推論モデルから何が見えるか (2)

昨日の話をわかりやすくするために、トールミンモデルの三つの要素「主張・証拠・論拠」を別の観点から眺めてみる。推論する人が他者に受容してほしいのは「主張」である。相手に言い分を受けてもらいたい。「証拠も論拠もいいが、主張がダメだ」と突き放されたら説得は失敗してしまう。

主張だけ伝えて納得してもらえるのなら、それに越したことはない。その場合には推論モデルの他の二つの要素に出番はない。たとえば、「人はみんな幸せになりたいものですよね」という主張はこれ自体で成立していて、証拠と論拠による必死の証明を必要とはしない。逆に、「人って不幸になりたがるものなんだ」という主張には、強い論拠はもちろん、相当に上等な証拠も用意せねばならない。一つの証拠では不十分だと指摘されもするだろう。少なくとも一般法則を導けそうな二つ三つの証拠を携えておかねば説得はむずかしい。

以上のことからわかるように、〈エンドクサ(通念)〉に則っていてコンセンサスが取りやすい主張の場合は、証拠や論拠による推論エネルギーは小さくて済む。他方、相手と対立する主張や少数意見、あるいは一般常識からかけ離れた意見を展開する場合には、証拠の質はもちろん、論拠にも創意工夫を凝らして、緻密な推論を打ち立てる必要がある。


賛成・反対の意見が拮抗するように記述化するのがディベートの論題である。議論開始早々から勝負が決まってしまうようなテーマ解釈上の不公平性があってはならない。肯定側・否定側のいずれの主張も、主張単独だけで第三者が説得されることはない。ところで、その主張を、論拠なしに、証拠だけで支えることはできるだろうか。

たとえば「ここに卵がある(証拠)。落とせば割れるだろう(主張)」という推論の証明力は十分だろうか。実は、これは推論レベルに達したものではなく、単なる常識にすぎない。いや、床の硬さや落とし方や落とす高度などに言及していないから、信憑性を欠くという見方もできる。では、「調査の結果、ダイエットのリバウンド率は60パーセントである(証拠)。ゆえに、ダイエットは長続きしない(主張)」はどうだろうか。一目で不器用さが漂ってくるが、仮に受容してあげるとしても、これでは調査しただけの話であって、推論の構図から程遠い。

主張をきちんと通すためには証拠と論拠の両方が不可欠なのである。そして、まさにここからが重要な助言なのだが、相手上位、得意先に対する提案、強い常識の壁が存在している……このような場合には、十中八九、信憑性の高い証拠から入るべきなのである。もっと言えば、キャリアが浅い時代は証拠主導の推論を心掛ける。証拠という裏付けが自信につながり、場数を踏んでいるうちに独自の論拠、理由づけができるようになるからだ。

キャリアを積んでいけば、次第に論拠主導型で話法を組み立てて他者を説得できるようになる。勉強したことばかりではなく、自分で考えることを推論の中心に据えることができる。ともあれ、間違いなく言えるのは、証拠という客観性と論拠という主観性によって主張を唱える「二刀流」がどんな世代を通じても、どんなシチュエーションにおいても、バランスのとれた推論であるという点だ。

(了)

推論モデルから何が見えるか (1)

《トールミンモデル》という、主張・証拠・論拠の三つの要素から成る推論モデルがある。わが国では「三角ロジック」という名でも知られている(下図)。

Toulmin Model.jpg “The Toulmin Model of Argumentation”という英語なので、「トールミンの議論モデル」ということになる。けれども、二人の人間の議論以外に、一人で論理を組み立てる時にも、一人で二律背反思考する時にも使えることから、《推論モデル》とぼくは呼んでいる。

このモデルの存在を知ったのは、大学に在学中の1972年頃。ディベートに関する英語の文献を調べていたら、トールミンモデルが引用されていた。論理学者ステファン・トールミンが創案したので、こう名付けられている。

この三角形は簡易モデルである。原型モデルは主張の確信度、論拠の裏付け、反駁(保留条件)の三つを加えた6つの要素を含んでいるが、論理学習の初心者にとっては図で示した3要素で十分に推論を組み立てることができる。


このモデルの「主張」は結論と言い換えてもいい。つまり、ある論点についての意見である。この主張をどこに置くかによって、推論の構造が変わる。

 主張 ⇒ (なぜならば) 証拠+論拠

 証拠 ⇒ (ゆえに) 主張 ⇒ (なぜならば) 論拠

 証拠+論拠 ⇒ (ゆえに) 主張

「証拠+論拠」はセットという意味であって、「証拠⇒論拠」という順にはこだわらない(論理学で「前提1⇒前提2⇒結論」のように書くとき、前提の中身が証拠であるか論拠であるか、あるいは大きな概念であるか小さな概念であるかまで特定していない)。

さて、「腹が減っては戦はできぬ。太郎は今、とても腹が減っている。ゆえに、太郎は戦えない」という三段論法(演繹推理)は、上記Ⅲだということがわかる。「腹が減っては戦はできぬ」が論拠、「太郎は今、とても腹が減っている」が証拠、そして「太郎は戦えない」が主張(導かれた結論)である。

「傘を持って行くべきである(主張)。なぜなら、天気予報では午後から雨が降るようだし(証拠1)、きみが今日出向く所は駅から徒歩10分かかるらしいから(証拠2)、雨に降られればびしょ濡れ、そんな恰好で訪問はできないからね(論拠)」。まさか傘一本でこんな推論はしないだろうが、これは上記Ⅰの構造になっている。

の典型的な例。「御社には他社にない有力商品Aがあります(証拠1)が、競合他社が実施しているサービスBを提供されていません(証拠2)。だから、御社も商品Aと抱き合わせにして大々的にサービスBを打ち出すのが賢明です(主張)。というのも、このジャンルでは商品がサービスよりもつねに優位だからです。同じサービスさえ提供しておけば、結局は商品力勝負ができるのです(論拠)」。複雑そうに見えるが、構造は明快である。これは帰納推理に近い展開になっている。


何を語るにしても、トールミンモデルを使うことができる。そして、上記ののいずれの構造によっても推論を組み立てることができる。しかし、持ち合わせている証拠や訴えたい主張の中身次第では、推論の順番が変われば、相手が感じる蓋然性(確実さ、ありそうな度合い)も変わってしまう。主張から入るか、論拠から入るか、あるいは証拠から入るかによって、説得効果に大きな違いが出てくるのである。

〈続く〉

はい、いいえ、わかりません

きわめて限られた場面での話である。どんな場面かと言うと、仕事の現場や会議での意見のやりとりである。たとえば誰かが何かを主張する。その主張へはおおむね「同意する」「同意しかねる」「何とも言えない」の三つのリアクションがある。あるいは、誰かがその主張に対して「~ですか?」と質問する。この場合も、「はい」「いいえ」「わかりません」の三つの応答が考えられる。話をわかりやすくするため、後者の応答パターンを取り上げる。

「あなたは仕事をしていますか?」への応答は「はい」か「いいえ」のどちらかである。「わかりません」は考えにくい。「シゴト? ワカリマセン」と外国人が答えるケースは無きにしもあらずだが、質問の意図がわかる人なら「はい」か「いいえ」で答える。「わかりません」が返されるのは、「あなたは仕事が好きですか?」の場合。「仕事はしているが、好きかどうかがわからない」または「仕事をしたことはないので、好きかどうかがわからない」のなら、「わかりません」と答える以外にない。

問いかけが、たとえば「以上の私の提案に対して、賛否と理由を聞かせてほしい」という、少々議論含みになってはじめて三つの反応の可能性が生まれる。そして、答える人は「はい」「いいえ」「わかりません」と方向性の表札を示し、しかるのちに理由を述べる。意見交換のあとに表札を変えてもいいが、理由も明かさないまま表札を「いいえ」から「はい」へ、「はい」から「いいえ」へところころと変えるのはよろしくない。なお、「わかりません」には理由はいらないという意見もあるが、そうではない。「わからない」だけで済ますのは「関与しない」と受け取られかねない。「わからない」と答えても、「何がわからないか」を説明する責任を負うべきだろう。


現時点でわからないことは、どうあがいてもいかんともしがたい。だから、「わからないこと」を素直に「わかりません」と答えるのを躊躇することはない。むしろ、下手に見栄を張ったり背伸びしたりしてまで「はい」や「いいえ」で答えてしまうと逆に問題を残してしまう。但し、何かにつけて「わかりません」を繰り返していると、「なんだ、こいつは! バカの一つ覚えみたいに……」ということになり、頼りないプロフェッショナルとの烙印を押されてしまう。もちろん、意見のやりとりを前提とする会議のメンバーとしての資格もやがて失うことになるだろう。

誰だって、プロフェッショナル度が高まるにつれ、「はい」か「いいえ」かの二者択一のきつい局面で決断することを求められるようになる。かと言って、毅然とした空気を全身に漲らせて「はい! いいえ!」と力むこともない。決死の覚悟になるから、意見撤回できなくなるのだ。軽やかに「はい」または「いいえ」を明示して、思うところを素直に語ればいいのである。  

三つのリアクションの他に、実はもう一つ、どうしようもない、論外のリアクションがある。それは「無言」だ。無言は「いいえのひねくれた変形」。黙秘も法律上はれっきとした権利だが、共通感覚的には印象が悪い。ぼくの経験では、ダンマリを決め込む人間のホンネは「ノー」である。ホンネが「イエス」ならば、ふつうは「はい」と表明するものである。もちろんイエスマンもいるし、儀礼的な「うなずき」もあるが、黙っている者はそのいずれでもない、「陰のあるレジスタント」だ。なお、複数回繰り返す「はい」と「わかりました」には注意が必要だ。ともに「承っておきます」というニュアンスに近い。