よい仕事、価値のあるサービス

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『時刻表からの自由』というブログを書き、その中で、窓外に景色が見えるバスの便利さと魅力に触れた。そして、こう続けたのである。

「日本の大都市では、地下鉄のダイヤを分刻みにした代償として、バスが都会でも1時間に12本というルートが増えた。残念なことである。時刻表などいらないから、せめて1時間に34本、同じ路線をぐるぐると走らせればよろしい」。 

その一文を書いてから二年が過ぎた。そして、ついに大阪市バスの路線の一つ「天満橋⇔なんば」が41日から廃止されることになった。この路線のバス停の一つから徒歩30秒という地の利のいい所にぼくは住んでいる。ふだん45キロメートルは平気で歩くから、このバスを利用するのは月に一度か二度。いや、ぼくのことはどうでもいい。たまに乗ると、ガラガラの時もあるが、地下鉄の階段に不自由しそうなお年寄りが少なからず乗車してくることもある。もちろん、1時間1本のバスで乗車率23割なら明らかに採算の取れない路線だろうし、バスの運転手に高給を払い続けることもできないことはわかる。 市民の税金で運営しているのだから、公営事業と言えども採算度外視できないという論理を理解しないでもない。

だが、金の問題を思考の限界にするのはどうか。地下鉄と路線が重複し、しかも赤字だからという理由で人気のないバス路線を廃止するのは想像への踏み込み不足と言わざるをえない。世界の名立たる観光都市では、そんな重複を承知の上で運行するバス路線はいくらでもあるのだ。冒頭でも書いたように、バスからは光景が見える。人通りが見える。店舗や広場や建造物が見える。生きている街の息遣いが聞こえてくる。発着地点を最短距離で結ぶだけが能じゃない。移動には過程がある。ベン・スイートランドの「成功は旅である、目的ではない」に学べば、目的達成よりも重い意味が旅程にあることを再認識できるはずだ。


観光客にとっては、行き当たりばったりの乗り降りという楽しみがバスにはある。一日乗車券を手にしていれば、人で賑わう広場を見つけては降り、観光名所から外れた散歩道を遊歩し、再び別のバス停から乗車できる。廃止が決まったぼくの利用している路線にしても、少しルートを変更すれば、賑やかな大阪ミナミでのショッピング、大阪城の見学、大川や堂島川ほとりの散策、黒門市場の食べ歩きなどを組み合わせることができる。それでも、乗客で混み合うことなどないかもしれない。しかし、そこが公共交通の担い手のイマジネーションとコミットメントの発揮しどころなのではないか。
CS・ルイスが「よい仕事」について語っている。
「金儲けだけを唯一の前提にする仕事などはよい仕事ではなく、たとえ買い手や利用者が少なくてもやり遂げようとする仕事こそがよい仕事だ」。
犯罪や火災の件数が激減しても警察や消防はスタンバイする。乗降客が減っても交通手段を確保するのが価値のあるサービスなのである。利用者がいなければ、サービスの提供者は衣食住に事欠くだろう。しかし、だからこそ、市民に税金という対価を払ってもらって行政が運営する値打ちがあるのだ。わざわざ高齢者や弱者支援という小難しい話を持ち出さなくてもいい。採算のほうにではなく生活や文化に目配りする、懐の深い街づくりこそが最優先されてしかるべきなのある。ムダはもっと他にもいくらでもある。

時刻表からの自由

あらかじめ時刻を決めることによって、ぼくたちはどれだけ助かっていることか。予定通りに日々の仕事がはかどるし約束も守れる。

特急や飛行機が定刻から1時間も2時間も遅れるようでは困る。いや、もっと困るのは、予定の時刻よりも早く出発されることだ。これでは間に合いようがない。

しかし、敢えて限定的に異論を唱えてみたい。日常的な小さな時刻の決まりごとにはもっと鷹揚であってもいいではないか。いや、1時間に5分から15分の頻度で発着するような公共交通機関に時刻表などいらないのではないか。時間は重要である。しかし、時間を細かく刻んだ「時刻」はスローライフを遠ざけ、心の平安を奪いかねない。


いつぞや「カフェと舗道と地下鉄メトロがパリ名物」という話を書いた。パリのメトロはとても便利である。なにしろ、数百メートルに一駅あって、網の目のように走り、慣れてしまえば乗り継ぎがとても簡単だからだ。駅のホームはパターン化されておらず、タイルもデザインもすべて違う。これまた慣れてしまえば、駅名の表示を見なくても、ここが何駅だと言い当てられるようになる。

パリのメトロに時刻表はない。「あと何分で電車が来る」という表示は出る。それで十分である。さらに、バスにも時刻表がない。バス停でも「あと何分で到着」という表示が出る。ぼくの経験ではよく待っても最長10分前後である。実を言うと、ぼくは国内外を問わず、バスが気に入っている。地下鉄以上にである。なぜなら、バスなら街の光景が見えるからだ。観光客はバスに乗るほうがいい。

日本では、地下鉄のダイヤを分刻みにした代償として、バスの運行が都会でも1時間に12本というルートが増えた。残念なことである。時刻表などいらないから、せめて15分に1本ほど同じ路線をぐるぐると走らせればよろしい。

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パリのメトロの入口。
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バスの始発の停留所。

地下鉄線に沿って

「へぇ、こんなものがあるのか」と驚いた。

大阪市外に住んだ時期も二十数年ほどあったが、ほんの数年間を除けばつねに大阪市内で働いていた。仕事は転々としたが、いつも市内の職場に通っていた。今は職住ともに大阪市中央区。自宅と職場は徒歩15分足らずなので、勤務に地下鉄は使っていない。数年前までは地下鉄に必ず乗っていたし、ライフスタイルは車を持たない主義なので、どこかへ行くとなれば最寄の地下鉄駅が起点になる。近くを谷町線、堺筋線、鶴見緑地線という三つの地下鉄が走り、自宅から徒歩5分圏内にそれぞれの路線の駅がある。

地下鉄をよく利用してきたし詳しいつもりでいた。だが、初めてそれを見て少し驚いた。「それ」とは、大阪市交通局が発行する『ノッテ オリテ』9月号。漫才師のような雑誌名だ。隔月刊のフリーマガジンらしいが、こんなものがあるとはまったく知らなかったのである。手にした9月号では「大阪旅 坂の町をゆく」と題した特集を編んでいて、上町、七坂、天王寺の風景が紹介されている。しょっちゅう散歩しているなじみの街並みだ。

大阪城から南方面に広がる一帯が高台の上町台地。山あり谷ありは大げさだとしても、起伏があるので坂の多い光景を呈している。天満橋てんまばしにあるぼくのオフィスのすぐそばを谷町筋が通り、大川の手前、土佐堀通とさぼりどおりの南側の傾斜が大阪の由来になった坂と言われている(大阪はかつて大坂、つまり「大きな坂」だった)。上町から見れば谷町たにまちは「谷」だから、狭い街中にあって高低感をよく表わす地名になっている。

さて、交通局が発行するその雑誌。巻頭に若手作家の万城目学まきめまなぶが『谷町線おもいで語り』と題してエッセイを書いている。谷町九丁目に住んでいた話、天満橋の小学校へ地下鉄で通っていた話、谷町線特有の紫のラインカラーの話などを懐かしく綴っている。次のくだりを読んで、思わずにんまりとしてしまった。

「(……)これまで数えきれぬほどの難解な漢字の組み合わせを見聞きしてきたであろうに、『いちばん難しい漢字四文字の組み合わせを答えよ』と問いかけられたなら、反射的に『喜連瓜破』の四文字が浮かぶ(……)」


ありきたりの文章だ。この文章に対して思わずにんまりしているのではない。「きれうりわり」と読ませる四文字の響きがたまらないのである。ここには何とも言えない、また知らない人には説明のしようのないおかしみがこもっている。喜連瓜破は、おそらく商売繁盛と並ぶほどの、大阪色たっぷりな四字熟語なのである。ちなみに、喜連瓜破は地下鉄谷町線の駅名の一つ。そして、この谷町線は、珍しいほど路線をくねらせて走っている。

谷町線を南から北へと辿ってみよう。八尾南やおみなみ長原ながはら出戸でとへと上がり、喜連瓜破きれうりわりで西へと向きを変え、平野ひらの駒川中野こまがわなかの(この近くに大学生頃まで住んでいた)、田辺たなべふみさと阿倍野あべの天王寺てんのうじへと達する。ここで再び北へと進路をとり、四天王寺前夕陽ヶ丘してんのうじまえゆうひがおか、谷町九丁目、谷町六丁目、谷町四丁目とくどい駅名が続き、天満橋へ。ここからまた西へ向き、南森町みなみもりまちを経て、息つく暇もなく、東梅田ひがしうめだ中崎町なかざきちょうと北上。天神橋筋てんじんばしすじ六丁目(日本最長で有名な商店街の最北地点)からは東へと走り、都島みやこじま野江内代のえうちんだい関目高殿せきめたかどの千林大宮せんばやしおおみや太子橋今市たいしばしいまいち守口もりぐち、そして終点の大日だいにちへと到る。実に四文字の駅名が五つもある。


喜連瓜破の他にも、生粋の大阪人が「おかしみのツボ」に嵌まる地名がある。さしずめ放出はなてん杭全くまた天下茶屋てんがちゃやはトップブランドだろう。「どうしておかしいのですか?」と他府県びとに聞かれても困る。おそらく語感と場所柄のイメージが複雑に絡み合ってそうなったはず。とにかく、これらの地名が脳内に響いただけで鼻から漏れそうな笑いの息をこらえたり実際に笑ってしまったりする人たちが少なからずいる。なお、今日の夕方、ぼくはさっき紹介した関目高殿で講演をおこなうが、一つ手前の駅の野江内代がちょっとやばい空気を醸し出しているのに気づいた。要注意だ。要注意とは、地下鉄の電車内で一人にんまりとすることへの警鐘という意味である。

救いがたいほどの”センス”

先週の土曜日である。出張のため朝8時半頃最寄駅から地下鉄に乗った。マスク着用の乗客がちらほら見えるが、土曜日のせいか車内は空いている。ここ三年間職住接近生活をしているので、出張以外はあまり地下鉄に乗る機会はない。たまに乗れば混んでいるので車内の広告にまで目が届かない。その日はゆったり座って車内吊りポスターをじっくり品定めすることができた。

いったいどうしたんだ、大阪市交通局! 思わず内心そう叫び呆れ返った。シイタケとリンゴを擬人化したイラストが描かれた「座席の譲り合いマナー」を促すポスター。そこにはこんな見出しが書かれてあった。

互いに譲って うれシイタケ!
「どうぞ」の笑顔で すっきリンゴ!

これではまるで「おぼっちゃまくん」ではないか。「そんなバナナ」や「おはヨーグルト」を思い出した。いや、こんな言い方はおぼっちゃまくんには失礼だ。おぼっちゃまくんにはダジャレという売りのコンセプトがあった。譲り合いマナーになぜシイタケとリンゴなのか。必然性が見えないから、単なる思いつきのダジャレなのに違いない。一方がキノコで他方が果物というミスマッチも相当にひどい。

正確に言えば、こういう類いのことば遊びはダジャレとは少し違う。技としてはダジャレよりもうんと簡単で、一文字だけ合わせたら一丁上がりだ。これがオーケーなら、「うれシーラカンス」でもいいし「すっきリスザル」でもいい。要するに、「シ」と「リ」で始まる単語なら何だって成立してしまう。


シイタケとリンゴが大阪市の名産品なら理由もわかる。地下鉄のどこかの駅でシイタケとリンゴの物産展があるのなら、短期の季節キャンペーンだろうとうなずける。だが、そんな深慮遠謀はまったく感じられない。誰がどのような経緯でシイタケとリンゴという案に辿り着いたのか。ぼくの思いもよらぬ狙いがあったのならぜひ聞かせてもらいたいものである。

ポスターでここまで救いがたいほどのセンスを暴露しながら、車掌は「インフルエンザ予防のためにマナーとしてマスクを」と生真面目に車内放送していた。トーンが合っていない。そのポスターを見ながらマイク放送を聞いて、同一の発信源とはとても思えなかった。まあ、こんなことはどうでもいい。何よりも、財政難の折、一人前の大人にマナーを促すようなPR活動にお金を投じるのは即刻やめるべきだろう。