変える論理、変えない論理

「いつまでもお若いですね」は、変わっていないことを評価することば。「いつまで同じやり方をしているんだ!」は、不変に対する不満。「彼の仕事に対する姿勢は変わらない」は、たぶん褒めことば。しかし、「君、安易に目先を変えるな!」は、変化に対する批判。「殻を破れ、自己変革せよ!」は、変わることを奨励している。「変えてよし」あれば、「変えなくてよし」あり。変えるか変えないかの岐路でどう決断するかは、クイズミリオネアで「ファイナルアンサー?」と聞かれての対応に似ている。

直感的印象で恐縮だが、現在は「変える論理」が優勢な気がしている。まず、「変化とスピード」を謳う企業メッセージをよく耳にする。「時代や社会の変化に対応」というのは、人間が変化すべきことを示唆している。ぼくも、どちらかと言えば、変化礼賛派である。いや、それは「飽き性」をカモフラージュする看板だろうか。


「万物は流転し、自然界は絶えず変化している」――これは古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの根源的な考え。『方丈記』でおなじみの鴨長明は、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」と人間世界を比喩した。構造人類学のレヴィ=ストロースは、「社会システムが変化に開かれるよう構造化されている」と喝破した。つまり、じっとしていると滅ぶ。

これらの思想に共通するのは、世界や社会が「変わる」という論理である。変わる世界の中にあって、人間だけが変わらない特権を有しているとは思えない。同じ状態にしがみついたまま、永続性だけを得ようともくろむのは厚かましい話だ。存続し維持したければ、変化し続けなければならないのである。人間は「変える論理」で生きなければならない。


しかし、変える論理を認めたうえで、ぼくたちは一つの大きな苦労に突き当たる。ひとまず何を変えるのかという選択の苦労である。見方を変えれば、これは「何を変えないか」という選択とも言える。

本ブログで毎週イタリア紀行を書いているが、イタリアの各都市から「何を変えないか」について実に多くを学ぶ。いかなる不便を甘受しても、数世紀前の景観を変えないヴェネツィア。フィレンツェには何世紀も前の水道蛇口を在庫している、ただの古道具屋ではない、水道工事屋があった。愚直なまでに変化しないことが必ずしも滅亡に至るわけではないという証である。

ぼくたちの社会は、便利という価値へと変化した結果、少なからず景観や伝統という価値を犠牲にしてきた。変えなくてもいいものすら変えてきてしまったのではないか。他動詞「変える」には「何を」が必要だ。変える論理は「何」という客語とセットでのみ成立する。

さりげなさと極論のはざま

大分むぎ焼酎二階堂。時々たしなむが、特に熱狂的な愛飲者というわけではない。昭和レトロの空気を醸し出し、ちょっぴりノスタルジーに嵌まってしまう例のテレビコマーシャルがいい。何がいいかと言うと、二番煎じやステレオタイプな構成ものや大声・雑音ばかりの広告が続いた後にほっとする瞬間があるからだ。

「イエスとノー。その二つの間には、何もないのだろうか。」

このせりふを耳にするたびに、「いやいや、そんなことはない」と心中つぶやくぼくである。肯定側と否定側に分かれて激論を交わすディベート指導をしてきた立場からすれば、イエスとノーで二律背反的に割り切ったらどうかと言いそうなものだが、そこまでディベート馬鹿ではない。だいいち、イエスとノーという二つの選択肢だけでは窮屈で、世の中を生きていくことなどできない。

逆説的に言えば、イエスとノーの間に命題の落としどころを見つけるために、イエスとノーのいずれかを極論するのである。振り子は、一番左に振れたあとに一番右にもやってくる。その中間に真理というものがあるはずだ。つまり、一番左と一番右に振れた地点をよく見つめれば、そのはざまにある領域にも目配りができる。もっとも、その振り子が振れる範囲に真理があるという前提での話だが……。人間が想定した範囲以外に人知を超えた真理がある場合には、イエスもノーも、はたまたその中間もまったく意味を持たない。


くだんのコマーシャルは続く。

「筆を走らせたのは、宙ぶらりんの想いでした。 想いのかけらは朽ちることなく、ざわざわと心を揺らします」

なかなかいいではないか。悲しくはならないが、しみじみとした哀愁が漂ってくる。

イエスとノーの分別ができるから何でも断言したり結論づけたりできるのではない。イエスとノーを明言してからこそが、悩みの始まりなのだ。そう、まさに「宙ぶらりん」の状態が続く。ところが、イエスとノーをはっきりさせない者ほど、すでに腹が決まっているなんてこともある。口先で「五分五分です」とか「ケースバイケースです」とか「どちらとも言えません」とか「肯定も否定もしません」という輩にかぎって、心が醒めているものなのだ。

イエスとノーという二律背反と、その中間にあるグレーゾーンは決して矛盾しない。「白黒をつける」と言うとき、白と黒は相反しているが、グレーゾーンを少しずつ辿っていくと白はやがて黒になり、黒もやがて白になる。イエスとノーの間のグレーゾーン、あるいは宙ぶらりんが「さりげなさ」というものだろう。「曖昧さ」と言ってもよい。これに対して、イエスとノーは極論である。グレーゾーンを排除するという点においては「明快さ」と言ってもよい。

極論と明快さが必要な重要局面でずる賢くさりげない振る舞いを見せ、さりげなく済ませればいいことに対して白黒をつけたがる。そんな風潮が支配的になってきた昨今、一献を傾けながら、「イエスとノー。その二つの間には、何もないのだろうか」と時には自問自答してみるのも悪くない。

前提から結論を導く

「論理的思考(ロジカルシンキング)」と「ロジカルコミュニケーション」という二つの研修はぼくの定番リストに入っている。いずれも研修冒頭で気を遣う。論理は重要なヒューマンスキルであるが、万能薬と理解されては困る。ぼくには「発想(ひらめき)」をテーマにした別の研修もあり、論理的思考と創造的思考のあいだに相反するものがあることもわかっている。

日頃安易に「筋が通っている」という意味で使っているが、「論理的」ということばはなかなかの難物だ。論理はもともと学問用語で、「ある前提から蓋然性十分な結論を導くときの考え方の筋道」である。論理学入門の本を手にしてかじろうとしても、こんな文章に出合って愕然、読むのを放棄したくなるだろう。前提と結論、それに蓋然性をわかりやすく説明してみよう。

コンクリートの床がある。
きみは右手に生卵を持っている。

この二つの文章のどちらにも「論理的」というラベルを貼ることはできない。証明さえできれば、それぞれの文章は事実なり証拠と呼ぶことができる。論理とは無関係という意味で、「無論理的」と呼んでもいい。ちなみに、ややこしい話だが、無論理的と非論理的は違う。

きみが右手に持っている生卵をコンクリートの床に落とせば(前提)、割れるだろう(結論)。

日常感覚ではこれで一応筋が通っていて、「論理的」と言える。前提と結論のあいだに筋道があり、納得できる。「だろう」というのが蓋然性で、「実際におこりうる確率」を表している。「十中八九割れる」でもいいし、自信があれば「間違いなく割れる」と結論づけてもいい。蓋然性とは、前提から結論が導かれる確かさの度合いである。


上記の文章、正確に言えば、言及不足だ。前提が不十分なのである。日本社会のように、「人はみな同じ」と考える同質性が高い風土では、わざわざ「生卵は壊れやすい」と「コンクリートの床は硬い」という説明をしない傾向がある。しかし、論理が生まれた背景には「人はみな違う」という異質性があるので、誰にでも明快にわかるよう「ことごとく」説明しようと試みる。「わかってる。もういい、みなまで言うな」という発想は、論理思考にとっては致命的な欠点になる。

生卵は壊れやすい(前提)。コンクリートの床は硬い(前提2)。ゆえに、きみが右手に持っている生卵を落とせば、割れるだろう(結論)。

面倒臭いが、このように推論してはじめて結論の蓋然性が十分に定まってくるのである。

類例を紹介しておこう。ある論理学の本に「よく吠える犬は弱虫だ(前提)。うちのポチはよく吠える(前提2)。ゆえにうちのポチは弱虫だ(結論)」という文があった。演繹推理と呼ばれ、三段論法で論証されている。しかし、これでは不十分なのである。なぜか? 前提2で「ポチ」を勝手に「犬」と決めているからである。もし亭主がポチという名前なら、この文は論理的に成立しない。

余談になるが、ことばの省略と論理・非論理は密接な関係にある。「あの店はうまい」と誰かが言うと、「店は食べられないぞ」と誰かがツッコミを入れる。実は、このツッコミはお笑いの専売特許ではなく、非論理をとがめる検証の役割を果たしている。「あの店は(調理して客に出している料理が)うまい」で納得。この例からもわかるように、文章表現というものはおおむね、説明を抜くと創造的になり、説明をはさんでやると論理的になる。

幸せな気分になる話

微細なところまで正確には覚えていないが、ユダヤにこんな笑話があった。

その昔、貧しい家族があった。狭い家屋に大所帯。我慢が限界に達して主がラビ(ユダヤ教の聖職者)のところに相談に行く。ラビは言う、「明日から家の中に騾馬を入れなさい」。どう考えても解せない助言だったが、主はこれに従い、一週間ばかり騾馬との生活に耐えた。
案の定、耐えきれない。再びラビのところに赴き、「家族だけでも大変なのに、騾馬との生活なんて無理です」と吐露した。「では、騾馬を家の外に出しなさい」とラビは助言した。言われた通りの生活を送り、しばらくして主はラビを訪ねた。「ラビさま、ありがとうございます! 家族だけの幸せな生活が取り戻せました。」

うまくいって当たり前なはずなのに、ひょんな悪運や失敗が邪魔してうまくいかない。うまくいかないから落ち込んでいると、何かの拍子にうまくいき始める。感激して喜ぶ。ユダヤの別の笑話に、「貧乏人は、落としたお金を見つけて、それを拾ったときに大喜びする」というのもある。貧乏人でなくても喜びはひとしおだろう。

「一万円札を落とす(マイナス)、それを見つける(プラス)」で実はプラス・マイナス・ゼロなのに、「一万円札を落とさずに財布に入っている状態」よりも喜ぶ。正しく言えば、喜びではなく安堵なのだが、ショックと安堵との大きな落差が幸福感を増幅させる。

ノーアウトでランナー一塁。次打者がバントをするも投手がすばやくさばいてランナーが二塁でホースアウト。その一瞬、観客は「あ~あ」とため息混じりに落胆。しかし、ダブルプレーを狙って二塁手が一塁へ悪送球。ボールが転々とする間にバントをミスったバッターが二塁へ。この瞬間、観客は一転して歓喜する。その歓喜ぶりは、バントを成功させてランナーを二塁へ送るときの声援どころではない。


快適性や幸福感にどっぷり浸かる日々。日常の当たり前がいかに感受性を鈍らせているかという証である。もう一つは「地獄で仏」や「ピンチはチャンス」や「結果オーライ」という自浄作用だ。「不運の後の幸運」を収支トントンではなく、「幸福の黒字」と錯覚できるように人間のメカニズムは働くのだろう。その代わり、「幸運の後の不運」も収支トントンや赤字どころか、「幸福の倒産」にまで落ち込んでしまう。

柔道やレスリングでは、敗者復活戦を勝ち抜き三位決定戦に勝利する者は「銅メダル」を手にする。早々に負けて泣き、やがて「勝利して銅メダル」。ところが、ずっと勝ち続けて決勝戦まで進んで惜敗する者は「負けて銀メダル」。銅メダリストより上位の銀メダリストに笑顔はない。幸福な人生はバランスシートで説明できないのだろう。連敗の後の一勝をありがたいと感じ、「終わりよければすべてよし」と思いなすのだ。

ちなみに、最近のぼくは、小さなメモを見つけたときに幸せな気分になる。それは自分自身のメモでありながら、そこにはまったく記憶から抜け落ちている内容が記されているからだ。「ふむふむ、なかなかいいことを書いているもんだ」と十数年前の自分を賞賛するとき、気分は最高潮に達する。「それって、ただの自己陶酔ではないか!?」と言うなかれ。幸福には錯覚と陶酔が不可欠なのである。

シニフィアンとシニフィエ

難解なソシュール言語学の話をするつもりはない。ただ、マーケティングにおける記号(ひいてはネーミングやブランド)の意味について一考してみようと思う。

シニフィアンとシニフィエ? 響きは、児童文学に出てくる少年少女の名前みたいだ。実は、そうではない。シニフィアンとは記号表現、シニフィエとは記号内容のことであり、それぞれ専門的には「能記」、「所記」と呼ばれる。

ぼくはメガネをかけている。このメガネというものは、(1) 聴覚がとらえる「メ、ガ、ネ」という音(シニフィアン)と、(2) 「眼鏡」という概念(シニフィエ)の二つが一つの記号となって、実際に手に取ったり掛けたりする「👓(メガネ)」を表わしている。

身近なことばに置き換えると、ことばとモノが表裏一体ということ。「」という実体のモノを、日本語では「デ、ン、ワ」と発音することばで、英語では “telephone”(テレフォン)と発音することばで、それぞれ名付けている。元来、モノとしての「」と「デンワ」または「テレフォン」との間には、こうでなければいけないという理由などなかったはずだ。それでも長い歴史の中で繰り返され、さも必然であるかのようにモノに音声が染み渡っている。

御法川みのりかわ法男のりおと聞いて、その人物の顔が浮かばなかったらシニフィアンとシニフィエが表裏一体になっていない。顔をモノと言っては失礼だが、この場合、ことばからモノを参照できないのだ。「この名前の人、だ~あれ? えっ、みのもんた!? な~んだ」。これでやっと表裏一体になる。モノとことば、つまり人と名、場所と地名、商品とネーム、企業と社名などは、シニフィアンとシニフィエが一つの記号を醸し出している。


もともとは必然ではなかったのに、繰り返し使っているうちに内容と表現がしっくり融合してくる。いま椅子に座っているが、この「イ、ス」という音と物体の一体感はどうだ。とてもよくなじんでいる。「尻置き」でも「腰休め」でも「スワール」でも違和感がある。

使いこんでいるうちに名が体を表わすようになる成功パターンがある一方で、繰り返し使っても何年経ってもしっくりこない場合がある。マーケティング的にはネーミングやブランディングの失敗ということだ。男性かつらに「バレーヌ」や「ズレニクイーノ」はダメだろうし、「ゲリラ特攻隊」という整腸剤は遊びすぎだろうし、「酔ったついでに・・・」という焼酎はいろんな意味でよろしくない。

ユニークな記号が注意を喚起し訴求力をもつのは事実だが、同時にネーミングには共通DNAみたいなものがあって、そこから逸脱すると受け入れてもらえなくなるのだ。

シニフィエに対してこれ以上ないシニフィアンを探し当てる。これがコンセプトの言語化であり、商品のネーミングであり、メッセージのコピー表現なのである。とらわれぬ発想、すぐれた語感、そして膨大な語彙がこの仕事のバックボーンになる。