「なぜ」が消える時

“5W1H”が頻繁に強調されてきて、何を語り書くにしても要諦だとされる。いつ(When)、どこで(Where)、誰が(Who)、何を(What)、なぜ(Why)の5つのWと、どのように(How)という1つのH。文章の筋道と意味の精度を高めるには、これらを明確にしなければと強く意識する。しかし、元はと言えば、ニュース記事を書くにあたっての作法であった。5W1Hは事実に関わる。事実をきちんと押さえることが、何を差し置いても、記者の基本の心得だ。表現の巧拙よりも、事実に反しない文章が上等なのである。

同じ事実を扱うにしても、事実と認定するのに手間暇がかかるのが一つある。「なぜ」がそれだ。日時、場所、人物、行為・出来事、方法に比べて、理由や原因には事実に推論の要素が含まれる。

「○月○日午後○時、○○町角のコンビニ○○で、住所不定自称フリーター○○は、仲間に店員の注意を引かせて、弁当を二個万引きした。腹が減っていたが弁当を買う金がなかったからと取り調べに答えているという」。

日時、場所、人物、行為、方法は証言によって裏付けることができる。ところが、「腹が減っていたが弁当を買う金がなかった」という理由は本人の言であって、それが確実に唯一の理由または動機であると認定する客観的な証拠はない。本人がそう言ったことは事実であっても、その言が万引きの理由や動機であったかどうかは不明である。現行犯逮捕された者がなぜ万引きしたかは推論の域を出ないというわけだ。


「なぜ」は論理にとって不可欠であるけれども、特に論理立てることもない場面で敢えて問うことはない。なぜと問わないことをなぜと問うべきことと同様に心しておかねばならない。料理屋に行って刺身の盛り合わせを注文したら、連れに「なぜ刺身から?」と聞かれても困る。刺身を食べたい、ただそれだけだ。刺身を食べたいのが刺身を注文した理由というのも何か変である。最近肉食が続いたので、今日あたりは魚にしようと考えていたというのもしっくりこない。「なぜ」が不発になる場面である。

ここぞという時でもないのに「なぜ」を振り回さないほうがいい。いつ、どこで、誰が、何を、どのようにに比べれば、出番が少ないのである。論理思考や議論の技術に馴染んでしまうと、つい理由や原因の分析が癖になる。よく状況を見極めるのが肝要だ。

風景であれ芸術作品であれ、そこに佇んで見ているうちに「なぜ」と問いたくなる不可思議に襲われることがある。答えが出るはずもなく、問うてみようとした自分に戸惑う。木洩れ日の木々の、まあ、ありていに言えば、その美しさの理由を知ってどうなるものでもない。なぜと問おうとしている間は、対象との間に距離を置いていて、わからないことをわかろうと理を動かしている。意味があるはずもないし、無粋な問いである。

しかし、やがて理由を知ろうとすることが空しく、あるいは、知ろうとしても満足のゆく答えが見つかるわけでもないことがわかる。理から離れて対象に向き合っているうちに、同化する瞬間がやってくる。それまで見えなかった、たとえばそれを「美」と呼ぶとすれば、美が神妙な無形物として立ち現れてくる。風物の観賞や作品の鑑賞に言語や理屈を介在させないことは難しい。消えるのを辛抱強く待つしかない。

投稿者:

アバター画像

proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です