届かなくても背伸び

以前『背伸びと踏み台』というタイトルでブログを書いた。背伸びを自力、踏み台を他力としてとらえた話である。よく「お前は背伸びしすぎだ。分をわきまえろ」などとお説教している人がいるが、少し酷ではないか。分をわきまえているからこそ背伸びをしているのである。自分は力不足だ。期待されている「そこ」に手が届かない。だからこそ、不安定になりながらも、爪先を立てて精一杯手を伸ばす。いったいこの努力のどこに問題があるだろうか。何もない。たしかに彼は無理している。だが、たとえ爪先と言えども、自分の足が地に着いているのである。

ぼくは背伸びする人たちをずっと評価し、背伸びのお手伝いができないかと考えてきた。今も変わらない。背伸びは自助努力である。自力を用いようと踏ん張っている様子である。そう、上げ底と取り違えてはいけないのだ。上げ底は見せかけである。そこに実体などない。正味60点の力量に架空の20点をどこかから持ってきてトータル80点の振りをしているにすぎない。背伸びして80点というのは、正味の力量である。たとえ20点分に無理があろうとも20点分が束の間の足し算であろうとも、彼の潜在能力が発揮された結果にほかならない。


マルボロの広告で有名な広告界の巨匠レオ・バーネット(1891~1971)は味わい深い名言をいくつか残している。「商品には固有のドラマがある」ということばから、どんなありふれた商品にも誕生したかぎり隠されたドラマがあり、それを掘り起こし使いこなすのがコンセプト開発者の仕事であることを学んだ。「テーマに没頭し、考え抜き、そして自分の予感を愛し、尊び、それに従うこと」という企画者の姿勢にも大いに共感したものだ。

今もなお、ぼくには「できること」と「できないこと」を分別する合理的精神の趣が強い。「一見できそうもないこと」は場合によっては「一見できそうなこと」でもあるから何とかしようと試みるが、努力が徒労に終わりそうな、「明らかにできないこと」はパスするのである。しかし、二十数年前にレオ・バーネットの一文を知るにおよんで、「できないこと」に向かって背伸びして得られる副次的なメリットにも開眼した。

“When you reach for the stars, you may not quite get one, but you won’t come up with a handful of mud either.”

「(つかもうと)星に手を差し伸べても、一つだって首尾よく手に入れることなどできそうもない。だが、(そうしているかぎり)一握りの泥にまみれることもないだろう」という意味である。ぼくはここに背伸びの効用を見て取る。背伸びは必ずしも目的への到達だけを目指すのではなく、落ちぶれないための、あるいは能力を減じないための歯止めでもあるのだ。背伸びをしなければ現状維持さえおぼつかない。肉体のみならず知力のアンチエイジングのために自らの心身によって背伸びする。上げ底ではエイジング対策にならないのである。

愚かなりし我が記憶

『愚かなり我が心My Foolish Heart』と題された映画があり、同名の主題曲がある。しばらく聴いていないが、ぼくの持っている二枚のCDでは、いずれも『愚かなりし我が心』と「し」が入っているはず。一枚のCDではエラ・フィッツジェラルドが歌い、もう一枚のほうではエンゲルベルト・フンパーディンクが歌う。曲名に反して、曲調は静かで「知的な」と形容してもいいバラードだ。もう30年以上も前になるが、関西テレビが特集したドキュメンタリー『風花に散った流星――名馬テンポイント』の挿入曲として使われていた。

そういうことを覚えている一方で、さっぱり思い出せないことも多々ある。まったく「愚かなりし我が記憶」であると痛感する。いや、何かのきっかけさえあれば思い出せるのだが、そのきっかけすら生じないから、記憶そのものが飛んでしまっている。逆に言えば、きっかけが生じる仕組みがあれば記憶を呼び覚ませることになる。もちろん、後日きっかけとなるような仕込みは不可欠だ。ぼくにとってノートは触発のための仕込みである。放っておくとますます愚かになっていく記憶のアンチエイジング策として、ぼくは月に一回ほど過去のノートを捲って拾い読みするようにしている。

先日、自宅の書棚に『ジョーク哲学史』(加藤尚武)を見つけ、ざっと目次に目を通した。おもしろそうだ。買ったままで読んでいないおびただしい本のうちのその一冊を鞄に放り込んだ(鞄にはそんな文庫本が常時5冊ほど入っている)。そして、昨日、たまたま1990年のノートを繰っていたら、同じ著者の『ジョークの哲学』からの抜き書きを見つけたのである。「十三日の金曜日」と題したそのメモを読んだ瞬間、20年前にジョークやユーモア関係の本を濫読していたのを思い出し、次から次へと記憶が甦った。どうやら自宅で見つけた本のほうもざっと目を通していたようなのだ。


同年齢の友人知人のひどさに比べれば、ぼくの記憶力は決して愚かではないと自負している。十歳くらい若い塾生にもたぶん負けていない。しかし、そんな強がりのうちにも不安や失望がつのる。たとえば、8月の私塾大阪講座の第2講『情報の手法』のテキストを読んで、「結構いいこと書いているな」とつぶやくのは一体どうしたことなのだ。自分で考えたり引用したり書いたりしたのであるから、ほとんど覚えている。しかし、所々で数行が記憶から抜け落ちている。信念でないこと? 印象に薄いこと? 繰り返し想起しないこと? よくわからないが、あることを覚えていて別のことを忘れるのは、情報の重要度や頻度とは無関係なようだ。

不安や失望と書いたものの、さほどショックでもないことにあらためて気づく。記憶にはそのような新陳代謝が必要だと悟っている。つまり、記憶力と忘却力は不可避的に一体化しているのである。そして、覚えておかねばならないことや覚えておきたいことを忘れ、どうでもいいことや忘れてしまいたいことが記憶に残ったりする。メディアは時系列で刻一刻事件や出来事を発信する。時系列ではあるが、さしたる脈絡があるわけではない。情報がA→B→CではなくB→C→Aという順番だったら、まったく別の記憶が構築されるのだろう。

今日誰かに何かを話そうと思って忘れてしまっている。今年の講座のアイデアも浮かんだのだが、もはや鮮明ではない。忘れたことは生理的メカニズムの成せる業と割り切るのはいいが、ぼくにとってまったく関心の外にある「淳と安室」が記憶に鮮明に残ってしまうのははなはだ情けない。テレビでB級報道を観てはいけないと肝に銘じる。我が記憶を愚かにするか否かは、日々の情報との付き合い方によるところ大である。  

習熟とマンネリズムは表裏一体

テレビの『プロフェッショナル 脳活用法スペシャル』を見た。脳科学で解き明かされるアンチエイジングの方法と、脳科学とは無縁のプロフェッショナルたちが日々実践している脳の使い方がほとんど一致するのがおもしろい。高等なプロフェッショナルまでの域にはほど遠いぼくでさえ、幸いにして考え書き話す仕事をしているお陰か、脳活用要件のほとんどを満たしている。周囲の人たちを観察してきた経験から言うと、脳の不活性の兆しは面倒臭がることに現れ、やがて集中力が持続できず、いますぐにできることを後回しにしてしまう。とりわけ言語活動に手抜きし始めると老化が加速するというのがぼくの持論。たとえば、「そんな難しい話はどうでもいいじゃないか」と言い始めると危険信号だ。

「習慣が脳をつくる」というのが大きなテーマだった。番組を見損ねた読者のためにぼくなりに要約すると、このテーマの前提のもとに脳を劣化させない心掛けとして、次の二つがある。

(1) 適度に身体を動かし、指先を使い、細々こまごまとした作業を人に任せず自分でやる
(2)
新しい課題に挑み、目と目を合わせてよく会話をし、好きなことに精を出す。

ぼくの場合、車を所有していないから、とにかくよく歩く。自動車ならぬ「自動人」である。また、小さな事務所なので雑用も人任せにはできないから、(1) はクリアできている。話が好きで仕事が好きだし、得意先や顧問先の高いハードルの課題も歓迎する口だ。ゆえに(2)も大丈夫なはず。

けれども、それで安心して慣れてしまうと、脳が楽をしようとする。脳を活性化する習慣が身についているからといって、その慣れ親しんだ思考回路や記憶の使い方に安住すれば、エイジングが進む。ある程度できているからこそ、さらなる変化や揺さぶりが難しくなってしまうのだ。昨夜の番組を見ていて感じたのは、できていない人ほど脳の新しい使い方の可能性が広がりやすく、できている人ほどさらなる鍛錬に手を抜けなくなる点だ。まことに脳というのは油断も隙もないと思い知った次第である。


メモに関して茂木健一郎がいい話をしていた。出会う人すべてにメモの習慣を薦めるぼくとしては、誤解を避けるためにこの点を付け足さねばと反省した。「メモはその場で書くのではなく、思い出しながら書く」と茂木は言う。そうなのだ。めったに浮かびそうもないひらめきは一語でも一行でも記録するのがいいと思うが、たいていの情報や体験はいったん脳の記憶に放り込むのがいい。基本的には、パソコンやノートに記憶を丸投げするのではなく、脳にひとまず記憶させるのが正しい。そして数時間後でも後日後でも、一次記憶を辿りながら書き出し、あるいは別の情報を加えたりして文章化していく。これによって、ノート上にも脳内の二次記憶ゾーンにも情報が刻まれる。このようにして記録し記憶したものは検索しやすく生かしやすいので、申し分のない知的武装になる。

趣味でも仕事でも上達したいから打ち込むものだろう。そして慣れてくれば、いちいち意識を新たにしなくてもある基準を満たせるようになる。これが習熟という状態だ。かつて高嶺の花だったスキルが精神と身体の一部になってしまえば、ほとんど困難を伴わなくなる。こうして脳もその状態に慣れる。だが、ある日を境にして、習熟がマンネリズムへと転化するリスクが高くなる。習熟はプラス、マンネリズムはマイナス――そんなことは百も承知だが、表情がプラスかマイナスかだけであって、顔そのものは実は同一のものである。

脳にとっては習熟もマンネリズムも同じことなのだ。なぜなら「習慣が脳をつくる」からである。とすれば、脳のアンチエイジング対策は永遠に続けなければならないことになる。では、若い脳を保ちたければ学習し続けねばならないのかと問えば、半分イエスで半分ノーのような気がする。新しい情報の取り込みは最小限必要だとしても、おそらくもっと重要なのは、同じテーマでもいいから思考する回路のほうを変えることだろう。なにしろ脳の神経細胞は千億個もあるそうだ。ほとんど新古品のように出番を待っているに違いない。