「だから?」と言いたくなる時

誰が言ったか忘れたが、「人は頭で納得して動くわけではない」という発言が耳にこびりついている。いつもそうとはかぎらないし、人それぞれなのではないかと反発した。だが、冷静に考えてみれば、「ぼくたちは必ずしも・・・・頭で、あるいは理性的に納得して行動するとはかぎらない・・・・・」と丁寧に――つまり、現実に即して部分否定的に――読み下せば、このコメントは間違いではないだろう。問題は、この発言に続くべき「だから……」が抜け落ちている点だ。

「人は頭で納得して動くわけではないから、説得する側はこうせよ」と言いたいのか、「人は頭で納得して動くわけではないが、そんなことではダメだぞ」と言いたいのかが語られていない。素直に尋ねてみよう、「人は頭で納得して動くわけではない。だから?」 もう一つ聞いてみよう、「では、人は何に納得して動くのか?」 さらにもう一つ。「人は発作的に動いたり思いつきで動くのか?」 これらの問いにまっとうな答えが返ってくる気がしないのはぼくだけだろうか。

相手に頭で納得してもらおうとする人は、おそらく論理的説得を試みる。したがって、この発言は「論理的説得で人を動かせるわけではない」と置き換えられる。しかし、そこで終えてはいけない。それはやむをえないと言うにせよ、ハートに訴えかけよと言うにせよ、前言をつなぐ意見を明らかにしなければ、ただの評論的な独り言で終わってしまう。「人は頭で納得して動くわけではない」という言説に分があるのなら、誰も頭を説得しようとしなくなるだろうが、適当な説得や衝動的な納得でいいわけでもないだろう。


定期的に送られてくるメルマガに次のようなくだりがあった。

「日本人は情緒的な民族でロジックが苦手です。理詰めで考えることに違和感を持つ人が多いのではないでしょうか。」

「人は頭で納得して動くわけではない」と似通っている。論理や情緒の話になると、なぜこうもステレオタイプな一般論が平然とまかり通るのか、不思議でならない。「あなたは情緒的で、ロジックが苦手、おまけに理詰めで考えることに違和感を持っているだろ?」と言われて、どんな気分になるか。これは「あなたはバカです」と言われているに等しいのである。

「日本人は論理は苦手だが、繊細で感性にすぐれている」などという論評は通俗的にすぎるし、かなり認識不足と言わざるをえない。仮にこの主張が現実を正しく言い当てているとしても、それでいいのかと問うのが論評する者の義務である。そう問い掛けて、このままでいい、いや、このままではいけないと意見を述べてもらわねば、時間を割いてメルマガを読んでいる意味がない。

深刻化する原発問題を見て、わが国の世論が情緒的解決を望んでいるのか。まさか。論理的思考に違和感を強めているとはとても思えない。仮にロジックが苦手であっても、この局面で「理詰めで考えることが苦手です」などと言っている場合ではないのである。それはそうと、世界の民族を情緒優位系と論理優位系などに二分することはできるのだろうか。もしできるのならば、アメリカ人などはどちらに属するのか、聞いてみたいものである。

たとえば米軍の「トモダチ作戦(Operation Tomodachi)」は情緒的なのか論理的なのか。情緒的動機から生まれた論理的行動なのか、それとも論理的判断に基づいた情緒的行動なのか。こんなことは永久にわからないし、問う意味もないだろう。なぜなら、どう考えるかは定義次第だからだ。ついでに言えば、米軍は壊滅された東北の街を救済する作戦も立てるし、リビアの市街地を破壊する攻撃作戦も立てる。両方を同時にやってのける。この状況を見て、「だから……」という意見や論拠を持つべきだろう。ぼくには頭以外の納得も説得の方法も思い浮かばない。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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