が疾走する速度でもない。政治や社会、人間関係の重力に抗して歩む、志とその陰にひそむさまざまな人間的なひだを含み込んだ「間接話法」的な力の姿である。
(石川九楊著『書とはどういう芸術か』)

唐様の「売り家」という文字に、三代目の心のありようとファミリーヒストリーが滲んで見える。

本とは読書媒体以上のもの

電子書籍の是非について大学生にディベートをしてもらったことがある。当然、紙の書籍と比較する論点が出てくる。実生活では「紙の書籍vs電子書籍」の論議にほとんど意味はない。二者択一ではなく、上手に使い分ければ済むからである。

先日、大手書店の元店員さんが独立してオープンした小さな本屋に立ち寄った。新刊と古本のセレクトショップ。正直言って、ぼくの蔵書の3分の1にも満たない品揃えである。だが、読者層を絞って十分に吟味して並べているので、一冊の密度がかなり高い。パリの街角で覗いた書店も負けず劣らず狭かった。売られている冊数は少ないが、貴重なスペースを使って凝ったディスプレイを演出していたのが印象的だった。

棚から棚へと移動し、気になる本を手に取る。小さな本屋だからすべての本の背表紙に目配りできる。こうした小さな本屋が大手書店と趣を変え、若い店主らがそれぞれの書物観を具現化している。十分な利益が出そうもないことは明らかだが、本には経営者を儲け主義に走らせない何かがある。夢破れないようにと、応援のつもりでささやかな貢献をしている。


本は売るだけのものではなく、また、買って読むだけのものでもない。装幀され、印刷され、製本された本。店主に選ばれて書棚に並べられ、読者を待ち受ける本。本は読書媒体以上の価値を内包する存在である。

書かれたコンテンツは言うまでもないが、コンテンツの魅力を支えるのは文章だけではない。書体とそのサイズ、挿絵や写真や飾り罫、紙の手触り、そして、何よりも、第一に目を引く題名が印された表紙と背表紙が、いや、それ以上のありとあらゆる要素が、一冊の本を設えている。

新本にインクの香りを感じ、古本にほのかにかびっぽい匂いを嗅ぐ。自宅に所蔵している本とは違う、古本特有のあの匂いに、前の所有者か愛読者の生活世界を垣間見ることもある。どんな人か知るすべもないが、ページをめくるたびにその人の見えない指紋をぼくの指がなぞっている。

電子書籍については、以上のように語ることはできない。経験と知識を持ち合わせていないからだが、それにもまして、エピソードになるような手触りや読み方がありそうな気がしないのである。

ケースバイケースや人それぞれ

共通感覚があるかどうかも調べずに、安易にケースバイケースとか人それぞれで片付けてしまうことがある。面倒だからという理由だが、面倒臭くなるのは考えてみようとする気力欠如という問題ではないか。

ケースバイケースはれっきとした“case by case”という英語。しかし、話しことばで耳にしたことはなく、また、文章で書かれたのを見たのも二度か三度である。ネイティブはたいてい“It depends.”という言い方をする。ともあれ、英語であることに間違いはないが、用法的には和製英語化したきらいがあって、「困った時のケースバイケース」として使われる。対策抜きで、人によりけり、ものによりけりと評論しておしまいという趣が強い。

「人を見て法を説け」を都合よくケースバイケースと捉えるむきがある。あの高説は法を説くことに主眼がある。人をしっかりと個々に見て対応するという意味で、ケースバイケースと言って知らん顔するのとはわけが違うのだ。


服の色の好みは「人それぞれ」。これで何の問題もない。なぜなら共通感覚的に人の好みが一致するはずがないからだ。趣味も嗜好もそういう類いであり、蓼食う虫も好き好きや十人十色と言って済ませておけばいい。十人一色にするのは無理があるし、理屈っぽく相違の是非を論う意味もない。

何事かについてコンセンサスを取ろうとしたり共通感覚的に一つの傾向を探ろうとしたりしてきた……にもかかわらず、土壇場になって「結局、ケースバイケースだから」と平気な顔してつぶやく……こういう場面でのケースバイケースにがっかりするのである。それまでの時間が無駄になる。

議論していて誰かが「ケースバイケース」で逃げようとしたら、次のように質問をすればいい。

「ケース、つまり、場合のこと。場合によりけりとあなたは言っている。では、場合の例を二つ三つ挙げてもらえるだろうか?」

ケースとは抽象的な場合なのだから、具体的に考えていない。だから、咄嗟に答えられる人はまずいない。たいてい黙る。黙っているわけにはいかないと焦れば、深慮もせずに答えて矛盾にまみれる。ケースバイケースも人それぞれにも、何か価値のあることが含蓄されているわけではなく、「わからない」と言っているに等しいのである。

シンプリシティのかたち

シンプルな表現、シンプルな手順と方法を編み出したい……というつもりでシンプルに考えても功を奏さない。そんな単純ではないのだ。あれもこれもと複雑かつ包括的に考え抜き、時に大いに悩み苦しんではじめて、「足し算ではダメなのだ、引き算しないといけないのだ」と気づく。ここでやっとシンプリシティへの微かな兆しを感知する。

遅めの足し算は具合が悪い。インテリアやファッションにしても複数要素のコーディネートには時間がかかる。足し算には試行錯誤がつきものである。足し算するなら早いに越したことはない。仕上げに近づくにつれて引き算へのシフトが求められる。足し算から引き算へ。これが成功の図式であり、とりもなおさず、それはシンプリシティのかたちを意味する。


「シンプリシティは究極の洗練」(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

究極の洗練とは、ありていに言えば、「美しい」ということだろう。美しいという形容は微妙で、そう感じるかどうかは人それぞれだが、一目見て読み解けない煩雑さよりはシンプルな見え方のほうに心が動く。シンプルであることは美しい価値につながりやすいのである。

九鬼周造の『「いき」の構造』には、「いき」ばかりでなく、「みやび」や「あじ」や「さび」の立ち現れる構造が書かれている。いずれもシンプリシティの表現のように思われる。その一つである「さび」を同書をヒントにして図に表わしてみた。

「さび」は意気・上品・渋味・地味」から成る立体的な感覚構造を持つ。普段使うことばでぼくなりに迫ってみた。抑制的、しゃれている、おとなっぽい……何よりも玄人好みのする引き算がされている。究極の洗練に近いシンプリシティのかたちの一つだろう。

「お忙しそうですね」

この4月から今に至るまで、ここ数年で最も忙しい日々を送っている。灼熱の真夏まで続くはず。同齢の友人知人の大半が仕事を離れて暇を持て余しているのとは対照的だ。どっちがいいかは自分が決めるしかない。

嬉々として取り組める仕事と退屈きわまりない仕事があるが、総じて仕事というものは、難易度に関係なく、面倒を引き受けることではないか。他人の面倒を軽減する面倒見の良さが仕事の本質にほかならない。

スコットランドに「ハードワークで人は死なない。退屈が死を招く」という諺がある。近年、ハードワークが長時間労働と同義になってしまった感があるが、本来は密度と集中度のことだろう。したい仕事をやりきる能力があり、それが他人や社会へのミッションだと自覚するかぎり、ハードワークを拒む理由はない。面倒ではあるが、仕事を委託されているのであるから、ありがたいことである。


世間には、働きたくないのに、縁故のおかげで働いている者がいる。能力もあり人一倍働きたいと思っているのに、職に就けない人もいる。働き方改革? その前に働くことの意味や仕事観について自ら考えてみてはどうか。さほど働いていない連中が真っ先に改革の対象になっているのは滑稽である。

「お忙しそうですね」と挨拶されても、「ええ、お陰さまで」などと無意味なことは言わないように心している。イタリア人のように「ええ、不幸にして」とも言わない。「貧乏暇なしですから」と心にもない社交辞令など論外。「ええ、ハードワークしています。退屈よりはよほどましですから」と返す。忙という漢字は「心を亡くす」という構成になっているが、決してそんなことはない。むしろ、仕事をしていたら心は日々新たになる。心を亡くした人間に仕事が舞い込むはずがない。

仕事と生活は写像関係にあると思っている。時間観念、段取り、計画性、マメさ、好奇心、コミュニケーション、約束、電話のしかた……公私をまたいでよく似た考え方ややり方をしているものだ。今さら「ワークライフバランス」と教えられるには及ばない。クオリティ・オブ・ライフへの想いもクオリティ・オブ・ワークへの意識も本質的には同じなのである。