都道府県別と全国合計のコロナ感染者全数把握。いつまで発表し続けるのか。ゼロになるまで? まさか。さてどうするか? 次の文章にヒントがあるような気がする。
数字は明らかに抽象であって、自分の目で確認した「事実」ではない。つまり意識の変形である。コロナによる本日の死者何名。この目線はいわば神様目線である。「上から」目線と言ってもいい。(養老孟司『ヒトの壁』)
なるほど。だから、「数字なんかいらない」と言うと神様に逆らっているようで言いづらいのか。しかし、神様の言うこともあてにならないことが多いのだ。
あまり手にしない類の本だが、手にしたのも何かの縁。アンディ・ウォーホルの『とらわれない言葉』は彼のアフォリズム集。一気に読んだ。
忙しくしていること。人生で一番素晴らしいのはそれだ。
退屈なことが好きなんだ。
別々のページで全然違うことを書いている。いったいどっち? と問うまでもなく、すぐに別のページの次の一文で納得させられる。
僕はこの世界に魅せられているんだ。
世界に魅せられているなら、多忙でも退屈でもどっちでもいい。すべての矛盾や意見の相違を飲み込んでしまえるいい言葉だ。応用できる。たとえば「ぼくはいつもその時々にしていること、していなことのどちらも好きだ」。
(をかしは)美的理念。感興をそそられる。王朝以降は「あはれ」がしんみりとした情趣に対する感動を表す語とみなされるのに対し、明るい対象や状態に触発された感動を表す形容詞とされる。(河出書房新社編集部『美しい日本語の究める やまとことば』)
王朝期ゆかりのやまとことばどころか、江戸時代の諺や明治の言葉遣いでさえどんどん減って絶滅を危惧されている。「をかし」も「あはれ」も、発音すれば現代語の「おかし(い)」と「哀れ」と変わらないが、書き言葉の印象と意味は繊細に異なる。をかしとあはれをぜひ復権させたい。
今日を特徴づけているのは、「活字離れ」ではありません。むしろ今日、読書という問題をめぐって揺らいでいるのは、本というものに対する考え方です。(……)本を読むということは、その内容や考えを検索し、要約するというようなこととはちがいます。それは本によって、本という一つの世界のつくり方を学ぶということです。(長田弘『読書からはじまる』)
春先に依頼されて、現在某所で「読書室」の企画と設計と選書に関わっている。まだ半年、いや一年以上続く。本を所蔵して貸し出す図書室ではなく、敢えて読書室と名づけた。ここに来て本を読む。オフィスの一室を読書室に作り替えてから4年と少し。その経験が役立っている。ここのところ選書作業で忙しい。
ところで、みんなが本を買わずに借りて読むようになると、出版社や書店はやっていけなくなる。本が発行されなければ図書館の所蔵図書のタイトル数が減る。出版文化維持のために、そして「本という一つの世界」がなくならないために、図書館で本を借りる人も3冊のうち少なくとも1冊は書店で買ってほしいと願う。