季節も考えも移ろう

よく観察もせずに「季節が移ろう」などと感覚だけでつぶやく。季節が変わろうとしてなかなか変わり切らず、寒さが戻ったと思うと再び温かくなる。これを数回繰り返すこの時期は、毎日毎日が微妙に移ろう。対象を接写的に見ればそのことに気づく。日々流されて生活していると気づかないが、しばし立ち止まることがなかなかできない。

日曜日に園芸店で旭山桜(別名、一才桜)の小さな鉢植えを買い、昨日オフィスに持ってきた。今朝つぼみが赤らんでいた。4月中旬から5月中旬が咲き頃と聞いたが、園芸店では早く咲かないようにたぶん温度調整している。オフィスは園芸店よりも陽射しがよくて暖かいから、早めに開花モードに入ったのかもしれない。


移ろうのは季節ばかりではない。この2年、コロナとウクライナという、人生史上の大きな環境変化に飲み込まれて、これまで確固としていたはずの考えが変わっていたり思いが容易に揺らいだりしていることに気づく。

たとえば「やればできる!」 この励ましは、人を励ますどころか失望させる、けしけらん言い方だと思ってきた。結果としてできなかったら、「きみ、やっていなかったからだよ」と助言者は逃げることができる……欺瞞だ、幻想だ、無責任なひどいことばなどとこきおろしてきた。ところが、この考えが変わったのである。「やってもできないかもしれないが、やっている間は少なくとも怠け者にならずに済むのではないか」と今は思っている。意識的に凡事のルーチンを毎朝しているうちに、ぼくも少しは勤勉になった気がする。そして今、「やればできる!」と言いそうになっている。

「もうちょっとの辛抱だから」という慰めも無責任だと思っていた。「もうちょっと」がいつまでのどの程度の辛抱かよくわからないじゃないか、全然慰めになっていないぞと文句を言った。そうは言うものの、それ以外に選択肢が見当たらない時があることに最近気づくようになった。小さなことをマメに続けることが「もうちょっとの辛抱」なのかもしれない。明日になったらどうする? 「ほんの少しもうちょっとの辛抱」をすればいい。毎日そう自分に言い聞かせることが、あながち空しいことだと思わなくなった。

自分の考えや思いが移ろいつつあることに気づき、そのことを受け入れるようになる時、発想のこわばりとこだわりがほぐされて、ほんの少しだけものがよく見えるような気がする。

脳が感じる季節の移ろい

3月中旬が過ぎ下旬に入ってもまだ肌寒い時間帯がある。家を出る時にちょっと寒いなあと感じるくらいが散歩にはちょうどよく、速足で56分歩いているうちに温かくなる。気持ちがいいので、上着を脱いでベンチに腰掛ける。しばらくすると体感温度が下がり始め上着を着直す。こういう動作を繰り返すようになると〈季節時計〉が春の始まりを告げる。

「気温に合わせて着るものを調節しましょう」と気象予報士が言う。しかし、百葉箱の温度計が示す数値とは別の、脳が独自に感応するカレンダーがある。平年よりも暖かいと告げられたサラリーマンが、2月下旬にカッターシャツ一枚で通勤するのはやっぱり異様に見える。何かが変だと感覚が騒ぎ、めまいが起こりそうになる。

気温に合わせてそのつど物理的に衣服を調節するだけではすっきりしない。ぼくたちの脳には暦を言語で分節する季節が刷り込まれているのだ。仮に肌寒い4月の日であっても、わが街では雰囲気も気分もすでに春。冬コートにマフラー、手袋に納得しない自分がいる。気温適応を優先せずに、少々我慢してでも春装束で外出するのが自分に正直ではないか。

逆に、ゴールデンウィークが明けて少々暑くなり始め、気温が25℃を示しても、また世間がクールビズを宣言していたとしても、仕事では春スーツにネクタイがしっくりくる。環境適応だけでは四季の移ろいを感じることはできない。長年脳が記憶してきた二十四節気の顔を立ててこそ歳時記的な暮らし方が楽しめる。


ところで、大阪城の堀端の散歩道から少し逸れた先日、初めて見る光景に出くわした。近づくと碑があり「老人の森」と刻んである。行政から老人扱いされているぼくだが、この表現に季節外れに似た違和感を覚えた。何本も木は植えられている。しかし、どう見ても小さな草むら仕様なのに、なぜ森? おまけに、なぜ老人? 併せて「老人の森」。そのココロは?

「老人の森? さようですか、わたくし、自他ともに認める老人です」とつぶやいて、この森もどきの空間に立ち入ろうとする好奇心は芽生えない。老人と森という、定義不確かな二語が醸し出す不自然なネーミングも落ち着かない。どこの誰が名付けて碑まで建てたのか。碑の裏に回ってみた。社団法人大阪市老人クラブ連合会! 連合会に背筋が寒くなった。

日常と非日常の力学

公園

「おい、どけよ。そこはぼくがいつも座るベンチだ」

パスカルの『パンセ』に「これはぼくが日向ぼっこする場所だ」というくだりがある。先に座っている子に向かって後から来た子が一方的に縄張り宣言をする。パスカルは「この一言に地上のすべての簒奪さんだつの始まりと縮図がある」と言った。

簒奪とは「臣下が帝王の位を奪い取ること」。下剋上っぽい。転じて、後からのこのこやって来た者が既得権者に対して「そこはオレの場所だ!」と言って横取りすることを意味する。ヨーロッパの列国はこんなふうにして植民地を増やした。既得権のある者が領域侵犯者に告げているのではなく、侵犯者が誰の了解も得ずに堂々と所有を宣言するのである。

日常のたわいもないベンチの取り合いが、ベンチの周辺へ、公園全体へ、やがて都市や国にまで拡張していく。子どもがベンチを独り占めする日常と国家が覇権をねらう非日常はつながっている。


学校の教室

「昨日貸してあげた消しゴム、返してよ」
「嫌だ。あの消しゴムはもうぼくのだから」
「あげるなんて言ってないのに」
「貸すだけとも言わなかったぞ」

ぼくのものはぼくのもの。きみのものもぼくのもの。あげたか貸したか(もらったか借りたか)はどうでもいい。一度ぼくが手にしたものは、もうきみのものではなく、ぼくのものなのだ……理不尽だが、弱いほうの子はこの力関係に異議申し立てできなくなってしまう。


街中

半世紀前の話。
「おい、お前ら、金はあるか?」
小学生の男子三人が中学生男子にカツアゲされた。ポケットに手を突っ込まれた一人が数百円を奪われ、その間に二人が別々の方向に逃げた。逃げた一人が追われたが、何とか振り切った。

普段から仲良しの三人は半時間後に「いつもの場所」で落ち合った。いつもの場所とは、同級生の母親がやっているお好み焼き店だ。困った時、とりあえずこの「おばちゃん」の店に行く。着いた時はまだ息が上がっていた。

お好み焼き店
店に入って三人はびっくりした。カツアゲの不良中学生が奥のテーブルでお好み焼きを食べていたのだ。一瞬目が合ったが気づかれなかった。カツアゲされたほうは不良を覚えているが、カツアゲしたほうは一日に数をこなすので相手を覚えない。

三人は「おばちゃん」に目くばせして外に誘い、カツアゲの件を話した。おばちゃんの助言で、一人が店の三軒隣りに住む知り合いの「にいちゃん」の家へ。にいちゃんは中学2年生で、学年一の高身長、体育会系正義の味方。

にいちゃんが来てくれた。店に入りカツアゲ中学生に近づき、相手を立たせた。カツアゲも大きいがにいちゃんはさらに大きい。「さっきのカツアゲの金を返せ」とにいちゃんが睨む。カツアゲはおとなしく奪った金を差し出す。「それ食ったらさっさと出て行け。このあたりをうろうろするな!」とにいちゃんがカツアゲを恫喝した。

こういうケースでは、腕力の有無や身体の大小が少なからず力関係に影響を及ぼす。あるアメリカ人女性は、店や道でよその男に声を掛けられたりからまれたりしたら、とりあえず「うちの主人はあんたより大きいのよ!」と言ってみるそうだ。モンスターペアレンツ撃退策として校長室の前にボブ・サップ級のガードマンを立たせるという案もアメリカ発だ。賢さや美しさよりも動物的な力強さがものを言う。

日常生活レベルの人と人との力関係と非日常レベルの国と国との力関係に特別な差異はない。どんな状況であれ、独りで抗えない理不尽に対して「おばちゃん」や「にいちゃん」や「ボブ・サップ」以外に頼れるものはないのだろうか。

読む前に読む

「飲む前に飲む」というコマーシャルがあった。先に飲むのが二日酔い防止ドリンク、次に飲むのがアルコール。「お酒好きの皆さん、アルコールを飲む前に二日酔い防止ドリンクを飲みましょう」と促すメッセージである。

「飲む前に飲む」が言えるのなら「読む前に読む」も言えそうだ。いきなり本を読まずに、本を開けずに題名と著者名と帯の情報から内容に読みを入れる。「書かれている文字や掲載されている図や写真を理解すること(①)」が読むこと。つまり、読書である。「手掛かりになる情報から意味を察知したり内容を推測したりすること(②)」。これも読むことである。読む前に読むとは、①に先立って②をやっておくことにほかならない。


効率とスピードアップを意識した読書法には速読、併読、拾い読みなどがある。しかし、もっとも効率がいいのは、ページを繰らずに読む「不読法」だ。古本をよく買うようになって、この不読法を時々実践している。たいていの古本屋の店頭や入口付近には均一コーナーが設けられ、そこには100円~300円程度で値付けされた古本が並べられている(時には乱雑に積まれている)。丹念に漁ってみると掘出し物が見つかることがある。

低価格なので、題名と著者名を見て「よさそうだ」と直感すれば、立ち読みせずに買う。そんなふうにして十数分で5冊ほど、多い日だと10冊ほど手に入れる。仮にハズレでも値段が値段だからガッカリ感は小さい。単行本を8冊買ったのが先週。一昨日、下記の3冊をいつでも手が届くところに置いた。そして、読む前に読んでみた。

『ビフテキと茶碗蒸し 体験的日米文化比較論』 

〈読む前の読み〉この本にはいろいろな「米国的なものと日本的なもの」を対比した小文が収められているに違いない。「ビフテキと茶碗蒸し」はその代表例であり、対比のインパクトが強いゆえに題名に選ばれた。なぜそう言えるのか。ビフテキと茶碗蒸しについての比較文化を200ページ以上論うことなどできないからだ。せいぜい5ページしか書けない。飲食比較なら他に「アップルパイと味噌汁」が考えられる。おふくろの味という共通点がある。装いなら「ジーンズと袴」についても書かれているかもしれない。体験的とあるので「カウボーイとサムライ」の記述はたぶんない。

『スイスの使用説明書』 

〈読む前の読み〉スイス好きのための、スイスの文化、歴史、風土、慣習などを、おそらく観光案内的に記した本である。永世中立の一章も、たぶんある。「使用説明」に深い意味はないと思う。『もっと知りたいスイスのこと』や『スイス通になるための手ほどき』でもよかった。編集会議で誰かが「ちょっと風変わりな題名にしよう」と提案したに違いない。その誰かはたぶん前日にスイス製のアーミーナイフかフォンデュ用の鍋を買い、その使用説明書を読んだのだろう。

『じつは、わたくしこういうものです』 

〈読む前の読み〉もうかなり長い時間考えているが、何が書かれているのかほとんど見当がつかない。「わたくし」というのが何かの見立てかとも思ったが、そこから先が読めない。クラフトエヴィング商會の本は『おかしな本棚』『ないもの、あります』『すぐそこの遠い場所』など読んでいるが、すべて独自性の強い不思議で愉快な本ばかりである。したがって、本書もそういう色合いのものだと想像がつく。この「わたくし」は著者のことではないだろう。著者の知名度が必ずしも高いわけではないから、自分のことについて一冊の本で告白しても、読者は「よっ、待ってました」と小躍りして買うとは思えない。「様々なわたくし」が登場するオムニバスストーリーというのが精一杯の読みであるが、まったく自信がない。

牛乳への道と作法

先週書いた『簡単そうなのに、うまくいかない』の続編。続編なのに『牛乳への道と作法』と題名を変更したのは、牛乳の蓋や封を外す今昔の苦労話にテーマを絞ったからである。数ある本の中からたまたま劇作家の宮沢章夫のエッセイを思い出した。

宮沢章夫には『牛乳の作法』と題した著書がある。また『牛への道』というエッセイ集もある。ずいぶん前にどちらも読んだ。愉快な本である。両作品のタイトルを合体させた『牛乳への道と作法』を思いつき、今から書こうとしているエピソードにぴったりだと判断した。パクリではなく、ある種のオマージュである。


閑話休題。牛乳瓶には戦前から20数年前まで紙製の蓋が使われていた。今では牛乳瓶の蓋はポリキャップだ。なぜこうなったかと言うと、紙のキャップが「伝統的に誰にとっても開けにくかった」からである。蓋に小さなツメを付けて開けやすくした改良品も出たが、紙ゆえに牛乳がにじむとか一度開けたら保存しにくいという問題が残ったままだった。

牛乳瓶の口に寸分の隙間なくぴったりと嵌まっている紙の蓋を開けるのは一苦労だった。指先で蓋の端っこをつまめないから、小さい子らは押した。押すと蓋の半分が瓶の中に入り込み、反動で牛乳のしぶきが飛び出る。70年代、あの蓋は押すものだと思っていたと友人のアメリカ人は言った。彼には押してもダメなら引いてみよという知恵が湧かなかった。

一家にはあの蓋を取るためだけに爪を長く伸ばした婆ちゃんや母ちゃんがいたものだ。そんな時代がしばらく続いたあと、月極で配達してもらっていた家に、ある日、アイスピックの子分のような、蓋を針の先で突いて持ち上げる小道具が配られた。そう、蓋開けとか蓋外しとかピックなどと適当に呼ばれた「アレ」だ。アレは正式名称がないまま、誰にも気づかれずに姿を消した。牛乳にありつく道と作法が一気に変わったからである。

ポリキャップの牛乳瓶は残っているが、主流は紙パックになった。開ける所作が「針を刺して蓋を外す」から「接着された封を左右に引き離す」へと変わった。当初、便利になったと紙パックを歓迎した消費者がかなりいた。他方、面食らった消費者も少なくなかった。すっかりポピュラーになった今でも、ハードルの高さに困惑する消費者がいて、たとえば、あの〈開け口〉と反対側の封の違いを学習できずにいる。

彼らをわらうことができるだろうか。某乳業のホームページでは「牛乳パックの正しい開け方」を次のように指南している。

1.親指を開け口の奥まで差し込む。
2.開け口を手前にして両手で左右に十分広げる。
3.左右いっぱい屋根につく位置までしっかり押しつける。
4.親指と人差し指を両端にあてて注ぎ口が飛び出るまで徐々に手前に引く。

難解な文章である。特に、3.の「屋根」、4.の「注ぎ口が飛び出る」のイメージが湧きにくい。手順通り、文字通りに進めても無事に開け口が開けられない人が相変わらずいるのだ。同情を禁じ得ない。「牛乳パックの正しい開け方」が掲載されていること自体、紙パックを開けるのも難しいとメーカー側が確信している証拠である。

簡単そうなのに、うまくいかない

おおってあるものを外し封や蓋を開けて中のものを取り出す。毎日とは言わないが、このように手先を使う場面は少なくない。外して開けて取り出すという一連の動きがスムーズに流れれば気分がいい。逆に、少しでも滞って所作がぎこちなくなるとイライラする。手先は器用なほうだと思うが、些事で時々不器用を演じてしまうことがある。


乾電池が4個または2個、フィルムでパックして売られている。単3電池の4個パックは両手で持って2個ずつ分離するように真ん中で折れば、フィルムが簡単に破れる。ところが、一回り小さい単4電池の、しかも2個パックになると、同じ要領で試みても1個ずつに分離しづらい。力が伝わりにくくフィルムがなかなか破れてくれないのだ。4電池の2個パックのフィルム破り、侮るべからず。爪を当てて切ろうとしてもうまく行かず、結局ハサミを持ち出してくることになる。

かけうどんをテイクアウトする。熱々のダシとうどんだから、オフィスに戻ると発泡スチロールの鉢にプラスチックの蓋がぴったり吸着している。蓋のツメをつまんで持ち上げても鉢もいっしょに付いてくる。不用意に力を入れ過ぎると蓋が思い切り開いて、熱いダシがこぼれ散り、「熱っ!」 年配のバイトのおばさんが手際よく蓋をしたのだから、理屈上はその逆の作業をすれば手際よく開けられるはずなのに。火傷を免れたとしても、うどんといっしょに敗北感も味わう。

古本屋で背表紙を眺め、題名がよさそうなら手に取ってみる。それが函入りの上製本だったりする。本をチェックすべく函から取り出す。たいてい函と本の間にはほどよい「遊び」があるので、背に近い溝をつかんで取り出すことができる。右手で函を持ち左手のてのひらにトントンと当てれば、たいていの本は滑り出してくる。
しかし、函の内寸と本がぴったり合っているものがある。
本が函にキレイに収まるという超絶技巧ゆえに、指先が背表紙のどこにもかからないのである。必死に取り出そうとトントンしてみてもびくともしない。見られたら怪しまれるほど、本との格闘がますます派手な動きになっていく。こんな本を買うと読む前から苦労する。そう自分に言い聞かせて元の本棚に戻す。

思いつくままに、春

 岸辺のこの・・場所のこれ・・こんな・・・色になると、もうすぐ春。経験上そうである。「どこの何がどんな色?」と詳しく聞かないでほしい。

 2020年の今頃も、2021年の今頃も同じことを考えていた、春になったら「岡野のお喋りコラム」を始めようと。これまで書いてきたコラムが急に喋り出すようなトーク番組。世間一般のこと、時事トピックス、アートのこと、街のこと、本のことなどのお喋り。2022年の今年、春になったらできるのだろうか。

 いくつかの連想がつながって、ある歌に辿り着いた。そして記憶は十数年前まで遡った。ある分野の専門家たちが所属する某協会があり、その協会の事務局長から年間セミナーの企画とコーディネートを依頼された。会員は高額の年会費を納めていた。事務局長は紳士で、みんなに「局長」と呼ばれ親しまれていた。ただ、会費に見合った還元が十分にできておらず、不満を口にする会員もいた。

ある日、会員A、B、C3人と局長とぼくの5人で食事をした。食後、ほろ酔い気分のAが「カラオケスナックはどう?」と言い出した。場所を変えるだけで、誰も歌わないだろうと思っていたら、乾杯直後に常連客のAが歌い、隣席にマイクがリレーされた。Bが歌い、ぼくも歌うことになった。残る二人はCと局長。Cは自分に回ってきたマイクを局長に手渡す。歌が苦手そうな局長が無理やり歌わされた。

局長がマイクを置いた。Cが入れた曲のタイトルが画面に出てイントロが流れ始めた。夏木マリの『お手やわらかに』である。この歌をメンバー随一のエリートCが歌うとは……。何度も聞かされているBが「Cさんは、これを替え歌でやるんです」とぼくに耳打ちした。歌詞を目で追いながらCの歌を聴く。どんな替え歌に仕上がるのか。

♪ 私の負けよ お手やわらかに
今夜は逃げないわ
悪魔のようなあなたの腕に
抱かれるつもりなの

マジメに歌うのがおかしい。笑いをこらえる。でも元歌通りで、全然替え歌じゃない。

♪ 少々くやしい気もするけど
あなたにはとうとう落された
一年も二年もふったのに
こうしてつかまった

まだ元歌通りに歌ってる。どこで変化するのか。

♪ お手やわらかに お手やわらかに

まだ変化なし。歌はもう終わる……。

♪ 泥棒よ あなたは

Cは最後の「あなたは」を「局長」に替えて、「♪ 泥棒よ 局長」と歌った。ワンフレーズを入れ替えただけなのに、「会費泥棒の局長につかまったオレたちの悔しい思い」が何となく伝わってきた。

一人になってからの帰路、不思議なおかしさの余韻がずっと残っていた。「私の負けよ、お手やわらかに……真剣に聴いたのは初めてだが、なかなかいい曲じゃないか」と思った。季節はすでに春が告げられていたが、まだ少し肌寒さが残る三月だった。

味の表し方・伝え方

料理の話をした時に「どんな味だった?」と聞かれるのが一番困る。味を思い出しながらことばを選んでいるうちに、相手が焦れて「おいしかった?」と聞き直す。おいしかったら「おいしかった」と答える。情けない返事だがしかたがない。ところが、この返事に相手が納得顔することがある。儀礼で聞いているのだから、答えなんかどうだってよかったのだ。

「おいしい」で味が伝わるか。では、もっと具体的に「塩味が効いていた」とか「甘酸っぱい」とか言えば、相手が疑似体験できるのか。味や食感を事細かに説明することはできる(実際、ソムリエのワインの説明はかなり饒舌だ)。しかし、伝わるかどうかは別問題。個々の断片情報を統合して首尾よくイメージをつかんでくれる人はめったにいない。

食事処でドラマが展開する『孤独のグルメ』では、松重豊演じる主人公の井之頭五郎が一口食べるごとに〈内言語〉でつぶやく。「ほう、こう来たか……」とか「おー、スパイスが口の中で広がっていく……」というコメントの類が、食べる表情と相まって味のニュアンスをよく伝えてくれる。「おいしい」で済ましているのが恥ずかしくなる。


「パスタは3種類からお選びいただけます」とメニューに書いてあった。「シェフのおまかせショートパスタ」を選んだ。出てくるまでどんなパスタかわからない。出てきた。食料品店で見たことはあるが名前は知らない。もちろん初実食である。どんな味でどんな口当たりか……後日これを誰かに伝えるのは簡単ではない。

こういう時、味ではなく、似たものを持ち出すのがよい。「マカロニを縦に半分に切ったショートパスタ。ソースがよくからみ、マカロニよりももちっとしてやわらかい」。マカロニを持ち出すだけで伝えやすくなる。ちなみに、「マカロニを縦に半分に切ったパスタ」と入力して検索したら、Googleもピンときたようで、「スパッカテッレ」だと教えてくれた。

類似を持ち出すのは本居宣長おすすめの表現話法である。『玉かつま』の一節を引く。

すべて物の色、形、また事の心を言ひさとすに、いかに詳しく言ひても、なほ定かにさとりがたきこと、常にあるわざなり。そは、その同じ類ひの物をあげて、その色に同じきぞ、何の形のごとくなるぞ、と言へば、言多からで、よくわかるるものなり。

「色や形や特徴をことごとく細々と説明するよりも、類似のものを挙げて色、形を見せればことば少なくしてよく伝わる」というようなことを書いている。写真で見せれば済むことが多いこの時代、対比できるものを一言添えるだけで写真以上のプラスアルファが伝わる。もちろん、類似のものを知っていることが前提。食の知もないよりはあるほうがいい。