少々遠回り

4月末から1日も休まずに6月を迎えた。一ヵ月以上休まなかったのは十数年ぶりかもしれない。心身の疲れに悩まされてはいないが、曜日感覚の喪失に少し戸惑っている。今日が金曜日であることはついさっき認識したばかりである。

ある刺激を与えて直接的な効果を得るという一ヵ月ではなく、辛抱強く結果を待つ迂回的な日々だった。格好をつけるわけではないが、久しぶりに一手先ではなく数手先ばかり見ていた。実際、一手先を実行するほうがうまく行ったはずのケースも多々あったが、遠回りなやり方にはそれなりの妙味もあって見直すところがあった。

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リフォームしたオフィスに合いそうな成木を探していたが、その発想を止めて遠回りすることにした。オフィスなのにゴーヤの苗木を三鉢買ってきたのだ。ぼくの机は南の窓のそばにある。明るくていいが、これからの季節は陽射しが強い。ロールカーテンで遮光しても大した効果がない。7月、8月に向けてゴーヤに期待することにした。遠回りである。しかし、遠回りには近道にない愉しみがありそうだ。

この一ヵ月、今日やっておくほうがいい仕事を明日に任せ、特に急ぎでない構想を優先させたりした。こんなちょっとしたことでコペルニクス的転回が起こるはずはないが、日々の自分を見つめ直すきっかけになったような気がする。

仕事に直接役立つ知と技だけを学んでいては行き詰まる。たしかに人は仕事に生きる。しかし、仕事のみに生きているのではない。生を豊かにするには仕事の充実は不可欠だが、それだけでは不十分である。明日役立つことを今日仕入れないという少々遠回りな生き方は言うほど簡単ではない。何よりも勇気がいる。来週からは再び軌道修正することになるだろうが、この一ヵ月の遠回りな時間と経験は貴重であった。

メモの中のメモ

SNSで投稿したりコメントしたりした一文は一過性の運命を背負って消えていく。なんだかせつない。即興の文章とは言え、書いた直後にハッと気づくことがある。その一文から発想が広がりそうな予感がする時もある。そんな時は、とりあえずメモアプリに流し込んでおく。メモはお金以上によくたまる。

 アッシジのフランチェスコのように放蕩三昧する勇気もなく、居直って無為徒食もできない。かと言って、日々刻苦精励しているわけでもない。おおむね人は中途半端に生き長らえていく。

 日が長くなり、昼が夕暮れにバトンタッチする時間が午後6時を回るようになった。

 桜が芽吹こうとしている。この堅い芽がやわらかい花びらに変身する。やさしく咲いては儚(はかな)く散るの繰り返し。人知を超越したこんな現象に出くわすと、精神が神妙ということを思い出す。

 ぼくはね、未だ女装と人を踏み台にしたことがないんですよ。

 満月を二日後に控える月を「不満月」と呼んでみる。

 カニは人を寡黙にし、カキは人を饒舌にする。

 自ら人に働きかけず人と関わろうとせずに知らんぷりする人生よりも、面倒臭そうにされてもお節介する人生のほうがいいと思っている。それが間違っていないこと、いや、肯定すらできるということを『おみおくりの作法』という映画が教えてくれた。

 「豆単」などと言っても知らない人が多い。川柳を作ってみたのだが、はたしてわかってもらえるのだろうか?
Abandon 覚えて豆単 放棄する
豆単を売った赤尾の一人勝ち

 今となっては必要としなくなったすべてのものが、生まれた意味を否定されていいはずがない。人もモノも考えも、そして食べ物も。
ぼくは伊勢うどんを一度食べた。そして、それが最後になった。つまり、もう食べないし必要ともしない。しかし、時にその味を批判しながらも貶し過ぎないように心掛け、その存在に寛容であり続けたいと、まるで神のような境地に到ることができた。ありがとう、伊勢うどん。

文章コピー

ブログを始めてから今年の6月でちょうど10年。本に換算するとおよそ20冊分に相当する文章を書いたことになる。これに比べれば著書は少ない。実際に書店に並んだぼくの著書はわずかに二冊。あとクローズドな利用に限定したものが二冊。研修用にオリジナルで書き下ろしたテキストは数百種類あるが、ほとんど未公開。パワーポイントで編集したスライドに至っては何万枚もある。

テキストを編集する際には、引用した文章の出典を記す。本から引いたものをあたかも自分が書いた文章のように見せることはない。ところが、パワーポイントのスライドにこと細かに記載する習慣はあまりなく、口頭で伝える程度であった。しかし、他人の著書から何行にもわたってコピーして平然としている講師がいて、受講生にそれを指摘されて問題になるケースが少なからず発生している。研修先や研修会社からの要望もあって、ここ数年、スライドにも出典を明記するようになった。

スライドの画像はほとんどオリジナルで作っているが、紹介したい他人様の事例もある。その場合は、出版元の承諾を得るようにしている。ウェブサイトからダウンロードする場合も同様だが、どうしても元の出典や著作権所有者がわからない場合はURLを記載する。研修会社のスタッフがこういう作業に協力してくれるのでありがたい。

著作権の専門家の話を何度か聞いているが、アウトとセーフの境界はデリケートで素人には悩ましい。ひとまず、引用する側として良識的な神経を使うようにしている。しかし、ぼくの本やテキストやブログがどのように引用され転載されているか、場合によってはコピー/ペーストされているかについてはかなり無神経だ。このブログでも“Copyright ⓒ Katsushi Okano. All rights reserved.”と明記しているが、形式的な意味合いが強い。

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このブログで使っているソフトウェアはWordPress。基本のソフトウェアの活用機能を強化するプログラムを「プラグイン」と呼ぶが、おびただしい数のものが無料で使える。たとえばスマホ対応にするとか、漢字にルビを振るとか、人気上位10位の記事の見出しを並べるとかだ。最近“Check Copy Contents”というプラグインをインストールした。ぼくの書くブログの記事のすべて、または一行一語でもコピーされたら検知してメールで知らせてくれる。コピーした時のブラウザ、機器もわかる。但し、誰がコピーしたか、そしてそれをどこにペーストしたかまではわからない。

著作権を守るために使っているのではない。だいいち、ブログ自体が気の向くまま書いて自分勝手に公開しているものだ。どこのどなた様か知らないが、小難しくて拙い文章を読んでいただけることにむしろ感謝しているくらいである。では、なぜこのプラグインをインストールしたのか?

ぼくの文章のどんなテーマの記事のどの箇所がコピーされているのか、ブログを読んでわざわざ「コピーしてくれる人」が食いついたキーワードや一行を知りたいだけである。コピーしたからと言ってペーストしたとはかぎらない。仮にペーストされたとしてもまったく気にしない。駄文が少しでも何かのヒントになるのならそれでいいのではないか(学生の論文へのコピペはいただけないが……)。

このプラグインの紹介文は次のように書かれている。

「どこの文章をコピーされたのかを知ることができるので、サイト内の文章やキーワードの需要をタイムリーに調査するのにも役立ちます」

同意する。権利云々ではないのだ。なお、インストールしてまだ半月も経たないが、すでに何百というコピー検知メールが届いている。コピーされた記事の自分の文章をあらためて読み直して自画自賛する時もある。着眼がいいなあ、ぼくだってこの箇所はコピーするかも、などと思ったりしている。いい意味でのシェアだと解釈すれば済むことである。

持つなら愛用すべし

当たり前だが、万年筆の寿命は万年ではない。しかし、そこそこ過酷に使っても十数年は大丈夫、きちんと手入れすれば一生ものになるはず。所有し愛用した万年筆は十数本、修理に出したのはこれまで一本もない。消えた万年筆は数本あるが、誰かにあげたか紛失したからである。

昨年暮れ、一本の万年筆の――ペン先でもなく握りの部分でもなく、また胴軸内のコンバーターでもなく――ペンを支える首軸しゅじくのひびに気づいた。使おうとして数文字書いた時点で、ペン先から「ぐにゃ感」が伝わってきた。見たらひびが入っていた。ひびの状態を確かめようとして少し動かした瞬間、首軸が割れてしまった。

この一本はウォーターマンのカレン。万年筆としては珍しい色味のフロスティブラウン。クラシックタイプの万年筆が多い中で、この一本はペン先とシルエットのデザインが現代風だ。パリに旅した記念に、どうせ持つのなら珍しい一本をと思った次第。当時は円高だった。日本で買うよりは2、3割ほどお得感があった記憶がある。もう6年も前のことで、保証書は見当たらない。仮にあったとしてもすでに保証書は無効である。

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出費を覚悟して、自宅近くの修理工房に持ち込んで診てもらった。「数十年間、万年筆の修理に携わってきたけれど、首軸のひびや割れを見るのは初めて」という。直接メーカーとやりとりするのがベストと言われ、取り扱っているデパート売場で相談することにした。万年筆売場の店員も首軸のダメージを見るのは初めてと言った。

前例がないのなら部品や本体はリコール対象ではないのだろう。しかし、負荷をかけた記憶はまったくない。ヒアリングされたので次のように伝えた。「パリで記念に買ったが、この6年間、原稿用紙に換算して10枚程度しか書いていない。ほとんど自宅に置いていた。稀にペンケースに入れて持ち運ぶこともあったが、落としたり強い衝撃を加えたことはない」……。原稿用紙10枚などはたかが知れている。ほとんど使っていないことを強調した。

初めての事例なので修理代の見当はつかないとのこと。しばし思案して、「消費税・手数料込みで1万円を超えそうなら、修理に取り掛かる前に連絡してほしい」と告げて、ペンを預けて帰った。その日から約一ヵ月経った一昨日、デパートから修理完了の電話があった(了解なしに修理した、つまり1万円未満だったということだ)。昨日受け取りに行ってきた。

「帰ってきたウォーターマン」。修理に出していた万年筆が元の姿になって戻ってきた。丁寧な報告書が付いていた。首軸が折れている、破損個所周辺に衝撃の痕跡はない、つまり使用上の問題はない、製造工程における何らかの原因によって首軸の樹脂に強度問題が発生した、云々。修理は、無償だった。報告書には「家に置いてある状態で10文字くらいしか書いていない……」というくだりがあった。原稿用紙10枚程度なので4,000字である。ヒアリングしたデパート店員が10文字と伝えたのだろう。さすがに10文字はない。

道具を買う決断をしたのなら、そして、それを何が何でも欲しいと思ったのなら、とことん生かして愛用すべきだ。大枚はたいて衝動買いしたものの、ほとんど出番を与えずに破損させたことを大いに反省している。

器用仕事の危うさ

「アトラスが地球を持ち上げているのさ」。さらりとこう言われて、はい左様ですかとは納得しづらい。アトラスはどこに立っているのか? アトラスは亀の背中に乗っかっているという。では、その亀は? 別の亀の上に乗っている。ある亀を別の亀が支え続け、その亀をまた別の亀が支え、延々と亀が並ぶ……。これは無限後退の図。

たまに行く商店街に昔ながらの電気店がある。横向きに置いた植木鉢が錆びた鉄のパイプを支え、それが什器を保持している。植木鉢のこんな利用法にはめったにお目にかかれない。テーブルの四本の脚が微妙に長さが違っている時、アジャスター機能がなければ、段ボールの切れ端を重ねたりして応急処置をすることはある。しかし、書棚の傾きを補正するのに植木鉢は思い浮かばない。なんと大胆な着眼であることか。

見た目がとにかく危なっかしい。植木鉢の横に頑丈なレンガが置きっぱなしになっているが、レンガではアジャストできなかった証拠だと見受ける。そこで、地面と棒の端の間に収まるものをあれこれと試した挙句、どうやら植木鉢を横倒しにしたらしっくりきたようだ。

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この図に横着、適当、間に合わせ、おざなり、胡散臭さ……好ましからざることばをいくらでも浴びせることはできる。考えてみれば、命より大切な地球を亀の群れが縦一列で支えているのもかなりアバウトな話である。ここは、地球ほど重要ではない什器。亀ではなく植木鉢でまかなうのは相応かもしれない。

什器が倒れないように支えようという意欲と工夫は認める。レヴィ=ストロースの文化人類学的概念である“ブリコラージュ”に近い。このフランス語は由来を辿れば「ごまかし」だが、「器用仕事」という意味で使われるようになった。そこらにあるものから良さそうなものを見繕って、自前で一工夫して利用しようという試みだ。

但し、器用仕事はある一つの目的のための工夫であるから、その目的以外への配慮を欠くことがある。たとえば見栄えや安全性のことは気に留めない。器用仕事のほとんどが応急的な一時しのぎ、いずれは恒常的な方法に切り替えねばならない。ところが、植木鉢で何とかなった。特に問題がないのなら変える必要はないというわけだ。実際、ぼくはこの危うい図をもう数年以上冷や冷やしながら見ている。植木鉢がいつか朽ちて什器が倒れる時、手遅れながらリスクに気づくことになるのだろう。

雨の日の手紙

雨の日に手紙を書かないほうがいい?
いや、そんなことはない。晴耕雨読があるのだから、晴耕雨書があってもいいはず。そう考えて、雨の日の昨日、手紙を書いた。

雨の日に万年筆で手紙の宛名を書かないほうがいい?
いや、そんなことはない。手紙も宛名も同じ万年筆でいいはず。傘を差して、雨粒が封筒に落ちないように注意して投函すればインクは滲まない。

雨の日に万年筆で宛名を書くのはいいとして、手紙を投函するのはなるべく雨が上がってからのほうがいい?
いや、郵便ポストの投函口が濡れていたら、ハンカチで水滴をぬぐい、狙いすましたように差し出せば心配はない。

雨の日に、青いインクの万年筆で手紙を書き、ついでに宛名も同じ万年筆で書き、雨の降る中、ポストまで歩いて投函してもいいのだ。そこに問題はない。
ただ、雨の日に手紙を水溜りに落としてはいけない。

小題軽話(その6)

記憶力について  知を動かすのは記憶である。ここで言う記憶とは、覚えることではない。覚えたことを思い出すことである。どんなに体系的に学んでいるつもりでも、ぼくたちの記憶は「点」を基本にしている。脳は点まみれなのだ。いつどこで誰と会うかなどは点記憶である。点を思い出すのは基本の基本だが、脳は勝手に点どうしを結んでくれないから、意識を強くして点と点を結ばなければならない。その時にはじめて知が動き始める。

一つの点記憶だけでは不足感がある。この点に何を足せばいいかと脳内検索をする。検索するには記憶しておかねばならない。微かな記憶であっても、記憶していれば点と点はつながる可能性がある。忘れないようにとノートに書く、PCに取り込む。しかし、書いた事柄やファイルのラベルを特定できなければ話にならない。加齢にともなって記憶は徐々に衰える。一般的には四十代後半から劣化が著しくなる。歳を取って記憶力を失速させてしまうのは、知を動かす上で致命傷になる。足腰も気になるが、記憶はもっと重要なのである。

読書の愉しみ  健康のために散歩する人がいる。はじめに目的ありきだ。行為である散歩が目的に従属する。目的が意味を失えば、当然手段は無用になる。と言うわけで、散歩という習慣はおおむね挫折する。読書もこれに似ている。書いてあることを学ぼうという意識が強くなると、読書は手段と化す。手段になった読書は、経験的には苦痛以外の何物でもなくなる。

本が好きだ、読むのが愉しいという単純な動機でいいのである。この動機付けによって、本を読んでいろいろと学び、教養も身につき、関心の強いテーマが徐々に明確になる。その分野の知が深まれば愉しくなる。これが自然の流れ。この流れに逆らって苦痛を感じてまで本を読むことなどさらさらない。さっさと快いことに向かえばいい。世の中には読書以上に愉しいことはいくらでもあるのだから。

「自」のこと  自という文字をじっと見つめていると不思議な感覚に陥る。それは「白」ではなく「目」でもない。「自ずから」と書けば「おのずから」と読み、「自ら」と書けば「みずから」と読む。これに別の漢字が一つくっついて数え切れないほどの二字熟語が生まれた。

自分、自力、自然、自立、自動、自慢、自信、自我、自由、自律、自発、自業、自得、自暴、自棄、自在、自体、自主、自覚、自前、自首、自論……。

辞書に頼らずとも、いくらでも(と言うのは大袈裟だが)並べられそうな気がする。ひょいひょいと二字熟語を生成できるが、自ずからであれ自らであれ、あるいは別の意味に転じたとしても、概念も行為も手強いものばかりである。

浮くスローガン  スローガンが大好きな人や組織がある。「チャレンジ」「希望」「未来」「夢」「ふれあい」などのことばを含むスローガンがあちこちで目につく。政府や企業や地方自治体にもスローガンを多用する向きがあるし、小さな任意のグループも例外ではない。

真っ白い紙にこうしたスローガンを書けば、少なからずわくわくするのだろう。ある種の快い緊張感をもって清新の気を漲らせて筆を運んだ様子が想像できる。しかし、時は過ぎて初心の思いがやがて薄らぎ、スローガンの文字はメッセージ性を失う。陳腐な表現だけがぽつんと浮いて見向きもされない。これではいけないと学習すればいいのだが、性懲りもなく別のスローガンが次から次へと安直に掲げられることになる。

雑感三題

愚直  希望という名の野望が絶望になるだろうとつぶやいたら、まあ、だいたいそんな結果になった。交渉術でもそうなのだが、計算や策略を練るよりも愚直主義を貫くほうが強みになることがある。

誰かや何かのためなどと特定の配慮に偏らず、素朴に振る舞うこと――これがきわめて難しく、ゆえに平均値以上の価値になる。「きみにしかできないことは?」と聞かれて、「愚直であることかな」と言えれば幸せだし、誇らしく思える。

しかし、愚直は誰にでもできることではないので、愚直であることを理解する者もまた少ない。そんな愚直などありえない、きっと裏があるに違いない……こいつの愚直はポーズであり、きっと綿密な計算が働いているなどと勘繰られてしまうのだ。

ところで、愚直と天然は似て非なるものである。前者は疲れるが、後者は疲れない。

書物  先日ディベートの講義を依頼された。理屈を聞くだけでは初心者は理解しづらいので、聴講生の中の経験者二人に即興でデモンストレーションしてもらった。論題は『電子書籍は有益である』。これは紙の書籍を否定するものではないから、証明するのにさほど苦労はいらない。むしろ、検証・反論する側の荷のほうが重い。

電子書籍は合理的な読書メディアである。読書の目的を「読む」ということだけに限定すれば、なるほど有益で便利なツールに違いない。しかし、もし本が読むだけのものであるなら、書物にまつわる諸々の付加価値は生まれなかったに違いない。書斎の必要もなかっただろう。

書物の装丁は実に見事である。さらに読者の知らない用語がいくらでもある。天、地、小口、ノド、表紙、ひら、背、背文字、ミゾ、扉、束(つか)、見返し、耳、花布(はなぎれ)……。用語の豊富さは実体の奥深さを現わす。本づくりはまさに総合芸術と呼ぶにふさわしい。

いつぞや行きつけの古書店でショーケースに入った特別展示を見る機会があった。造本作家の武井武雄の作品群である。本とは、読むだけにあらず、見て、触り、繰って、携え、並べ、蔵書するものだとあらためて思い知る。タブレットにインストールした聖書で祈りを捧げるのは滑稽だ。

三昧  先月、三年ぶりに高知に赴いた。仕事を兼ねていたが、「三昧」の二泊三日だった。何の三昧かと言えば、何を差し置いても仕事柄「話」ということになる。仕事を離れても、ご当地の知人と晩餐しながら雑談に興じた。よほどの話好きだと思われるが、一人でいる時はもちろん寡黙である。

もう一つの三昧は鰹である。六回の食事のうち四度が鰹。たたきが二度、漬け丼が二度。ごぶさた感を埋めるには十分な量のご当地名物をたいらげた。鰹に合わせたのは四万十川の栗焼酎ダバダ火振。晩餐は男どうしであったが、男と女ということにしてノートに歌を走り書きした。

火振飲め 男と女 ダバダバダ たたいて喰らえ カツオとウツボ

機嫌が良いこと

久しぶりに入った蕎麦屋でお気に入りの裏ごしおからを注文する。ざる蕎麦の前の一杯のつまみである。箸を動かして口に入れた瞬間、良くも悪くもなかった機嫌が良い方に動く。

オフィスに閉じこもって考え事をする。仕事が前に進まない時、機嫌が悪くなっている。そこで、遠回りかもしれないが手を動かしてみる。具体的には紙の上にペンを走らせるのだ。やがて凝り固まった考えがほぐれてくる。手を動かすという方法は「手法」である。理屈の技法よりも手法のほうが進展の可能性を秘める。腕を組んでいるよりも手を動かすほうが、少しは機嫌が良くなる。

もっといいのは、特別な用がなくても、川辺に行ってしばらく佇んでみることだ。川面に視線を落とし、溜め息か深呼吸か見分けのつかない動作をして空を仰いでみる。晴れていれば木漏れ日に巡り合う。この時、機嫌が悪いはずもない。裏ごしおからに舌鼓を打つのとは違う機嫌の良さ、気分の快さを自覚する。こんなタイミングで知り合いとばったり遭遇すれば、ちょっとコーヒーでもと声を掛けることになる。

誰にも不機嫌な時がある。その不機嫌を他人の前で露わにするのはなるべく避けたい。人間誰しも機嫌にむらがあるのはやむをえないが、それを見せてはいけないだろう。大人だからと言うつもりはない。ただ、明らかに機嫌にむらのある人を相手にしていると精神が消耗する。

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無愛想な店主がいる。それが一つの個性になっているのなら、気にならない。無愛想と不機嫌は違うのである。必要以上に愛想を振りまかないが、淡々といい仕事をする一流の職人。それでまったく問題はない。機嫌が良くなくてもいい、悪くさえなければ。

こんな話を聞いたことがある。一時間以上も待たされた後に店に入り、うまい寿司を食った。しかし、店主はずっと不機嫌だったらしい。愛想も悪く機嫌も悪い。それでよく長蛇の列ができるとは不思議だが、それを受容する客がいるのも現実だ。店主は変人でも頑固でも無愛想でもいい、しかし、不機嫌がこっちにまで感染してはたまらない。不機嫌とうまさを天秤にかけたら不機嫌の方が重すぎると知人は感じた、そして二度と行かないと言った。

泣きそうな表情もだめだ。いつも暗い顔して負け犬のような生き方をして何が楽しいのか。人は勝ち続けられない。だから負ける。負けるのは非常事態ではなく常態だ。負けてへらへらと笑う必要はないが、暗い表情を浮かべることもない。もちろん、体調が悪くてつい顔に出ることがある。そんな時は人に会わなければいい。もし会うと覚悟したのなら、何があろうとも機嫌良く振る舞う。にこりと愛想することはできなくても、せめて機嫌だけを安定させる。

愛想とは「人あしらいのよいこと」であり、愛嬌があって、親しみやすさがあること。愛想がない、つまり無愛想でも許容できることがある。他方、機嫌が良いとは気持ちや気分の良さである。たとえば上機嫌と言うように。しかし、別に「上」でなくてもいい。気分が、機嫌軸の悪い方ではなく、少しでも良い方に振れていればそれで十分なのだ。最近、機嫌の良し悪しをテンションの高低と勘違いする向きがあるが、テンションが度を越す連中と一緒にいると、こっちの方の機嫌が悪くなる。独りよがりなハイテンションを機嫌が良いなどとは言わないのである。

コーヒーサイズの話

行き当たりばったりで飲むコーヒーに難癖はつけない。たとえば、食後にコーヒーが付いている場合とか、時間待ちするにもその店以外に選択肢がない場合など。しかし、半世紀近くコーヒーを飲んできたから、ある程度自分流が出来上がっている。自分流を貫くには気に入った豆を買い求め、自分で淹れて飲むのが一番。休みの日に体験する他流も、なるべく味や分量も自分流に近いものを所望するようにし、そうしてくれそうな店に入る。

コーヒーそのものについてはまずまず知っているものの、カフェチェーン店のコーヒーの注文サイズの呼び方にはまったく不案内だった。理由は簡単で、レギュラーコーヒーは例外なくレギュラーサイズで飲むからだ。ぼくが想定するレギュラーサイズは、よくある普通のカップに八分目、おおよそ一杯150mlである。コーヒーが冷め切るまでにおいしく飲むにはこれがちょうどよい。ところが、ある店でメニューを見ずに「レギュラー」を注文したら、それが3段階サイズの真ん中だったことがある。はっきり覚えていないが、S(スモール)/R(レギュラー)/L(ラージ)のような名称だった。おそらく240mlをゆうに超えていた。あまり飲みなれない量を飲み切ったから、胃袋はダボダボ。

どのチェーン店も23種類のサイズを用意している。S店などは4種類。当初は耳慣れないショート/トール/グランデ/ベンティに戸惑った。戸惑いはしたが、飲むのは決まって自分流のレギュラーサイズだから、それはショートなのだろうと想像して注文した。他店のレギュラーの1.5倍ほどの分量に驚いたものである。経験的にはコーヒーは大きすぎないカップで飲むのが快い。快いから習慣になる。習慣になるのは、それがおいしいという学習をしてきたからにほかならない。なお、S店のコーヒーはうまい部類に入らないので、ここ何年も行っていない。

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エスプレッソにシングルとダブルがあるように、ブレンドコーヒーにもレギュラーサイズと、それよりも少し多めに入ったサイズの二通りの選択があってもいいだろう。それをR(レギュラー)/L(ラージ)と呼んでいるのは、ぼくがたまに行く3店のみ。他の店はおおむねS(スモール)/M(ミディアム)/L(ラージ)の3種類。ぼくにはこれが「変」なのだ。個人的な偏見だと承知しているが、飲食を質よりも量でとらえがちなアメリカ流に従い過ぎではないのか。量を求める人はやがて冷める残り半分のコーヒーに平気なのだろう。

チェーン店ではない、街の老舗喫茶店でメニューを見る。コーヒーの種類はブレンドの他にモカやキリマンジャロなどいろいろ書かれているが、サイズはぼくが言うところのレギュラーのみだ。「大盛り」などはない。だから、レギュラーサイズという名称がない。一種類のサイズしかないことに何の問題もない。店主も自信を持って豆の種類を配合して、ブレンドコーヒーを淹れてカップに適量注ぐ。最後まで冷めない分量である。もしもう一杯欲しければ追加で注文すればいい。二杯目を半額で提供してくれる店もある。

先に書いたように、自分流の「レギュラーサイズ」の注文がミディアムサイズになることも無きにしもあらず。そこで、最近はメニューのパネルなどに見向きもせず、こう注文する。「ブレンドコーヒー、一番小さいのください」。