最初に聞いた「ぶんか」という音は、おそらく「文化住宅」ということばとしてだった。ぼくが子どもの頃に町内のあちこちで建ち始めた簡易な集合住宅である。文化住宅と文化が違うらしいことは、しばらく後になってわかった。文化住宅とは、実は「文明の産物」だったのである。
さて、ここに『一語の辞典 文化』(柳父章著)という本がある。文化ということばだけを字義的にあれこれと考察している本だ。久しぶりにページを繰っているうちに、いろんなことが脳裡に思い浮かんだので書いてみようと思う。
「哲学」「科学」「時間」などの術語は幕末以降に生まれた和製漢語であり、「文化」もその一つであった。英語やドイツ語を「やまとことば」に置き換える代わりに、二字の漢字で言い表そうとしたのである。他に、“concept”は「概念」とされたし、“information”は「情報」になった。いずれも「おもひ」、「しらせ」とはならなかった。
明治40年(1907年)発行の『辞林』に【ぶん-くゎ】という見出しで文化が収載されている。「世の中のひらけすゝむこと」とある。ついでに、英語も併せて数冊の辞書に目を通してみた。定義はいろいろである。「文明が進んで生活が便利になること」というのがあった。文化の説明に文明が持ち出されるのも妙な気がする。他に「真理を求め、つねに進歩・向上をはかる、人間の精神的活動」というのもある。これはわかりやすい。
英語の“culture”には、まず「耕作」や「栽培」という訳語が当てられ、次いで、抽象概念の「教養」や「文化」が続いた。なるほど、植物を土と光と水によって培い養うのと、人の精神を育むことに大きな違いはなさそうだ。農業を意味する“agriculture”にはちゃんと“culture”が含まれている。
さっき「文化の説明に文明が持ち出されるのも妙」と書いたが、「文明>文化」という視点を感じるからである。文化(≒culture)と文明(≒civilization)の間には一線を引くべきだ。二つの概念はまったく違うのだから。文明開化という時の文明にぼくなどはテクノロジーやエンジニアリングを感知してしまう。ゼネコン的で公共的で巨大インフラ的なものをである。河川を工事したり巨大都市を建設したりするのが文明なのだ。
文明に比べれば、たしかに文化などみみっちくて卑小に見える。だが、芸術や工芸や芸道をピラミッドの前景に配して強弱や優劣を語ることにほとんど意味はない。文明はハードウェアであり文化はソフトウェアである。ハードとソフトはコンピュータにおいては一体的な協同関係にあるが、生活世界においては文明と文化は二項対立的な共存関係にある。どんな関係か……たとえば、スカイツリーやあべのハルカスを背景にして一句をひねってみれば、そのことが実感できるかもしれない。