昨日と同じ今日はない

電車通勤片道45分の生活から職住近接の生活にシフトしてから4年が過ぎた。地下鉄の駅間隔で言うと、一駅半くらいの距離。早足の徒歩で13分~15分。二つの長い信号と三つほどの短い信号の待ち時間次第で、2分の時間差が生じる。例外的な豪雨の日のみ地下鉄を利用するが、ほぼ毎日往復歩いている。こんな距離と時間でも、ふだん車に乗り慣れて歩かない人には、遠距離で長時間に映るようだ。

塾生のKさんの足は車である。おそらくゴルフ場と町内の食堂にランチに出掛ける時以外はめったに歩かないだろう。彼は思い出したようにオフィスにやって来てぼくをランチに誘い出す。すでに店じまいをしてしまったが、歩いて2分弱のところに十割蕎麦の店があった。「近くの蕎麦屋に行こう」とぼくが言い、その店を目指して歩き始めた。店まであと30メートルかそこらの地点で、彼は口を尖らせて「どこまで行くのですか?」と不満そうに聞いた。どうやら彼には2分の距離が遠かったようである。

たとえ徒歩15分の距離でも、歩くルートのバリエーションは一桁の数ではない。東西南北を数十本の道が走っているのだから、何百何千通りの道程がありうるだろう。同じ道は飽きるから、真っ直ぐ行くところを手前の角で右折したり、右折してすぐの道を左折したりしながら、時には迷路を楽しむように、しかし当然オフィスの方向を目指して足を運ぶ。ぼくには手段や作業はもちろん、些細なことをするにあたって、同じするなら一工夫して楽しもうとする癖がある。この癖が嵩じると厄介な凝り性につながってしまう。


道すがらにこれまた廃業した米穀店兼クリーニング店があった。店舗面積の80パーセントを閉じ、今ではクリーニングだけを扱っている。どんなルートを選んで歩いても、だいたいこの場所の前を通ることが多い。そして、米穀店を営業していたつい先月半ばまで、ぼくはその店の婆さんの「日課」をずっと目撃し続けていた。毎朝時前後に路肩に置いてある植木のそばに米粒を一握りほど蒔くのである。待ち構えていたスズメが一斉に電線から降りてくる。餌蒔きの直前は、頭上からの糞に注意せねばならなかった。

ところが、もはや米屋は存在しない。ゆえにばら蒔く米もない。いや、住居も兼ねている様子なので自宅用の米はあるだろうが、シャッターが閉まってからのここ半月、婆さんを見かけない。つまり、長年にわたって餌付けされてきたスズメが朝食にありつけなくなったのである。スズメはどうしているのかというと、今もなお、ぼくが通り過ぎる時間帯に何十羽も電線に止まって米粒を待ち構えてピーピーと啼いているのだ。

実を言うと、前に住んでいたマンションには広いルーフテラスがあって、ぼくも好奇心からスズメに餌付けをしたことがある。ところが、糞を散らかすわ鳩までやって来るわで、近所にも迷惑がかかりそうなのでやめた。だが、やめてから何ヵ月も彼らが学習した習慣は続いた。スズメの体内時計は狂わずに決まった時間に餌をねだり餌にありつこうとする。昨日と同じ習慣が今日も正確におこなわれるのだ。婆さん不在の異変をよそに、餌中心のぶれない日々と言えば、なかなかカッコいい。しかし、彼らはまだ知らない、ある日突然、昨日と違う今日が、今日と違う明日がやって来ることを。何だか、ともすればノーテンキに生きてしまうぼくたちへの教訓のように思えてきた。    

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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