時間の不足、発想の転換

わが国の教育ディベートに旬の時期があったのかどうか知らない。あったとしても、元来がニッチだからピークそのものが聳えるほどであったとは到底考えられない。ぼくの経験では20年程前と10年程前にディベート研修の依頼が多かった。年中全国行脚していた。ニーズも多様化して様々なバージョンのプログラムも準備した。ディベートの本も書いた。だが、最近ではロジカルコミュニケーションやロジカルシンキングがディベートを逆転していた。

昨日の夕刻は久々のディベート講演だった。20名弱の少人数を対象に1時間話をして、即興ディベートを1時間体験。ディベート経験者の知人が二人いてくれたので、ぼくのサポート役として初心者をうまく「その気」にさせてくれた。ありがたい。

依頼があった時点では、聴き手にとってまったく不案内なテーマを60分枠で話すのは難儀だと思った。過去に23時間のディベートセミナーというのは何度か経験したが、さすがに1時間という短時間で話した記憶はない。講師業というのは、当たり前のことだが、経験を踏むにしたがって知識が深まり広がる。独自のノウハウも身につけるから、盛り込みたいことや伝えたいことは年々増える。つまり、おおむねあれもこれもと欲張りになっていく。


ところが、欲張りは資料のページ増と講義の長時間化につながる。これは明らかに時代の要請に逆行している。分厚いテキストと豊富な持ち時間が、決してコンテンツと講義品質の向上につながるわけではないのだ。丸一日の研修を6時間に、6時間を4時間に削られると、講師は不安になるもの。内容と時間の濃縮によって「ネタ漏れ」の不安がよぎってしまう。逆に、水増しならいくらでもできる。

講師心情を吐露したような格好になったが、要するに、潤沢な講義時間が講師の能力や技術を高めるわけではないということだ。むしろ、今回のように1時間だけと過酷なまでに裁量を制限されるほうが、潔く発想を転換できる。半日枠で基本と思っていた内容が、1時間になるとまったく別物として再構築される。

ぼくの中では足りないことだらけ。なにしろ、サービス精神旺盛な足し算発想から、情報のケチケチ引き算発想に変えねばならないのだ。ここまで削ぎ落としていいのだろうか。これをディベート入門と呼んでもいいのだろうか。そんな後ろめたさとは裏腹に、どっこい講演はうまくいく。初心者は好感度で話を聴き、「ディベートはおもしろい」と言ってくれる。不思議である。だが、時間の不足を嘆くことはない。むしろ、短時間が強いてくる創意工夫へのきっかけを喜ぶべきだろう。