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知ると知らぬは紙一重
先週「なかったことにする話」を書いてから、しばらくして「ちょっと待てよ。もしかして誤解されているのではないか」という思いがよぎった。実は、何かをなかったことにする裏側には、何かを重宝がるという状況があることを言いそびれてしまったのである。たとえば、「なかったことにした情報」の対極には「偶然出合った情報」がある。ぼくたちは、日々膨大な量の情報をなかったことにし、ごくわずかな情報だけに巡り合っている。
出張でホテルに泊まる。チェックイン時にフロントで「朝刊をお入れしますが、ご希望の新聞はございますか?」と聞かれることがある。ぼくの場合、自宅やオフィスで購読しているのと違う新聞を指名する。一昨日の夜もそう聞かれたので、ある新聞を指名し、その朝刊が昨日の朝にドアの隙間から室内に届いていた。そこにおもしろい記事を見つけた。そして、ふと思ったのだ、「今日自宅にいたら、この情報に出合わなかったんだなあ」と。
こんな時、情報との縁を感じる。いや、そう感じるように「赤い糸」を撚ってみる。この一期一会の瞬間、大海を成すようなその他の情報はどうでもよくなる。もちろん、こんな感覚は次から次へと読書をしている時には湧き上がってこない。仕事で情報を追いかけねばならないときは知に対して貪欲になっているから、情報の希少性が低くなってしまっている。やや情報枯渇感があるからこそ、一つの情報に縁を感じるのだ。欲張ってはいけない。情報を欲張りすぎても、つまるところ、個々の情報の価値が薄まるだけなのだろう。
一昨日新幹線で読んだ本の一節――「言葉をないがしろにすれば、そのしっぺ返しがくるのは当然 (……) 貧しい仕方でしか言葉と接触しなければ、『ボキャ貧』になるのは当たり前」。これがぼくの持論と波長が合ったので下線を引いておいた。
8月と9月に私塾で「ことば」を取り上げるので、上記の一節は身に沁みる。特別な努力を払わなくても、誰もがことばをそこそこ操れる。これが、まずいことになる。何とか使えてしまうから、ことばをなめてしまうのである。それはともかく、このことをずっと考えながら、昨日の夕方に書店に立ち寄り、ことば論とは無縁の、ふと手に取った一冊の本の、これまたふと捲ったページの小見出しに「言葉の不思議な力」を見つけてしまったら、縁の糸が真っ赤に染まるのもやむをえない。立ち読みせずに買って、いま手元にある(縁で巡り合ったが、何度も読み返せるのでもはや一期一会ではないが)。
隣りの一冊を適当に繰ってみたら別の情報が目に飛び込んできたのだろう。もしかすると、そこにも別の縁があったのかもしれない。新聞にせよ本にせよ、ある情報を知るか知らぬかは、文字通り紙一重だ。間違いなく言えることは、知りえた情報は存在したのだが、知りえなかった情報はなかったことにするしかない。なかったことにする潔さが、紙一重で知りえた情報を生かすことになる。個々人における知の集積は、気の遠くなるような無知を後景にした、ほんのささやかな前景にすぎない。縁の情報がその前景に色を添えてくれる。