愉しい本、美しい本

書棚のスペースに余裕がなくなってきたので、最近はかさばらない文庫と新書ばかり買っている。昔読んだが手元に残っていない古典の類を再読するためである。お手頃価格で買うハードカバーの古本もあるが、床に積んである状態だ。電子化すればさぞかしすっきりするだろう。電子書籍の是非はさておき、ぼくは紙のページを指で捲るのが好きなのである。しかも、2Bくらいの太い芯のシャープペンシルでマーキングしながら読む。

読んでためになる本よりも、読んで愉しい本がいい。本だから吟味するのはもちろん内容だ。しかし、かつて書物は貴重であり希少であった。そして、読む愉しみだけではなく、蔵書として愛でたり飾ったりすることにも意味があった。一種の芸術品である。グーテンベルクの活版印刷が普及してからも、印刷されたページが製本も装丁もされずに売られていた時期が長かった。わずかな発行部数を求めて、購入者は刷りっ放しのページを自分の好みに応じて装丁し製本していたのである。

以上のような、本にまつわる初耳のエピソードに感嘆しきりだった。実は、広島出張の機会に、ひろしま美術館で開催中の特別展『本を彩る美の歴史』をじっくりと鑑賞してきたのである。わが国の平安時代の経典の前でしばし立ち止まり、ルネサンスから近代までのヨーロッパの本、活字、装丁、挿絵に目を奪われた。『グーテンベルク聖書』(1455年)の文字組みの美しさは圧巻だったし、シャガールの挿絵の斬新さにも感嘆した。


ルネサンス期のお宝本の数々を超至近距離で見れるとは想定外だった。ユークリッド『幾何学原論』(1482年)、トマス・アクィナス『神学大全』(1485年)、ルター『ドイツ語新約聖書』(1522年)、コペルニクス『天体の回転について』(1543年)、デカルト『方法序説』(1637年)、レオナルド・ダ・ヴィンチ『絵画論』(1651年)……すべて初版だ。第2版ではあるが、ダンテの『神曲』(1487年)もあった。14世紀初めに書かれたこの作品は、ラテン語で書かれるのが当たり前の時代に当時のイタリア語(フィレンツェ方言)で書かれた。

「世界三大美本」も展示されていた。いずれも19世紀終りから20世紀初頭の書物である。解説のプレートには次のように書かれていた。

「産業革命の結果、本の世界も、安価であるが安直なものが多く出回るようになった。その動きに逆らうかのように出てきたのがプライベート・プレスで、営利を目的とせずに、手作りにこだわった本作りをおこなった」

プライベート・プレスは伝統工芸ないしは芸術としての書物への回帰にほかならない。下記がその三大美本。

ケルムスコット・プレス刊『(エリス編)ジェフリー・チョーサー著作集』.jpg
ケルムスコット・プレス刊『(エリス編)ジェフェリー・チョーサー著作集』(1896年)。タイポグラフィに装飾。何という凝りようだろう。
アシュテン・プレス刊『ダンテ著作集』.jpg
アシェンデン・プレス刊『ダンテ著作集』(1909年)。これほど余白の美しさを感じさせる見開きページ構成にはめったにお目にかかれない。
ダブス・プレス刊『聖書』(全5巻).jpg
ダブス・プレス刊『聖書』全5巻(1903-05年)。『創世記』の冒頭”In the beginning God created the heavens and the earth.”(はじめに神は天と地を創造された)の”In the beginning”が赤い大きな文字で見出しになり、しかも、アルファベットの”I”がテキストの頭を揃えるように長く縦に伸びて装飾効果を添えている。

意地を動かす「てこの原理」

法句経ほっくきょう』は、釈迦の真理のことばとして有名な原始仏典である。その中に次のような一節がある。

まことに、みずから悪をなしてみずから傷つき、みずから悪をなさずしてみずからきよらかである。浄と不浄とはおのれみずからに属し、誰も他人を浄めることはできない。

鈴木大拙師はこの一節に言及して次のように語る。

この詩はあまりにも個人主義的すぎるかもしれない。だが、結局は、人は喉が渇いた時には、みずからの手でコップを傾けなければならない。天国、もしくは地獄では、誰も自分の代理をつとめてくれる者はいないではないか。

ぼくには天国も地獄も想像はつかないが、現世においてもこの謂いは何一つ変わらないと考える。常套句を用いれば、「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」ということだ。たとえば、あなたに誰かが手を差し伸べたとしよう。その手をつかむか無視するかは、あなた次第である。つかまなくても、辛抱強い人ならしばらく手を差し伸べ続けてくれるだろうが、そんな奇特な人はめったにいない。やがて手を引っ込めてあなたのもとを去っていくだろう。

正道と邪道があるとき、「こちらが正道ですよ」と誠意を込めて念押ししても、意固地なまでに邪道に足を踏み出してしまう人たちがいる。冷静な慧眼を少し働かせるだけで邪道であることが明らかになるにもかかわらず、これまでの生活様式や価値観が強く自分を支配しているから、意地はめったなことでは崩れない。意地はいつも偏見の温床になる。意地を「我」と言い換えてもいい。


放置しておくと、偏見は増殖し続け重厚長大化する。強い偏見の持ち主は、親しい人が差し伸べるコップの水に見向きもしない「偏飲家」なのだ。彼らは周囲の好意を拒絶して、ますます邪道へとひた走る。排他的な一つの意地ほど具合の悪いものはないのである。どうすれば、こんな愚に目覚めることができるだろうか。おそらく、己の意見とその対極にある異見・・の間の往復運動によってのみ、ぼくたちは偏見を揺さぶることができるように思う。

しかし、どんなにあがいても、「時代が共有する偏見」から完全に逃れることはできそうもない。そもそもぼくたちが今を生きるうえで身につけてきた知は時代を色濃く反映している。時代の基盤にある知の総体的な枠組み――いわゆる〈エピステーメー〉――はぼくたちをマリオネットよろしく操る見えざる指使いなのである。それでもなお、その枠内にあって頑なな意見の影に異見の光を照射することはできないものか。ぼくはそのように考えて、異種意見間の対話やディベートに一縷の望みをかけてきた。

ある意見に対する異見は「てこ」になってくれる。〈てこの原理〉とは、言うまでもないが、労力少なくして重いものを動かすことだ。残念ながら、てこの役を引き受けてくれる人はおいそれとはいない。しかし、心配無用、個人的な意地も時代の偏見をも動かしてくれる貴重なてこがある。それは時代を遡って出合う古典の知だ。古典は、ぼくたちを縛りつけている意地や偏見を持ち上げて、「一見でかくて重そうに見えるが、張り子の虎さ」と言わんばかりにお手本を示してくれる。お手本はぼくたちの知を整えてくれる。

但し、無条件的・無批判的に古典に迎合するのも考えものだ。時には、己のてこでずっしりと重くのしかかる古典のほうを揺り動かしてみるべきだろう。意見に対する異見、その異見に対する別の異見、そのまた異見……必ずしもジンテーゼを目指す必要はなく、テーゼとアンチテーゼを繰り返すだけでも偏見をある程度封じ込めることができるのである。

本探しのおもしろさ

この本を読もう!   と決意することはめったにない。そのように狙い定めるのは一年に十数冊程度で、その種の本はだいたいすでに買っていて手元に置いている。これから買いに行く時は書名がわかっているから、大型書店では書名検索で端末を操作する。著者名で検索するのは、その著者の一冊を読んで気に入り、別の著作を探す場合に限られる。その場合でも、すでに読んだ本の著者プロフィールにたいてい代表作が載っているから、おおむね書名検索できることになる。

何年か前から古典を中心に読書しようと意識している。ここで言う古典とは「新刊ではない」と「トレンディーではない」という、ざくっと二つの条件を満たすものである。新刊でトレンディーなものをまったく読まないわけではないが、全読書の一割にも満たない程度だ。最近では『追悼「広告」の時代』と先日取り上げた『日本人へ リーダー篇』のみ(いずれも本年5月発行)。「最新何とか事情」や「〇〇の常識とウソ」のような内容は、もし強い関心があればインターネットを利用するし、たいていは新聞のコラムや記事で済ましている。

大きな書店に行く主な理由は、若い頃に読んだが、すでに処分してしまったのを買って再読するためである。ついでに、読みそびれていた作品も少々(古典と称しているが、思想や文化や歴史が中心で、文学の類はさほど多くない)。それ以外に用はないので、ほとんど立ち読みはしないが、昨日も書いたように、丸々読む気はないが、少しチェックしたい本の目ぼしい箇所のみ、ほんの2、3分ほど目を通す。なお、大書店にはテーブルと椅子まで用意して座り読みまで推奨している所があるが、そこまでするくらいならさっさと買ってしまう。


古書店では立ち読みする。これは当然のことで、そもそも古本を売る店で立ち読みしない買い方などありえない。つい先日も、電子書籍ばかりになってしまったらこの立ち読みというのが消えてしまうのか、などと思っていた。古書店の最大の愉しみは当てもなく本を探すことである。まったく興味外れのジャンルの本であっても、一冊200円などの「情報価値の高そうな本」に出合えば立ち読みすることになる。買うのはせいぜい500円くらいの本までで、平均すると300円程度の本を買い求める。

最近では『偽書百選』という本が300円だった。垣芝折多という、ペンネームであることが明らかな著者である。巻末の解題に松山巖という人物が書いている。「垣芝折多は本書を書き上げ、ゲラを直した後、一週間も経たぬうちに急逝した。いともあっけない死であった。本書の文中にも、これを一度きりの仕事とすると断わる言葉が見えるし、私にも同じようなことを話していたから、それなりに心中期するものがあったのかもしれない。私は垣芝の幼なじみである。……」

断わっておくと、垣芝と松山は同一人物で存命中である。この本で紹介されている書物は、拭座愉吉著『掃除のすゝめ』(明治七年)に始まり、春日トキ著『吾輩は妻である』(明治四十一年)、Q・リマッキー他著『スシ大スキ』(大正四年)、新宅建造著『住まいの未来』(昭和二十二年)などが続き、最後の第百書が本田要著『本を読まずに済ます法』になっている。すべての書物に3ページほどの書評もしくは解説文がついている。

『偽書百選』は二十年ほど前に週刊文春で連載されたものを収録したものだ。実は、ここに所収の百冊の本は書名にあるように「偽書」で、どれ一冊も現実に存在していない。すべて垣芝、すなわち松山の創作なのである。第四十六書の南海海雅著『第拾感主義藝術論』や第八十書の宇狩紋太著『失敗の学習』などは今すぐにでも手にとってみたいと思う魅力的な書名である。現実に存在する真書とそうでない偽書を画する一線は、手に入るか入らないかという違いのみ。ある意味で「偽書も書なり」なのかもしれない。何はともあれ、新しい文庫でも手に入る同書の初版の単行本が300円で読めるのがいい。この本ならネットでも買えるではないかと言われるかもしれないが、ぼくは試し履きもせずに靴を注文するような本の買い方になじめないのである。

師走の候、古典に入(い)る

幸か不幸か、師走になると出張がめっきり減る。地元での講演や研修も12月は少ない。と言うわけで、オフィスにいる時間が長くなる。「幸か不幸か」と書いたものの、決して「幸」とは言いがたい状況かもしれない。唯一の慰めは、多忙期に備えて知のインプットができるという点だろうか。

「知のインプット」などと洒落こんだ言い方をしてみたが、何のことはない、日頃腰をすえて読めない本や資料に目を通すだけの話である。今年は古典を読み直している。源氏物語ブームであるが、古典イコール文学ではない。一昔前の思想ものや歴史・文化だって古典になりうる。わざわざ本を買いにはいかない。かつて一度読んだものをなぞったり、買ったけれども未だ読破できていない書物に挑んだりしているところだ。

加速する情報化時代、昭和までの著作は古典という範疇に入れてもいいかもしれない。では、なぜ古典なのか? 実は、11月に高松で数年ぶりに再会したY氏の古典への回帰の話に大いに刺激を受けた。退職されて数年、六十歳も半ばを過ぎた今、ビジネスや時事関連の本をすべて処分し、書斎をそっくり読みたい書物に置き換えたとおっしゃる。食事をしながら、シェークスピアや小林秀雄を高い精度で熱弁される。大いに感心し、啓発された。

仕事柄、時々の話題や最新の動向にはある程度目配りせねばならない。でなければ、時代に取り残される。しかし、新作ものばかりでは焦点が定まらない。新刊を休みなく追い求めるのは、煽られて次から次へと新しいサプリメントを求める心理に似ている。これに対して、一時代を画した古典は大きくぶれない。価値の評価は上下したとしても、生き残っている古典は継承されてきたのであり、継承されたということはいつの時代も選ばれるに値したのである。サプリメントとは違って、こちらは身体によいおふくろの手料理みたいなものだ。


1219日は今年最後の私塾の日である。以上のような環境にいるぼくなので、私塾スペシャルの今回、心底古典講座にしたかった。それは、しかし、5月の約束を破ることになる。すでに「マーケティング」でテーマは決まっているのだ。

「失われた十年」からの数年間でマーケティング理論は激変した。激変のみならず、諸説入り混じり、何をお手本にすればいいのかわからない状況だ。こうなった最大の要因はインターネットである。「売買」という概念は牛を呼び売りした三千年前から変わったわけではないが、メディアの多様化とともに売買関係や売買心理は新しい領域にぼくたちを誘った。

すでに決まっているテーマとぼくの関心事が相容れないわけではない。一計を案じるまでもなく、マーケティングと古典を単純につなげばいいのである。題して“Marketing Insight Classic”。敢えて日本語のタイトルにしない。理由は、“Classic”には古典という意味以外に、「最高、一流、重要、模範、決定版」などのニュアンスがあるからだ。

サブタイトルはわざと長ったらしく「マーケティングの分野に足跡を残した古典的思想に知と理を再発見して今に甦らせる」とした。何と切れ味のない文章なんだ! と自己批評はしたが、ぼくが今まで「幅広く勉強してネタを仕込み、じっくりコトコト煮込み濃縮してきたエキス」だし、そんな名前のスープもあるくらいだから、これでいこうと決断した次第。