単位や数字の奇妙

最近めっきり行かなくなったが、銭湯には体重を測定する秤が置いてある。ほとんど電子体重計に置き換わったようだが、ぼくが幼少の頃はもちろんアナログ。おまけに「かんもんめ」で目方を表示する尺貫法名残りの秤だった。ちなみに貨幣単位では円の下の位のせんも使っていた。昭和31年に生まれた弟を産院に見に行った帰りにポン煎餅を買ったら、差し出した十円硬貨のお釣りが白く輝く5枚の一円玉だったので驚いた記憶がある。つまり、それまでは一円札を使っていたのだ。

親の世代は尺や寸に馴染んでいたが、長さに関してはぼくの世代ではすでにメートル法だった。とは言え、普請や着物の裾上げの際に、専門家と客が尺寸で会話を交わすのを聞いていた。やがて貫と匁はキログラム・グラムに移行する。慣れないうちは、3.75キログラムを1貫に「翻訳」したものである。こうして、いつの間にか、メートルと同じくキログラムが自分の世界を測る長さと重さの基準になっていった。

ところが、単位の変換作業はこれで終わらなかった。英語を学習し始めると、ドルという通貨があって、どうやらそれが世界の基準になっていることを知る。変動為替相場ではなかったから1ドル=360円を覚えた。もっとも海外とは無縁な環境ゆえ、そんな話題はハワイに嵌まっていた叔父の話に出てくる程度だった。次いでヤードやフィート、それにポンドという単位の存在も知る(ポンドはボクシングの試合で「145ポンド5分の1」と独特の節回しで告げるので聞き慣れてはいた。ただ何分の一というのが奇妙に響いた)。


世界にはおびただしい通貨の単位がある。同時に固有の計測体系が相変わらず存在している。知られざる様々な呼称もあるに違いない。わが国の一羽、一個、一匹などもその類である。学問としての数学の世界に限定すれば、そこには客観的な統一表現があるように思われるが、日常生活世界ではものの見方がいかに文化的慣習的に多様かがわかる。本日の会読会で取り上げるマイケル・ポランニー(『暗黙知の次元』)のことばに「私は科学を感覚的認識の一変種と考える」というのがあるが、まさに「単位や数字は人々の感覚的認識の一変種」と言えるかもしれない。

ドルとユーロの価値を「1ドル、1ユーロ」という情報だけによってぼくたちは評価しえない。円という基準に照らし合わせないかぎりどれほどの価値なのかを理解できないのだ。1ドル=91円、1ユーロ=135円(今日の正午現在)と相対化して初めて価値を知る。もちろんこの価値は変動するから、明日になると価値に変動が生じるだろうが、それも円換算によってのみ感じることができる。しかし、国際比較を必要としない個々の市場にあっては、1ドルは1ドルであり、1ユーロは1ユーロである。わが国にあっても100円は100円である。

話を元に戻す。単位や数字というものは主観的な世界観の反映らしい。比較文化的視点だけではなく、一人の人間がある対象を数字でとらえるのも主観的であることがわかる。たとえしっかりした評価基準が設けられていても、フィギュアスケートや体操競技は審査員の主観によって点数化される。数字は物事の多様な見方のうちの「一変種」にすぎないのだ。ペットボトルの水を500mlととらえたり硬度29mg/Lと表記しているのも一つの見方、富士山3776メートルも台風985ヘクトパスカルもマグニチュード4.5というのもすべて主観的な認識の一つなのである。「駅から1キロ」と「徒歩12分」には視点の違いがある。給与や業績やテストはなぜ数字至上主義を貫いているのか……。   

明日は続編として「数字信奉の危うさ」をテーマに書いてみようと思う。

習熟とマンネリズムは表裏一体

テレビの『プロフェッショナル 脳活用法スペシャル』を見た。脳科学で解き明かされるアンチエイジングの方法と、脳科学とは無縁のプロフェッショナルたちが日々実践している脳の使い方がほとんど一致するのがおもしろい。高等なプロフェッショナルまでの域にはほど遠いぼくでさえ、幸いにして考え書き話す仕事をしているお陰か、脳活用要件のほとんどを満たしている。周囲の人たちを観察してきた経験から言うと、脳の不活性の兆しは面倒臭がることに現れ、やがて集中力が持続できず、いますぐにできることを後回しにしてしまう。とりわけ言語活動に手抜きし始めると老化が加速するというのがぼくの持論。たとえば、「そんな難しい話はどうでもいいじゃないか」と言い始めると危険信号だ。

「習慣が脳をつくる」というのが大きなテーマだった。番組を見損ねた読者のためにぼくなりに要約すると、このテーマの前提のもとに脳を劣化させない心掛けとして、次の二つがある。

(1) 適度に身体を動かし、指先を使い、細々こまごまとした作業を人に任せず自分でやる
(2)
新しい課題に挑み、目と目を合わせてよく会話をし、好きなことに精を出す。

ぼくの場合、車を所有していないから、とにかくよく歩く。自動車ならぬ「自動人」である。また、小さな事務所なので雑用も人任せにはできないから、(1) はクリアできている。話が好きで仕事が好きだし、得意先や顧問先の高いハードルの課題も歓迎する口だ。ゆえに(2)も大丈夫なはず。

けれども、それで安心して慣れてしまうと、脳が楽をしようとする。脳を活性化する習慣が身についているからといって、その慣れ親しんだ思考回路や記憶の使い方に安住すれば、エイジングが進む。ある程度できているからこそ、さらなる変化や揺さぶりが難しくなってしまうのだ。昨夜の番組を見ていて感じたのは、できていない人ほど脳の新しい使い方の可能性が広がりやすく、できている人ほどさらなる鍛錬に手を抜けなくなる点だ。まことに脳というのは油断も隙もないと思い知った次第である。


メモに関して茂木健一郎がいい話をしていた。出会う人すべてにメモの習慣を薦めるぼくとしては、誤解を避けるためにこの点を付け足さねばと反省した。「メモはその場で書くのではなく、思い出しながら書く」と茂木は言う。そうなのだ。めったに浮かびそうもないひらめきは一語でも一行でも記録するのがいいと思うが、たいていの情報や体験はいったん脳の記憶に放り込むのがいい。基本的には、パソコンやノートに記憶を丸投げするのではなく、脳にひとまず記憶させるのが正しい。そして数時間後でも後日後でも、一次記憶を辿りながら書き出し、あるいは別の情報を加えたりして文章化していく。これによって、ノート上にも脳内の二次記憶ゾーンにも情報が刻まれる。このようにして記録し記憶したものは検索しやすく生かしやすいので、申し分のない知的武装になる。

趣味でも仕事でも上達したいから打ち込むものだろう。そして慣れてくれば、いちいち意識を新たにしなくてもある基準を満たせるようになる。これが習熟という状態だ。かつて高嶺の花だったスキルが精神と身体の一部になってしまえば、ほとんど困難を伴わなくなる。こうして脳もその状態に慣れる。だが、ある日を境にして、習熟がマンネリズムへと転化するリスクが高くなる。習熟はプラス、マンネリズムはマイナス――そんなことは百も承知だが、表情がプラスかマイナスかだけであって、顔そのものは実は同一のものである。

脳にとっては習熟もマンネリズムも同じことなのだ。なぜなら「習慣が脳をつくる」からである。とすれば、脳のアンチエイジング対策は永遠に続けなければならないことになる。では、若い脳を保ちたければ学習し続けねばならないのかと問えば、半分イエスで半分ノーのような気がする。新しい情報の取り込みは最小限必要だとしても、おそらくもっと重要なのは、同じテーマでもいいから思考する回路のほうを変えることだろう。なにしろ脳の神経細胞は千億個もあるそうだ。ほとんど新古品のように出番を待っているに違いない。 

常識を懐疑する話

出張先で私塾の10月講座の資料を作っている。ほとんど持論を展開するメモだ。しかし、『思考の手法』というテーマだけに、いろんな見方を提示したいので、これまでに読んで抜き書きした諸説も参考にしている。ここ二、三日はだいぶ没頭していて、「考えるということ」について考えを巡らしているところである。

息抜きに塾生のブログを覗いてみたら、「常識を疑う」という記事が更新されていた。二十ほど年齢差があるのだが、たいへんよく勉強している彼からヒントをもらうことも稀ではない。ぼくの講座や読書会を通じてテーマの指向性の波長が合うことも多い。ぼくは褒めるし批評もする。彼はディベートも経験しているから、批判や検証に耐えるだけの度量も備えている。ぼくの今日の話は批判でも検証でもなく、新たな問題提起である。近々に会って大いに論じ合ってみたい。

さて、その記事だ。ぼくが講座のために考えている一章「主観と客観」に関係しているので興味津々に文章を追った。関心がおありならぜひ原文を読んでいただきたい。本文中に次のようなピーター・ドラッカーの引用がある。

「世の中の常識はえてして間違っている。それを知るためには、常識の根拠を探り、それが本当に信頼に足る妥当なものか見極めることだ。そのためにはタマネギの皮をむくようにして、おおもとの根拠にたどり着く必要がある。


タマネギの比喩がおもしろい。タマネギそのものが「常識」で、皮が「常識が定着してきた過程」で、最後の最後に残るものが「常識の発生源となる根拠」なのだろう――そんなふうに愉快がった。しかし、意地悪なぼくは想像をたくましくする。ちょっと待てよ、タマネギには薄茶色の表皮があるけれど、それを剥いたあとには食用部分の「本皮」が何枚か重なっている。剥いていけば何も残らなくなってしまうではないか。そんな剥き方でタマネギを調理することがないので確証はないが、表皮を取って半分に切ってパンパンパンと包丁を入れてシチューや鍋に放り込んでいるかぎり、そこに「芯らしき根拠」は見当たらない。

それはともかく、ドラッカー先生が「世の中の常識はえてして間違っている」と言い切るからには、そう判断するドラッカー流の「ものの見方」があるはずだ。そのものの見方も別のタマネギの「芯らしきもの」ではないのかとぼくは考えた。人は常識を疑ったり怪しんだりする時点で、ある主観的な価値基準を起動させるはずである。その主観の中には常識を疑い怪しむエネルギーの源、あるいはテコとなる「確信」があるに違いない。その確信がなければ、タマネギを剥いて辿り着く「芯らしき根拠の危うさ」との刷り合わせができないのだ。

アマノジャクという、へそ曲がりなイチャモンにしても主観の一変形だろう。その主観と常識という客観が対立する。あることに「?」を感じる時、別の「!」が必ず存在する。素朴な「わからない」というクエスチョンマークであっても、「自分の中のわかる構造」とぶつかって生まれている。その別の「!」も主観的常識なのかもしれない。つまり、ぼくたちが常識を懐疑する時、その懐疑のテコに自分の常識を用いているのである。常識・非常識、主観・客観――思考の手法にとっては恰好の素材である。もう少し掘り下げてみる気になっている。

ところで、およそ一年半前、ぼくは『マーケティングセンスを磨こう』という講演で、マービン・バウワーによる、世界一短いマーケティングの定義を紹介した。たった一言。「客観性(objectivity)」がそれだ。Tさんもその講演を聴いてくれていたと記憶しているが、ぼくは鬼の首を捕ったかのように解説した。今は違う。今は「マーケティングの客観性」に懐疑し始めている(但し、一世を風靡したポストモダン的な主観主義ではない)。その懐疑のテコになっているのはたぶんカントの『純粋理性批判』だと思う。そのカントも疑い、その疑いの信念も疑いみたいなことを延々とやっていると、愚かな懐疑主義に陥るかノイローゼになりそうなので、今月最後のブログはここでピリオド。

「有用」よりも「手がかり」

3日前のブログの続編。今年7月に開講した私塾大阪講座の冒頭で、ぼくは「力を込めて」目指すべき学習の方向性をおおむね次のように伝えた。

現在の自分が容易に越えられるバーの位置がある。何度か跳んで習熟すれば、次にバーを高めに引き上げなければ意味がない。従来の跳躍能力ではいかんともしがたい高さにバーを設定する――ここに知の学びの真価がある。学習時に体験していない高さのハードルに仕事で遭遇しても、十中八九こなすことはできない。練習以上の成果を本番ではめったに発揮できないのだ。閾値しきいち越えは難題に挑戦する習慣形成の賜物である。

難問であれ奇問であれ、自ら発した問いにせよ提示され遭遇した問題にせよ、問うことと解こうとすることによって知力は引き上げられる。解けたかどうかは別問題である。解けなければ快感法則が崩れるだろうが、そんなことは現実の仕事にあっては日常茶飯事のことではないか。とにかく問い続け解き続ける。考えたことのないことを考えてみる。このような学習の連続によってのみ知は現実へとスタンバイする。


えらく硬派な話をしたわけだ。ぼくの言いたいのは、「わかりやすさ」を重んじているかぎり、学習効果などまったく芽生えないということである。たとえば、わかりやすい説明を受ける。当然理解しやすい。あるいは理解したという気にはなる。しかし、この理解は現在の知力においておこなわれたのである。知力は背伸びもしていないし、汗もかいていない。やがてそんな説明内容は脳内で埋没するか消えてしまう。「わかりやすさ」は快感法則を満たすだけであって、アウトプット能力にはほとんど役立たない。

書店で「〇〇入門」という本を手に取る。ところが、読んでみると手も足も出ない。「何が入門だ!?」と腹立たしくなる。だが、「難しい入門」、おおいに結構だと思う。その〇〇というテーマには奥行きがあるのだろうし、〇〇というテーマに関して現在の自分があまりにも未熟だと痛感すればいいだけの話。それでこそ学習の意義がある。学習とは学習のためにあるのではなく、しかるべき現実世界の本番のための鍛錬の役を担っている。

人類の歴史には有用と手抜きの工夫を求めてきた流れがあるが、考えることすらも手抜きし始めているようである。学ぶことに関しても有用ばかりを求める風潮が加速してきた。そこには「早く身につけたい」という願望が潜んでいる。早く身につけたいから「わかりやすさ」が必須条件になる。その結果、「わかった、満足した」で終わる。気がつけば能力自体は何も変わっていない。そろそろ「悪銭身につかず」を真剣に肝に銘ずるべきだろう。学習を有用目的の内に留めてはならない。それは知の停滞を意味する。

学習とは本番に向けた「手がかりの模索」である。手がかりは答の手前にあって、答らしきものをほのめかすヒントに過ぎない。使えるかどうかすらわからない。しかし、それでいいのである。教えられてわかるのは所詮他力依存であり、本番では役に立たない。誤解を恐れずに言えば、「わかりにくい手がかり」が自力理解と自力思考を促す。いつの時代も仕事で有用になるのはこちらのほうである。  

難易の別を超えて

難易度ということばを聞くと、受験テストの問題集を思い浮かべてしまう。星印が三つ付いていたら難度が高く、一つだったら易しい。星一つばかりの設問を解いていたら簡単だ。途中で易しい問題ということを忘れて、解ける快感だけを覚えていく。できた気になるから、学習心理上のストレスはほとんどたまらない。しかし、本番で少々難度が上がればたちまちアウト! リハーサル段階では少々難度の高いものに挑戦しておかねばならないのだ。

少々何度の高い問題というのが微妙である。半分くらい解けるのがいいのだろうが、解けるか解けないかは現在の力量にかかわる。完全な全問正解にはほとんど学習効果がない。かと言って、全問解けないようではやる気も出ない。しかし二者択一なら、手も足も出ないことを何度も体験しておくほうが現実世界の問題解決には役立つ。リハーサルだからこそオール不正解でも許される。要は、解こうとしたプロセスの質だろう。

語学を例に取ればわかりやすい。たとえば英会話学習のゴールをあいさつやショッピングに置いていても、学習した範囲内で現実の会話が収まることはまずない。自分が話す分には知っていることだけ伝えればいいが、相手は自分がわからないことを話し伝えてくる。認識という点では、入門も基礎もない。ぼくたちは学んだ範囲内でコミュニケーションを統御することはできない。相手は難易の別などおかまいなしなのである。すべての幼児は家庭内および社会的コミュニケーションの場で、自分の力以上の困難な状況を乗り越えて成人していく。すべての人間は、ヒナが羽ばたきを覚えるように、大人世界のことばに齧りついて生きている。


語学を始める人にぼくは中上級から始めよと助言する。いや、正確に言うと、現在の母語の語学力と知識に見合ったレベルで学習すべきだと教えてあげる。知識には未知の事柄を想像する機能がある。ことばや概念の何から何まで知らなくても、行間や文脈を読む想像力が働くものだ。ぼくは英語もイタリア語も中上級からスタートした。CDは倍速にして聴いた。こんな早口のネイティブはいないだろうと思えるくらいのスピードに食らいつく。それで本番はちょうどよい。初めてイタリアに行ったとき、バールのバーテンダーは第二次世界大戦の話を持ちかけてきたが、理解できた。「はじめまして」「こんにちは」程度の学習しかしていなかったら手も足も出なかったはずである。

話は語学だけにとどまらない。一般的な学習(つまり、リハーサル)は易から難へと想定しているが、本番には難易が混在している。いや、すでにそこにはそんな区別すらない。ぼくはいま、社会人のためにこの記事を書いている。社会人になって何事かについて学ぶのと学生で学ぶのとは大違いである。社会人にとっては目的は明日の行動と一体化しなければならない。どこか遠くにある目的などではなく、明日の仕事で学びが現実的な効果を発揮してもらわねば困るのだ。悠長な猶予期間はない。

「難しい」という泣き言をほざくのをやめよう。現実世界は、ある意味ですべて難しいのだ。唯一、現実のハードルを低くできるとすれば、リハーサルでのハードルを自分の現在の能力よりも高く設定するしかない。「あのセミナーは易しかった、わかりやすかった」と感想をもらすのはよい。しかし、それが現実世界を生き抜く糧になったかどうかこそが問われるべきである。そして、易しく身につく糧よりも苦労して身につけた糧のほうが実践では役に立つ。「良薬は口に苦し」という常套句を引くまでもない。苦いとか難しいとコメントをする暇があったら、黙って口に放り込むべきなのだ。 

企画に言霊が宿る時

別に内緒にしていたわけではないが、何を隠そう、昨今リピートの多い研修は「企画」である。主催する側によって名称は変わる。「企画力研修」というストレートなものから、「企画能力向上研修」「企画提案力研修」「企画書作成研修」「政策企画力研修」などバリエーションは豊富である。もともと「スーパー企画発想術」と名付けていた二日間プログラムで、学習の基本軸は「発想>企画>企画書」。つまり、企画書に先立って企画があり、企画に先立って発想があるという考え方。その発想の拠り所は日々の変化への感受性である。

企画とは好ましい変化をつくることであり、その作戦をシナリオ化することと言えるだろう。何から何への変化かと言うと、Before(使用前)からAfter(使用後)への変化である。使用するのは企画という処方箋。つまり、さらに詳しく言えば、企画とは、現状の問題なり不満を解決・解消して、より理想的な状況を生み出す方策なのだ。こんなわかりきった(つもりの)企画という用語をわざわざ辞書で引くことはないだろうが、念のために手元の『新明解』を調べてみた。正直驚いた。「新しい事業・イベントなどを計画すること。また、その事業・イベント。プラン」とある。これはかなり偏見の入った定義である。まるで企画という仕事を広告代理店の代名詞のように扱っているではないか。

企画をしてみようという動機の背景には、まず何を企画するかというテーマへの着眼がある。そして、そのテーマ領域内の、ある具体的な事柄をよく観察していると、何だか問題がありそうだ、と気づく。いや、必ずしもゆゆしき問題でなくてもよい。ちょっとした気掛かりでもいいのだ。もしプラスの変化を起こすことができたら、きっと今よりもよくなるだろう―こうして方策を編み出そうとする。着眼力、観察力、発想力、分析力、情報力、立案力、解決力、構想力、構成力……数えあげたらキリがないほど、「〇〇力」の長いリストが連なる。


こんな多彩な能力の持ち主はスーパーマン? そうかもしれない。一言で片付けられるほど企画力は簡単ではない。だが、つかみどころのなさそうな企画力ではあるが、つまるところ、その最終価値を決めるのは「言語力」を除いて他にはない。コンセプトだの因果関係だのアイデアだのと言ってみても、下手な表現や説明に時間がかかっては企画の中身がさっぱり伝わらないのである。もっと言えば、新しくて効果的な提案がそこにあるのなら、使い古した陳腐なことば遣いに満足してはいけない。「固有であり旬であること」を表現したいのなら、「新しいワインは新しい皮袋に」入れなければならないのだ。

言語力が企画の価値を決定づける。もっと極端な例を挙げれば、タイトルが企画の表現形式をも規定してしまう。話は先週の研修。あるグループが順調に企画を進めていき、企画の終盤に『涼しい夏の過ごし方』というタイトルに辿り着いた。現状分析も悪くなく、「暑い夏→涼しい夏」という変化を可能にする詳細なプログラムをきちんと提示していた。しかし、総じて平凡な印象を受けた。「新しいワインを古い皮袋に」入れてしまったのである。

仮に『灼熱の夏と闘う!』としていればどうだったか。同じ企画内容が、タイトルの強さに見合った表現形式になったのではないか。ハウツーの説明に終わった『涼しい夏の過ごし方』に比べて、『灼熱の……』には企画者の意志が込められ、「夏との対決」の様子を実況生中継するような迫力を醸し出せたのではないだろうか。いや、もちろん企画者にはそれぞれの性格があるから、必ずしもそうなるわけではない。だが、その性格要因を差し引いても、命名が企画内容の表現形式にもたらす影響は想像以上に大きい。

ちなみに、「コンテンツ→タイトル」という帰納型よりも「タイトル→コンテンツ」という演繹型のほうが、メリハリのきいたダイナミックな企画になる可能性が大きい。これは、数百ものグループの企画実習の指導・評価経験から導かれた揺るぎない法則である。できたモノや企画に名前を付けるのではない。名前という一種のゴールや概念に向けてモノや企画をデザインする――このほうが言霊が企画に宿りやすいのだ。

「その他ファイル」の功罪

PC上ではファイルという概念をうまく利用しているつもりである。しかし、実際のペーパーをファイリングすることはめったにない。実際、いろんなファイルを買って工夫してやってみたこともあるが、しばらくすると元の木阿弥。すべて無分類状態に戻ってしまう。周囲には資料をきちんとファイルに分けている人がいる。几帳面さに敬意を表するものの、そんなことをしていったいどうなるものかと思ったりもする。

結論から言うと、ぼくは「なまくらファイリング」が一番いいと考えるようになった。至近な活用目的のためには暫定的なファイリングが便利であり、長い目で知を創造的に生かそうとするならばファイリングなど四角四面にすべきではない――これが「なまくらファイリング」。説明をしてみると何ということはない。いずれにしても、整理するだけで二度とお目にかからない資料ならファイリングは不要である。ファイリングをするのは、将来使うことを前提にしているからだ。その使うときのために検索しやすくするのがファイルの目的だろう。

一冊の本を例にとればよくわかる。五年ほど前に読んだ本だが、再読しようと思ってすぐそばの本棚に置いてある。『「心」はあるのか』という書名だ。この書名を「ファイル名」としよう。このファイルには「サブファイル」がある。目次だ。大きく三つあり、人は「心」をどう論じてきたか、「心」を解く鍵、「心」の問題を解き明かす――これらがサブファイル名になっている。

ところが、これらのサブファイルの中を渉猟すると、書名からは見当もつかない「ドキュメント」が出てくるのである。たとえば、言葉はなぜ通じるのか、言語ゲームとは何か、愛と性を考える、言葉と論理、美の感動と言葉……。これは、再読しようとした本だから、ある程度中身がわかっている。しかし、通常、ファイルには大きな概念のタイトルがついている。そのファイル名の下にどんなサブファイルを置きどんなドキュメントを含めるかは大変な作業だ。つまり、検索するのも大変なのである。


ファイルがある。きちんとカテゴリーの名称がついている。その名称に近いか、その名称に関連する属性になりそうな情報を振り分ける。どのファイルにも属さない情報をどうしているか。その情報に見合った新しいファイルを作ることもあるだろう。一つのファイルに一つの情報という状態もありうる。これがムダなのは自明なので、とりあえず「その他ボックス」に放り込むことが多くなる。住所不定の情報や、気にはなるが持て余し気味の情報はすべて、この無分類を特徴とする「その他」に入る。

時折り「その他ボックス」を開けてみると、これらの情報が、つかみどころがないものの、おもしろいエピソードとして力を貸してくれることがある。無分別、未加工、無所属、雑多と呼ばれる「その他」に身を潜めた情報、恐るべしである。ところが、「その他」をこんなふうに上手に使いこなしている人にはめったに出会わない。相当な怠け者でも情報に関しては分別心が働くようなのだ。

情報の数だけファイルを作ったら情報を分けた意味がない。だからファイルの数は必ず情報の数よりも少ない。少ないというどころか、何十何百という情報が一ファイルの傘下に分類される。しかし、「その他」を有効に活用しようとすれば、いつも頭の中に情報のディレクトリーマップを広げておかねばならないのだ。そう、見た目に無分類で「その他」扱いされている情報群をよりどりみどりで活用するには、情報のありかを記憶しておく必要がある。

情報なんか忘れろ、頭を使えという説が有力すぎて困るのだが、PCであれ図書であれ自前のファイルであれ、見覚えのある情報をもう一度探し出すにはとてつもないエネルギーを要する。どうでもいい情報はすぐに探せるのだが、真に求める情報ほど見つかりにくい。ファイリングに長所と短所があるように、ファイリングしない「その他」にも長短がある。ボーダーレス情報を使いこなすには、それらの戸籍を頭で覚えておかねばならないのだである。

「なかったことにする」処し方

先週の講演で表題の「なかったことにする」が何を意味するのかを話したら、想像以上にウケがよかった。かぶりつきに座っていたT氏は特に気に入ったようで、懇親会での中締めの挨拶でこの言い回しを使われていた。先週書いたブログでも選択肢の一つとしての「なかったことにする」という話を取り上げた。

市場分析や他社分析と言うが、いったい何に関してどれだけの情報を集めてどのように読めばいいのか。誰もその解答を持ち合わせてはいない。たとえば顧客のニーズは知りえるのか。顧客はニーズが何であるのかをことばによって第三者に伝えようとするだろう。しかし、認識しているそのニーズとそれを表現することばはほんとうに整合しているだろうか。それは誰にもわからない。ぼくたちは「辛口」とか「甘口」 と使い分けてカレーライスを注文するが、こうしたことばは人それぞれの味覚をアバウトにしか表現できていない。ゆえに、甘口を頼んだのに「意外に辛いじゃないか」という人もいれば、「想像以上に甘いなあ」という人もいる。自分が想定した甘口にぴったりはまる人はむしろ少ないかもしれない。

繰り返すが、いったい何に関してどれだけの情報を集めてどのように読めばいいのか。誰も答えることはできないが、一つだけ確実に言えるのは、期限が許すかぎり読めばいい、ということだ。裏返せば、どうあがいても期限には逆らえない。期限内に収まらなかった情報の分析は「なかったこと にする」しかない。分析できなかった情報や、マナイタに乗せたまではいいが、使いこなせなかった情報に未練を持ち続けても仕方のないことである。それは妄想だ。妄想とサヨナラする、つまり「莫妄想まくもうぞう」のためには、潔さを受容せねばならない。


原則として理性的な判断や論理的思考を尊重すべきだと思っている。しかし、永遠にそんなことばかり続けられない。ぼくたちには仕事がある。そして、所定の期限までに何がしかの成果を生み出さねばならない状況にいる。もしも意思決定が長引いて期限を脅かしはじめたら、別の処方を講じるべきではないか。世界が複雑だから単純化のために「二項対立」が生まれたのだが、さらなる単純化をしてみる。「不二ふじ」、すなわち選択を一つにしてしまうのだ。

選択すべきABの間に大きな差があれば迷いなどしない。しかし、ABが拮抗すると悩む。いずれにも捨てがたいほどの良さがあり、僅差も僅差、判断しかねて立ち往生する。ところが、冷静に考えてみれば、甲乙つけがたいのなら、どっちを選んでも同じではないか。ありきたりな言い方をすれば、一か八か天に託せばいいのである。

そう、迷いに迷ったら、思い切ってオプションの一つを消してみるのだ。三つの選択肢があったら思い切って二つ消してみる。正しく言うと、消すのではなく、はじめから「なかったことにする」というわけである。自分には一つの道しか与えられなかった、他の道をねたんだり欲しがったりしても叶わない。なぜなら、そんなものは「なかった」からである。選択肢は一つあるのみ。それを選んで潔くいい仕事をしようではないか。「なかったことにする」処し方をすると、そこにある種の運命すら強く感じるようになって、仕事にも力が入る。情報や選択肢が増えすぎてしまった時代だからこそ、「なかったことにする」という処し方が意味を持つ。 

学習偏向と免疫の関係

免疫研究の専門企業の広報を手伝ったことがある。研究の様子や試薬製造の現場も見せてもらい、専門家にヒアリングして免疫についていろいろと教わった。詳細はすっかり忘れてしまったが、まったく無知だったぼくには抗原と抗体のメカニズムの話はインパクトがあった。強いインパクトを覚えたポイントは今も記憶に残っている。

外部からウィルスが身体に侵入しようとする。この攻撃に対して人間側ではリンパ球やマクロファージなどの軍隊を編成し外敵をやっつける――おおよそこんなふうに理解している。もう少し正確に言うと、ウィルスという抗原に対して、リンパ球やマクロファージが抗体をつくって、抗原の作用を排除したり抑制するのである。これが免疫システム。「病気にならないように抵抗力をつける」というのが普段の表現だ。もっとも関心を抱いたのが、免疫システムが「自己」と「非自己」を識別するという点だ。

自己を強く守れば守るほど非自己への「沿岸警備」はいっそう厳しくなるんだろうな、と考えたりした。「知」になぞらえたら、自分好みの同種の知を蓄積すればするほど、異種の知への風当たりが強くなり免疫反応を示すようになるのだろうか――とも推論してみた。フロイトの防衛機構論的に言えば、現実を歪曲したり誤解したり否定したりすることにつながりはしないか、と案じたりもした。


やがて知の世界にも強烈な免疫システムがあると確信するに至った。肉体の免疫は低下していくが、こっちの免疫は加齢とともに強化されることもわかった。免疫は学習においてもちゃんと機能する。「偏重して同種の知ばかりを蓄積し、同質思考を繰り返すと、異種の知や異質思考への防衛機能が強く働く」のである。そうなのだ、人は非自己と見なす「ウィルス的知性」を拒絶する。一定の成熟レベルに達すると、多くの人たちは新しい知や異種なる知に目を向けなくなる。やがて知の偏りが生じる。免疫過剰による滞りなのだ。

熟年になっても知のダイナミズムを衰えさせたくなかったら、ものすごくリスキーなことだが、意識的に防衛機能を甘くせねばならない。それは、自己内でほぼ自動的に形成される「知の抗体」を弱めて、新種かつ異種なる――もしかすると危険な――「知の抗原」を迎え入れる勇気である。もちろん勇気とリスクに見合ったご褒美も期待できる。自己と非自己を分別しない、開かれた知の世界である。

免疫と学習の構造は、もはや類似という段階ではなく、同一と言ってもいいくらいである。自分を高めようとして学習しているつもりが、実は料簡の狭い防御壁をつくり、安住の閉鎖空間に自身を追い込んでいるかもしれない、というわけだ。防衛機能に保護された学びは、やればやるほど排他的になる。結論を急いではいけないけれど、知の免疫における抗体は「専門自我」と呼ぶべきものだろう。実はその専門、すっかり閉じられた「偏学」に過ぎない。

いったい何が正しいのか?

二ヵ月前のゴールデンウィークの話。高速道路の渋滞の様子をテレビで見ていた。まるで静止画面を見ているようだった。いや、対向車線が流れていたので、かろうじてそれが生中継であることがわかった。車を運転しない、というか所有していないぼくから見れば、渋滞することを100パーセント想定しながら、なぜそこに入ってしまうのか、不思議でならない。もしかすると、ドライバーにとっては行列のできるラーメン屋に並ぶ程度の覚悟で済ませることができることなのか。

どちらかと言うと、世相を批判的に見る傾向があるぼくだ。「この高速道路を走る、いや歩くように動く自動車のドライバーたちは、みんな間違っているのではないか。正しいのは渋滞する高速道路以外の道を走っている人たちであり、もっと正しいのは車に乗っていない人たちであり、さらにもっと正しいのはどこにも出掛けずにじっとしている人たちなのではないか、そしてもっとも正しいのはこのようなことを考えているぼくなのではないか」と、気がつけば、とても危険な独我的思考に陥りそうになっている。

自惚れ過剰に注意しながら冷静に考えてみる。「55日が帰省のUターンラッシュと聞いていたので、今日(54日)に帰ることにしたんです。そうしたら、この状態で……」と、家族連れの三十代後半らしき男性がテレビのインタビューに答えていた。これは、やっぱり愚かしくはないだろうか。呆れ返るほどの愚かしさなのではないだろうか。


彼の推論を推論してみよう。「5日に混む」と誰が言ったのか知らないが、たぶんテレビのニュースでそんなふうに報道したのだろう。それで、彼は「5日を避けるのが賢明だ」と考えた。彼だけがひそかにこの情報を小耳に挟んだのならばこれでいい。だが、情報源は公器たるテレビであった。大勢がこの情報を入手したに違いない。彼のみならず、その他大勢が「5日を避けて、4日に戻ったほうがいい」と判断するのは当然だ(6日も休日だったが、7日から仕事が始まるので、6日にずらすよりは4日に変更するのがノーマルな決定だろう)。

しかし、ここで推論をやめずに、もう少し続けてみればどうなるか。「ちょっと待てよ、みんなオレと同じように4日に早めようと思うから、4日が混むのじゃないか。それなら当初の予定通りに5日に戻ればいい」――こういう演繹的導出もできたはずである。55日で正解!? 残念ながら、これも正解とは言い切れない。

なぜなら、その他大勢もここまで考えるかもしれないからだ。逆説的に事態を読み続けることはできる。しかし、どこかで読みをやめないかぎり意思決定などできなくなる。結果から言えば、4日が大渋滞になり5日はさほどではなかった。彼は予定していた5日を変える必要はなかった。だが、実際は変えた。他の大勢も(おそらく彼と同じような推論パターンを経て)変えた。変えなければよかったのに変えたしまったのが不特定多数の心理だったのか。真相は絶対にわからない。


確実に言えることが二つある。一つは、上記のような推論ゲームにぼくが参加しなかったという事実。もう一つは、ゲーム理論では何をどこまで読むかを自分が決めなければならないこと。ジャンケンで相手が「グーを出すよ」と言い、それを素直に信じてパーを出したらあなたが勝つかもしれない。いや、そんなの信じられないと考えて、パーを出すあなたに対して相手がチョキに変えると予想し、ならばとあなたはグーに変化……この読みは無限に続く。「相手がグーを出すよという情報」があってもなくても同じだということがわかる。グー、チョキ、パーで勝敗が決まる閉じたゲームにもかかわらず、永遠に踏ん切りがつかない。どこまで読むかもさることながら、読むのか読まないのかに関してもいずれが正しいかはわからないのである。