対話と雑談

「根っからの」と言えるかどうかはわからないが、ぼくが対話好きなことは確かである。口論は好まないが人格尊重を前提とした激論なら歓迎する。ぼくは議論を対立や衝突の形態と見ていない。ゆえに、ジャブのように軽やかに意見を交わすようにしているし、必要とあればハードパンチを打ち合うこともある。このようなぼくの対話スタイルは少数派に属する。そのことをわきまえているつもりだから、対話に慣れない人たちが議論などおもしろくないと思うことに理解を示す。

だが、一人であれこれ考えるより少し面倒でも対話をしてみるほうが手っ取り早い。他者と意見交換してみれば容易にテーマの本質に迫ることができるのだ。一人熟考するよりも、あるいは読書を通じて何事かを突き詰めていくよりもうんと効果的だと思うのである。トレンドが起こるとアンチトレンドが煽られるように、ある立場の意見は対立する別の「異見」によって照らし出される。意見対立を通じて見えてくる知の展望に比べれば、反論される不快さなどたかが知れている。挑発的な質問や当意即妙の切り返しの妙味は尽きないのである。

たしかサルトルだったと思うが、「ことばとは装填されたピストルだ」と言った。拳銃のような物騒な飛び道具になぞらえるのはいささか極端だが、対話や議論のことばには弾丸のような攻撃的破壊力がある。猛獣のように牙を剥くことさえある。たいていの人はことばの棘や牙に弱く、免疫を持たない。たった一言批判されようものなら顔を曇らせる。しかし、少々の苦痛を凌ぐことができれば、対話は有力な知的鍛錬の機会になりうる。論争よりも黙殺や無視のほうが毒性が強いことを知っておくべきだろう。口を閉ざすという行為は、ある意味で残酷であり、論破よりも非情な仕打ちになることがある。


何事にも功罪あるように、対話が息苦しさを招くのも否めない。かつて好敵手だった同年代の連中の論争スタミナも切れてきて、議論好きのぼくの面倒を見てくれる者がうんと減った。また、若い連中は遠慮もあってか、検証が穏やかであり、なかなか反駁にまで到らない。この分だと、これからの人生、一人二役でぼやかねばならないのか。だが、幸いなことに、対話同様にぼくはとりとめのない雑談も愛しているから、小さな機会を見つけては興じるようにしている。対話には屹然きつぜんとした線の緊張があるが、雑談には衝突や対立をやわらげる緩衝がある。雑談ならいくらでも「茶飲み友だち」はいる。

雑談の良さは、ロジカルシンキングの精神に逆らう「脱線、寄り道、飛躍」にある。「ところで」や「話は変わるが」や「それはそうと」などを中継点にして、縦横無尽に進路を変更できる。雑談に肩肘張ったテーマはなく、用語の定義はなく、意見を裏付ける理由もない。何を言ってもその理由などなくてもよい。対話と違って、雑談の主役はエピソードなのである。「おもしろい話があるんだ」とか「こんな話知ってる?」などの情報が飛び交ったり途切れたり唐突に発せられたりする。

対話は知的刺激に富むから疲れる。かと言って、対照的に雑談が気晴らしというわけでもない。なるほど「今から雑談しよう」と開会宣言するようでは雑談ではない。また、「ねぇ、何について雑談する?」などと議題設定するのも滑稽だ。原則として雑談に対話のルールを持ち込むのはご法度なのである。けれども、雑談をただの時間潰しにしてしまってはもったいないので、ぼくは一つだけ効能を期待している。脳のリフレッシュ。ただそれだけである。

意地を動かす「てこの原理」

法句経ほっくきょう』は、釈迦の真理のことばとして有名な原始仏典である。その中に次のような一節がある。

まことに、みずから悪をなしてみずから傷つき、みずから悪をなさずしてみずからきよらかである。浄と不浄とはおのれみずからに属し、誰も他人を浄めることはできない。

鈴木大拙師はこの一節に言及して次のように語る。

この詩はあまりにも個人主義的すぎるかもしれない。だが、結局は、人は喉が渇いた時には、みずからの手でコップを傾けなければならない。天国、もしくは地獄では、誰も自分の代理をつとめてくれる者はいないではないか。

ぼくには天国も地獄も想像はつかないが、現世においてもこの謂いは何一つ変わらないと考える。常套句を用いれば、「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」ということだ。たとえば、あなたに誰かが手を差し伸べたとしよう。その手をつかむか無視するかは、あなた次第である。つかまなくても、辛抱強い人ならしばらく手を差し伸べ続けてくれるだろうが、そんな奇特な人はめったにいない。やがて手を引っ込めてあなたのもとを去っていくだろう。

正道と邪道があるとき、「こちらが正道ですよ」と誠意を込めて念押ししても、意固地なまでに邪道に足を踏み出してしまう人たちがいる。冷静な慧眼を少し働かせるだけで邪道であることが明らかになるにもかかわらず、これまでの生活様式や価値観が強く自分を支配しているから、意地はめったなことでは崩れない。意地はいつも偏見の温床になる。意地を「我」と言い換えてもいい。


放置しておくと、偏見は増殖し続け重厚長大化する。強い偏見の持ち主は、親しい人が差し伸べるコップの水に見向きもしない「偏飲家」なのだ。彼らは周囲の好意を拒絶して、ますます邪道へとひた走る。排他的な一つの意地ほど具合の悪いものはないのである。どうすれば、こんな愚に目覚めることができるだろうか。おそらく、己の意見とその対極にある異見・・の間の往復運動によってのみ、ぼくたちは偏見を揺さぶることができるように思う。

しかし、どんなにあがいても、「時代が共有する偏見」から完全に逃れることはできそうもない。そもそもぼくたちが今を生きるうえで身につけてきた知は時代を色濃く反映している。時代の基盤にある知の総体的な枠組み――いわゆる〈エピステーメー〉――はぼくたちをマリオネットよろしく操る見えざる指使いなのである。それでもなお、その枠内にあって頑なな意見の影に異見の光を照射することはできないものか。ぼくはそのように考えて、異種意見間の対話やディベートに一縷の望みをかけてきた。

ある意見に対する異見は「てこ」になってくれる。〈てこの原理〉とは、言うまでもないが、労力少なくして重いものを動かすことだ。残念ながら、てこの役を引き受けてくれる人はおいそれとはいない。しかし、心配無用、個人的な意地も時代の偏見をも動かしてくれる貴重なてこがある。それは時代を遡って出合う古典の知だ。古典は、ぼくたちを縛りつけている意地や偏見を持ち上げて、「一見でかくて重そうに見えるが、張り子の虎さ」と言わんばかりにお手本を示してくれる。お手本はぼくたちの知を整えてくれる。

但し、無条件的・無批判的に古典に迎合するのも考えものだ。時には、己のてこでずっしりと重くのしかかる古典のほうを揺り動かしてみるべきだろう。意見に対する異見、その異見に対する別の異見、そのまた異見……必ずしもジンテーゼを目指す必要はなく、テーゼとアンチテーゼを繰り返すだけでも偏見をある程度封じ込めることができるのである。