本探しのおもしろさ

この本を読もう!   と決意することはめったにない。そのように狙い定めるのは一年に十数冊程度で、その種の本はだいたいすでに買っていて手元に置いている。これから買いに行く時は書名がわかっているから、大型書店では書名検索で端末を操作する。著者名で検索するのは、その著者の一冊を読んで気に入り、別の著作を探す場合に限られる。その場合でも、すでに読んだ本の著者プロフィールにたいてい代表作が載っているから、おおむね書名検索できることになる。

何年か前から古典を中心に読書しようと意識している。ここで言う古典とは「新刊ではない」と「トレンディーではない」という、ざくっと二つの条件を満たすものである。新刊でトレンディーなものをまったく読まないわけではないが、全読書の一割にも満たない程度だ。最近では『追悼「広告」の時代』と先日取り上げた『日本人へ リーダー篇』のみ(いずれも本年5月発行)。「最新何とか事情」や「〇〇の常識とウソ」のような内容は、もし強い関心があればインターネットを利用するし、たいていは新聞のコラムや記事で済ましている。

大きな書店に行く主な理由は、若い頃に読んだが、すでに処分してしまったのを買って再読するためである。ついでに、読みそびれていた作品も少々(古典と称しているが、思想や文化や歴史が中心で、文学の類はさほど多くない)。それ以外に用はないので、ほとんど立ち読みはしないが、昨日も書いたように、丸々読む気はないが、少しチェックしたい本の目ぼしい箇所のみ、ほんの2、3分ほど目を通す。なお、大書店にはテーブルと椅子まで用意して座り読みまで推奨している所があるが、そこまでするくらいならさっさと買ってしまう。


古書店では立ち読みする。これは当然のことで、そもそも古本を売る店で立ち読みしない買い方などありえない。つい先日も、電子書籍ばかりになってしまったらこの立ち読みというのが消えてしまうのか、などと思っていた。古書店の最大の愉しみは当てもなく本を探すことである。まったく興味外れのジャンルの本であっても、一冊200円などの「情報価値の高そうな本」に出合えば立ち読みすることになる。買うのはせいぜい500円くらいの本までで、平均すると300円程度の本を買い求める。

最近では『偽書百選』という本が300円だった。垣芝折多という、ペンネームであることが明らかな著者である。巻末の解題に松山巖という人物が書いている。「垣芝折多は本書を書き上げ、ゲラを直した後、一週間も経たぬうちに急逝した。いともあっけない死であった。本書の文中にも、これを一度きりの仕事とすると断わる言葉が見えるし、私にも同じようなことを話していたから、それなりに心中期するものがあったのかもしれない。私は垣芝の幼なじみである。……」

断わっておくと、垣芝と松山は同一人物で存命中である。この本で紹介されている書物は、拭座愉吉著『掃除のすゝめ』(明治七年)に始まり、春日トキ著『吾輩は妻である』(明治四十一年)、Q・リマッキー他著『スシ大スキ』(大正四年)、新宅建造著『住まいの未来』(昭和二十二年)などが続き、最後の第百書が本田要著『本を読まずに済ます法』になっている。すべての書物に3ページほどの書評もしくは解説文がついている。

『偽書百選』は二十年ほど前に週刊文春で連載されたものを収録したものだ。実は、ここに所収の百冊の本は書名にあるように「偽書」で、どれ一冊も現実に存在していない。すべて垣芝、すなわち松山の創作なのである。第四十六書の南海海雅著『第拾感主義藝術論』や第八十書の宇狩紋太著『失敗の学習』などは今すぐにでも手にとってみたいと思う魅力的な書名である。現実に存在する真書とそうでない偽書を画する一線は、手に入るか入らないかという違いのみ。ある意味で「偽書も書なり」なのかもしれない。何はともあれ、新しい文庫でも手に入る同書の初版の単行本が300円で読めるのがいい。この本ならネットでも買えるではないかと言われるかもしれないが、ぼくは試し履きもせずに靴を注文するような本の買い方になじめないのである。

効率的な仕事――検索を巡って

「思い立ったが吉日」にひとまず凱歌があがった昨日のブログ。そこで話を終えるなら、ぼくは見境のないスピード重視派ということになり、さらには大づかみにさっさと仕事の全貌を見届けては結論を下し、ベルトコンベア上を流れる商品のようにアイデアを扱う作業人、あるいは知の錬金術師、あるいは発想の一発屋、あるいは多種多様なテーマのダイソーなどと皮肉られてしまうだろう。

少しは分別も備えているつもりだ、「思い立ったが吉日」が人生全般の万能訓であるなどと信じてはいない。昨日のブログでは、限られた時間における作業や仕事の成否の見極め方について触れたつもりであり、その限りにおいては早々に着手して何がしかの変化や結果を探るのがいいと主張したのである。つまり、ぼく以上に中長期的なテーマの実験を行なっている研究者にしてからが「思い立ったが吉日」を肝に銘じるくらいだから、日々の作業なり仕事なりにそのつど小刻みな期限が設けられている身であれば、効率を念頭に置くのは当然の成り行きなのである。

そこで、話を検索に置き換えてみたい。考えても考えてもひらめかない、しかも時間が切迫しているとき、ぼくたちはどん詰まりの状況を脱しようとして突破口を外部に求める。ヒント探しのための検索がこれだ。もちろんアタマの中を検索すればいいのだが、それが考えるということにほかならないから、ひらめかないのは自前の記憶の中にヒントを探せないということに等しい。外部データベースの検索は避けて通れないのである。

言うまでもなく、外部データベースは情報技術によって天文学的な広がりを見せている。したがって、期限との闘いが前提となっているかぎり、ぼくたちは検索上手にならなければならない。いかに効率よく迅速に明るみの方角を見つけて袋小路から抜け出すかに工夫を凝らさねばならないのだ。ネットサーフィンなどという悠長なことをしている場合ではない。インターネットを知恵の補助ないし有力情報源としている人たちにとっては、検索技術の巧拙は作業や仕事の成否に直結するのである。


ぼくのやり方は至極簡単だ。考えることに悶々とし始めたら、まずはキーワードのみメモ書きしておいて手元の辞書検索から入る。なぜなら、思考の行き詰まりは大部分が言語回路の閉塞とつながっているからである。続いて、自分がこれまで記録してきた雑多なノートを無作為に捲ってスキャニングし、文字側からの手招きに応じてそのページを読む。場合によっては、書棚の前に行って、関係ありそうな既読の本を手に取る。ここまではまったく検索とは似て非なる動作だ。それどころか、期限意識とは無縁な遠回りに映るだろう。しかし、やがてぼくも、ほんのわずかな時間だが、ねらいを絞って便利なインターネットを覗く。これだけが唯一検索らしい検索になっている。

ぼくの流儀なのでマネは危険である。ぼくの場合、検索にあたっては、つねに非効率から入り最後に効率に向かう。思考時間より多くの時間を調査や検索に使わない。おそらく電子ブックが読書の主流になっても、ぼくは積極的に用いることはなく、相も変わらずに紙で製本され装丁された本を読むはずである。効率が悪いことは百も承知だ。デジタルならキーワードや絞り込みなどの条件を設定して検索すれば、千冊分のデータの中に即刻「ありか」を見つけることができるだろう。しかし、ぼくは千冊の実物の本から記憶に頼って探すほうを選ぶ。

「仕事は効率」と言いながら、ちっとも効率的ではないかと指摘されるかもしれない。しかし、自力で考え、次いで非効率的に調べ、最後に短時間検索するというこの方法が、期限内に仕事を収めるうえでもっとも効率がよいのである。探し物がすぐに見つかることにあまり情熱を感じない性分であり、しかも、すぐに検索できた情報があまり役立たないことをぼくは経験的に熟知している。思考と検索を分離してはいけない。正確に言うと、外部データベースの検索時に脳内検索を絡ませねばならない。だから、一発検索の便利に甘えていたらアタマは決して働かないのである。ぼくにとって非効率的な検索は思考の延長であり、そのプロセスの愉しみがなければ、仕事などまったく無機的なものに化してしまうだろう。 

「その他ファイル」の功罪

PC上ではファイルという概念をうまく利用しているつもりである。しかし、実際のペーパーをファイリングすることはめったにない。実際、いろんなファイルを買って工夫してやってみたこともあるが、しばらくすると元の木阿弥。すべて無分類状態に戻ってしまう。周囲には資料をきちんとファイルに分けている人がいる。几帳面さに敬意を表するものの、そんなことをしていったいどうなるものかと思ったりもする。

結論から言うと、ぼくは「なまくらファイリング」が一番いいと考えるようになった。至近な活用目的のためには暫定的なファイリングが便利であり、長い目で知を創造的に生かそうとするならばファイリングなど四角四面にすべきではない――これが「なまくらファイリング」。説明をしてみると何ということはない。いずれにしても、整理するだけで二度とお目にかからない資料ならファイリングは不要である。ファイリングをするのは、将来使うことを前提にしているからだ。その使うときのために検索しやすくするのがファイルの目的だろう。

一冊の本を例にとればよくわかる。五年ほど前に読んだ本だが、再読しようと思ってすぐそばの本棚に置いてある。『「心」はあるのか』という書名だ。この書名を「ファイル名」としよう。このファイルには「サブファイル」がある。目次だ。大きく三つあり、人は「心」をどう論じてきたか、「心」を解く鍵、「心」の問題を解き明かす――これらがサブファイル名になっている。

ところが、これらのサブファイルの中を渉猟すると、書名からは見当もつかない「ドキュメント」が出てくるのである。たとえば、言葉はなぜ通じるのか、言語ゲームとは何か、愛と性を考える、言葉と論理、美の感動と言葉……。これは、再読しようとした本だから、ある程度中身がわかっている。しかし、通常、ファイルには大きな概念のタイトルがついている。そのファイル名の下にどんなサブファイルを置きどんなドキュメントを含めるかは大変な作業だ。つまり、検索するのも大変なのである。


ファイルがある。きちんとカテゴリーの名称がついている。その名称に近いか、その名称に関連する属性になりそうな情報を振り分ける。どのファイルにも属さない情報をどうしているか。その情報に見合った新しいファイルを作ることもあるだろう。一つのファイルに一つの情報という状態もありうる。これがムダなのは自明なので、とりあえず「その他ボックス」に放り込むことが多くなる。住所不定の情報や、気にはなるが持て余し気味の情報はすべて、この無分類を特徴とする「その他」に入る。

時折り「その他ボックス」を開けてみると、これらの情報が、つかみどころがないものの、おもしろいエピソードとして力を貸してくれることがある。無分別、未加工、無所属、雑多と呼ばれる「その他」に身を潜めた情報、恐るべしである。ところが、「その他」をこんなふうに上手に使いこなしている人にはめったに出会わない。相当な怠け者でも情報に関しては分別心が働くようなのだ。

情報の数だけファイルを作ったら情報を分けた意味がない。だからファイルの数は必ず情報の数よりも少ない。少ないというどころか、何十何百という情報が一ファイルの傘下に分類される。しかし、「その他」を有効に活用しようとすれば、いつも頭の中に情報のディレクトリーマップを広げておかねばならないのだ。そう、見た目に無分類で「その他」扱いされている情報群をよりどりみどりで活用するには、情報のありかを記憶しておく必要がある。

情報なんか忘れろ、頭を使えという説が有力すぎて困るのだが、PCであれ図書であれ自前のファイルであれ、見覚えのある情報をもう一度探し出すにはとてつもないエネルギーを要する。どうでもいい情報はすぐに探せるのだが、真に求める情報ほど見つかりにくい。ファイリングに長所と短所があるように、ファイリングしない「その他」にも長短がある。ボーダーレス情報を使いこなすには、それらの戸籍を頭で覚えておかねばならないのだである。

検索上手とコジツケ脳

XXXについて調べる」とはどういうことか。たとえば、そのXXXが「ホルモン鍋」だとしたら、「ホルモン鍋について調べる」とはいったいホルモン鍋の何を調べるのかということになってくる。「調査」がリサーチ(research)で、「一般的に広く」という感じがする。これに対して、ホルモン鍋の「レシピ」「旨い店」「由来」などの「検索」がサーチ(search)。リサーチもサーチも何かを探しているのだが、サーチライトということばがあるように、検索のほうが「狙いを絞って具体的に照らし出す」という意味合いが強い。

自分の脳以外の外部データベースに情報を求める場合、有閑族は調べようとし、多忙族は検索しようとする。しかし、多忙族の「速やかに」という思惑とは裏腹に、検索の絞り込みが曖昧だと、知らず知らずのうちに大海原での釣り人と化し、まるで暇人のように時間を費やしてしまうことになる。検索のコツは分母を大きくしないことである。それは欲張らないことを意味する。絞った狙いの中に見つからないものは存在しないと見なすくらいの厚かましさが必要である。

あきらめて、自分で考え始めたら(つまり、自分のアタマを検索し始めたら)、な~んだ、こんなところで見つかったということが大いにありうる。だから、ぼくはいつもくどいほど言うのである――検索は自分のアタマから始めるのが正しい、と。次いで身近にいる他人のアタマを拝借し、その次に手の届く範囲にある本や新聞や百科事典や辞書を繰る。それでダメならインターネットである。この順番がいつもいつも効率的なわけではないが、脳を錆びさせたくなかったらこの手順を守るべきだ。


自分の脳を検索する。それは仕入れた(記憶した)情報を再利用することであり、同時に、あれこれと記憶領域をまさぐっているうちに創造思考をも誘発してくれるという、まさに一石二鳥の効果をもたらす。例を示そう。「もてる男の3条件を見つけよ」。

インターネットから「もてる男」に入っていくと、検索が調査になることに気づく。検索分母が途方もなく大きすぎて、3つの条件に絞れる気などまったくしない。仮に絞れていけたとしても、どうせいろんな人間がああでもないこうでもないと主張しているので、まとまることはありえない。
だから自分のアタマを検索する。ぼくなら3つの条件を、たとえば「お」から始まることばにしてしまう。五十音から探すのではなく、一音からだけ探す。そう、無茶苦茶強引なのである。なぜなら検索というのは急ぎなのだから。すると、「おもしろい」「お金がある」「思いやりがある」「男前」「お利口」などが浮かんでくる。さらにもう一工夫絞り込んで3つにしてしまう。

もっとすごいコジツケがある。「リーダーシップを5つのアクションに分けよ」。これなど「リーダーシップのさしすせそ」と決めてしまうのだ。「察する(気持を)、仕切る(段取りを)、進める(計画を)、攻める(課題を)、注ぐ(意識を)」で一丁上がり。あとでじっくり検討すればよい。考えてみれば、調味料の「さしすせそ」だって強引ではないか。「砂糖、塩、酢、醤油、味噌」だが、塩と醤油が同じ「し」なので醤油のほうを「せうゆ」とは苦しい。味噌も「み」なのに「そ」に当てている。これなど絶対にコジツケで「さしすせそ」にしたに違いない。調味料にみりんが入っていないのも不満である。


語呂がいい愛称や略語の類はほぼ以上のような手順で編み出されていると思って間違いない。何カ条の教えや法則も同様である。官民を問わず、大阪人が何かをネーミングするときは、何とかして「まいど」や「~まっせ」を使ってやろうとする。「人工衛星まいど1号」はその最たるものだが、他にも類例はいくつもある。