Easy come, easy go.

わざわざ英語の諺を持ち出すまでもなかったが、かねてから気になっていたので書いておこうと思う。“Easy come, easy go.”を「悪銭身につかず」と一致させる傾向があるが、「悪銭」などという辛辣なニュアンスはここにはない。英語には「あぶく銭」や「悪銭」を意味する“easy money”という表現がちゃんとある。

手元にある諺と成句の辞典は、「悪銭身につかず」を「不正な手段で得た金は、とかく無駄に使われて残らない」と解釈している。そして、例として「競馬や宝くじで大金を得たところで、悪銭身につかずだ。いずれ一文無しになるさ」という用例を紹介している。これはひどい例文だ。競馬の大穴や宝くじの3億円を悪銭扱いするとは失礼ではないか。普段まじめに仕事をしている人間が、お小遣いの範囲で競馬や宝くじを楽しむことは公認されているのである。

あ、そうかと気づいた。人というものは他人が競馬や宝くじで得た大金を悪銭と見なし、自分の場合は都合よく良貨と考えるのに違いない。

本筋に戻ろう。“Easy come, easy go.”の本質を言い当てるのは、「得やすいものは失いやすい」のほうだ。「苦労せずに身につけたことは、いとも簡単に忘れてしまう」という意味にとってもよいし、少し危機感を募らせるなら、「楽は苦の種」が近い。すなわち、「いま楽をすれば後で苦労がやってくる」。この逆は、もちろん「苦は楽の種」である。


時々テレビで見る。読んだ本はテレビに出るずっと以前に書かれたもの一冊のみ。わかりやすい解説を売りにしている人。そう、あの人である。ぼくはあの人に代表される知識人による解説や文章のeasy化現象を〈イケガミ症候群〉と呼んでいる。当の本人への嫌味でも何でもない。あの人は人が良さそうには見える。但し、ぼくはあまり面白味を感じたことがない。

「やさしい」とか「よくわかる」ということがなぜここまで重宝されるのか。イケガミ症候群にかかってしまうと、いつまでも親鳥にエサをもらえると思って口をあんぐりと開け続けるヒナのようになってしまう。しかも、そのエサはすでに十分に噛みくだかれている。現実のヒナたちは成鳥になってやがて自ら硬い実もついばむだろうが、イケガミ症候群の人間たちは脳がなじまないかたい話に耳を傾けようとしなくなる。ごくんと飲み込めるほどまでに噛みくだいてもらった知識が身につく保証はない。いや、これこそ“Easy come, easy go.”を地で行く学び方なのではないか。

テレビのグルメ番組の「わあ、口の中に入れたとたんとろけた」というような肉ばかり食べていると、アゴが退化する。同じことが脳にも言える。ぼくたちの仕事には奥歯で必死に噛み切らねばならないような硬い肉が出てくるのだ。「むずかしくてわからない」のが常態なのだ。リハーサルが楽でやさしすぎては、本番で苦を迎えて危うくなる。やさしさやわかりやすさは束の間の幻想にすぎない。こんなことは過去の自分の学びを回顧してみればすぐにわかる。学びに負荷がかかったことが記憶に強く残っているはずだ。

きみの「わかる」がわからない

《書簡形式のモノローグ

私塾で取り上げた先日のテーマは決してやさしくありませんでした。ぼく自身、この一年ずっと構想してきたし、具体的な話の構成と内容についてもここ数ヵ月の間あれこれと考え探究して準備をしてきたけれど、未熟さもあって十分にこなれた講義ができたとは思っていません。

案の定、わかってもらえるだろうかとぼくが気になっていた箇所について、きみはぼくに問いを投げかけました。ぼくのさらなる説明を聞いて、しばらく考え、やがてきみは「ふ~む、やっぱりわからない」とため息をつきました。きみが「わからない」と吐露したことに、正直ぼくはほっとしたのです。ぼくにはきみの「わからない」がよくわかった。なぜなら、ぼくもあの箇所についてずっとわからない状態の日々を過ごしてきました。そしてその後、ようやく他者に話せる程度にわかったという確信を得たからです。つまり、ぼく自身がずっと「わからない」状態で苦悶していたからこそ、きみの「わからない」がまるで自分のことのようによくわかるのです。

実に不思議な感覚。ぼくが「やさしい」と感じていることを誰かが「むずかしい」と感じていることがわかる。誰かの「わからない」がわかる。おそらく「わかる」には「わからないということ」が下地になっているのに違いありません。恵まれて他者に何事かを説こうとする者は、少なくとも理解の難所をよくわきまえておくべきだと思うのです。学生時代、「お前たち、こんなやさしいことがわからんのか!? バカものが!」という教師に言い込められたことがあります。ぼくにとって反面的な教訓になっています。自分にとってやさしく理解できることが、他者にとってはそうでないこと、そのことをわかるデリカシーを失うまいと心に誓いました。

きみの「わからない」が「わかる」に変わるべく、ぼくはあの手この手を工夫してさらなる研鑽をしてみようと思います。


《書簡形式のモノローグ2

ぼくがきみに伝えようとした事柄は少々むずかしかったかもしれません。なにしろ自分でもよく咀嚼できていたとは言えず、それゆえにぼく自身がよくわかったうえで伝えたと断言する自信がありません。にもかかわらず、物憂げになるどころか、きみは表情一つ変えずに「よくわかりました!」と言ってのけました。

仮にぼくもわかっていたとしましょう。そして、きみもわかった。要するに、ぼくたちはあの事柄について一定の理解に達したというわけです。ところで、「わかる」ということは「わからない」ということよりも多義的ですね。「わからない」はどこまで行っても「わからない」だけど、「わかる」には程度があると思うのです。いったいぼくはきみの「わかる」をどのように勘案すればいいのでしょうか。

ぼくときみは同じようにわかっているのでしょうか。そこに理解程度の一致はあるのでしょうか。ぼくはきみの「わからない」はわかるのですが、きみの「わかる」がわからないのです。きみの「わかる」はぼくの「わかる」と同程度であり同質であると、どうすれば言い切れるのでしょうか。誤解しないでください。きみに詰問しているわけではありません。ぼく自身への本質的な問いなのです。人に物事を説こうとする立場にあって、ぼくは「他者がわかる」ということを突き詰めずにパスすることはできません。

他者の「わからない」ことをわかる自分が、他者の「わかる」ことをわかってはいないのです。いったい「わかる」とは何なのか、それは懐疑の余地すらない「わかる」なのか。どうやら、このテーマは、ぼくが私塾で話し続けるかぎり、ついて回ってくる難題になりそうです。いや、滅入っているのではありません。むしろ、ぼくにとって追い求めがいのあるテーマに気づいたことを喜びとしている次第です。