つけ麺と安保

山麺

遅いランチになった。どこにするか迷っている時間がもったいないので隣のラーメン店に入った。たいていつけ麺の大盛りを注文するが、今日は鶏醤油ラーメンと小さなライスにした。食べ始めた頃にスーツ姿の老紳士が入店し、ぼくの隣に座ってつけ麺を注文した。しばらくして老紳士の携帯に電話がかかる。ぼくに電話の相手の声が聞こえるはずもないが、老紳士が一方的に話した様子から、おそらく相手が二つか三つの質問を投げかけたらしいことは想像できた。話は3分くらいだろうか、おおよそ次のような話だった。

「私はね、今回の安保法案については、いろいろと吟味しましたけれど、自民党の考えでよろしいかと思っています。占領下にあったわが国が(……)、やっぱり国というものは自衛しなければならないんですよ。(……)言うまでもなく、戦争には大反対です。二度と繰り返してはいけないという思いから(……)70年間(……の)慰霊祭式典の音頭も取らせてもらってきました。(……)歳ですか? 今年で86歳になります。昭和4年、西暦だと1929年生まれです。(……)まあ、こんなところでよろしいでしょうか?」

取材を受けているようだった。電話を切ってまもなく老紳士につけ麺が運ばれてきた。どうやら初体験のようで、「このスープにつけて食べるんだね?」と店員に聞いている。すでにラーメンを食べ終わっていたぼくの視界にいやが応でも老紳士の動作が入ってくる。熱い太麺をつまんではさっさと口に運ぶ。そして、つけ麺の濃いスープをれんげで飲み始めた。お節介だとは思ったが、声をかけた。「食べ終わったら、そのスープをお湯で割ってくれますよ。つけ麺のスープは濃いですから、お湯で割ると飲みやすくなります。」


老紳士はうなずきながら、「あ、そうですか。でも、せっかく割ってもらっても、全部は飲み切れそうにないですな」と言うから、「いえいえ、義務じゃないですから、飲み干さなくてもいいんですよ。ちょっと味わうだけでいいんじゃないでしょうかね」と付け加えた。この後、少し沈黙があって、今度は老紳士のほうからぼくに話しかけてきた。当然、先の電話の話がぼくの耳に入っているのを想定してのことである。「戦争大反対なんですけどね、自民党のほうに一理あると思うんですよ」。ラーメン店で安保法案論争をする気などまったくないので、その話は聞き流し、「失礼ですが、いったいどんなお仕事をされているのですか?」と話題を変えた。

「元新聞記者です。こんなふうに電話でよく意見を聞かれるのですよ」と言う。「そうですか……」と言って、続けた。「ぼくは論争を聞くのがまんざら嫌いじゃなくて、自論を述べたり是非の判断を下す前に、一応いろんな意見を精査検証するようにしています。で、この件なんですがね、論点が深まらず、堂々巡りの予感がしています。争点を、安全や国際だけでなく、生活や幸福や思想や精神などに広げて踏み込んでいかないと、議論の質が高まってこないような気がします」。ぼくには珍しく差し障りのない型通りの話である。何しろ、時はランチタイム、場はラーメン店なのだから。

「先ほどの電話ですが、聞き耳を立てたわけではなく、勝手に耳に入ってきました。お歳が86才には見えないほどお若いですね。うちの父は一つ上ですが、ほぼ寝たきり状態です。認知症の兆候などはないものの、国家の大事を議論することはおろか、まったく関心もないでしょう。父とほぼ同じ年齢にして意見をお持ちなのは羨ましいかぎりです」と言って立ち上がった。「これからもお元気でご活躍ください。いいご縁でした」と言い残して店を出た。

この店ではこれまでつけ麺一辺倒だったが、ラーメンもなかなかの味だった。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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