知者と愚者―どちらが生き残る?

今年最初の会読会を来週金曜日に主宰する。年末から昨日までいろんなジャンルにわたって10数冊ほど「軽読」していて、何を書評すべきか迷っている。ちなみに軽読とは、文字通り軽くざっと読むこと(その後、これぞという本をしっかりと再読する)。今年も雑多に読むつもりではあるが、大きなテーマとして「人、人間、人類」を見据えていて、そこから派生する「力、技、術、法」なども絡めていきたいと思っている。

昨年最後の会読会では「宇宙と地球」の本を取り上げた。このテーマを継承するなら、「人類700万年の歴史」を拾える。もちろん「ことばと芸術」も範疇に入る。「日本人がどこから来たか」も興味をそそる主題だし、うんと時代を駆け下りてきて幕末、あるいは流行の「龍馬」を語るのもよい。タイトルに惹かれて古本屋で買った『かたり』(坂部恵)は、「う~ん、難解」と反応されるかもしれないが、知を刺激するだろうし新しい発見も多いはずだ。

この他に、イタリア人ジャーナリストの手になる「バカ」をテーマにした一冊の文庫本がある。書き出しが動物行動学者のコンラート・ローレンツとの出会い。本章に入ると、オーストリアの「ある学者」との往復書簡的論争が繰り広げられ、人類の進化を「知性 vs バカ」の対立で描き出してみる。イタリア語の原題は『愚者礼讃』。どうやらエラスムスの『痴愚神礼讃』の書名をもじっているようだ。アイロニーであり、逆説的に読まねばならないのは言うまでもないが、真に受けたくなる説も多々ある。この本を取り上げるかどうかはまだ決めていないが、愚者と知恵に関して再考する機会を得ることはできた。


愚か者やバカということばの何と強いこと。知恵者などひとたまりもない。ところで、先祖であるホモ・サピエンスの出現以来とても賢くなってきたように思える一方で、ぼくたちはサピエンス(知恵・賢さ)とはほど遠い愚かな行動を繰り返したりする。家庭と暮らし、組織と仕事、社会と文明などによく目を凝らしてみれば、知の進化と同時に、知の退化や劣化という現象をも認めざるをえない。大木がある高さ以上に成長しないように、知性にも成長の限界があって、もしかすると進化が止まって劣化へと向かっているのかもしれない。

ITどころか、紙と筆記具と本を手に入れるのさえ困難な時代に、先人たちはさまざまな命題に挑んだ。彼らの知の足跡を辿ってみると、ここ数百年、いや二千数百年にわたって思考力が飛躍的に高まってきたと証明する勇気が湧いてこない。たしかに現代に近い人々ほど知識は豊富だし、おびただしい難題を解決してきただろう。しかし、解決策には新たな弊害も含まれ、問題は山積するばかりである。

周囲だけでなく、広く社会を見渡してみると、知者もいれば愚者もいる。知者が先導してすぐれたチームを形成していることもあれば、他方、こんな愚か者が大勢の知者を率いていていいのだろうかと泣きたくなる組織も存在している。時代はやや愚者有利に差し掛かったとぼくは見ている。集団化は便利と効率を追求する一方で高度な知を必要としないから、人材はみんなならされてしまう。当然没個性が当たり前になるので、みんな普通になってしまう。集団的普通は、いくら頑張っても歴史上の一人の天才には適わないだろう。知者の敵は集団なのだ。知を生かしたければ、少数精鋭しかない。いや、そもそも精鋭は小集団でしか成り立たないのである。

《続く》