平らに均す

天気予報に「気温は20°C前後で、この時期らしい気候になるでしょう」という表現がある。この時期らしいと言われても、これがよくわからない。過去の平均的なこの時期の気温など頭も身体も覚えていない。昨年との比較すらできない。「昨日よりも過ごしやすいでしょう」も困る。過ごしやすさは人それぞれ。「昨日より暖かくなるでしょう」なら、まあ何となく想像がつく。なにしろ、昨日の今日だから、感覚はまだ鈍っていない。

「気温は平年並みでしょう」というのもある。親切なコメントであり、迷惑だと思わないが、あまり役に立つ情報ではない。この時期と言われるのと同じく、平年の寒暖のほどがわからないからである。ぼくたちが思慮せずに平年と言うのとは違って、天気の専門家の平年にはきちんとした定義があり、データの裏付けもあるらしい。平年とは過去30年の平均だ。平年より低い、平年並み、平年より高いと三段階で表現されるとのこと。残念ながら、過去30年のことは記憶にないので、平年並みと告げられれば「そうか、平年並みか」とうなずくしかない。うなずくが、どんな体感なのかはやっぱりわからない。


今年のこの日の平年並みというデータも過去に組み入れられる。一番古いのを押し出して、新たに加わって過去30年の平年が更新され、来年に活用される。算出している専門家はよくわかっているが、告げられるほうにはピンと来ない。平年並みという表現に何となく納得するのも妙な話だ。

平らにならすのは過去の気温だけではない。学生の成績からは平均値が導かれる。平均を平準と言い換えれば、凹凸を均して差を無くすという意味になる。他にもいろいろある。よく使うのは平日。さらに、平時と言えば戦時ではなく、平事と書けば有事ではない。戦時と有事の明快さに比べたら、平時も平事も摑みどころがない。

今日という日がどんな日かを知りたいから、過去と照合して平年並みなどと表わす。自分がどんな状況なのかを気にするから、その他大勢と比較して「平均的サラリーマン像」なるものを浮き彫りにする。そして、こんな感じだよと他人に教えてもらうのだが、知ってどうなるものでもない。トーストにバターを塗って平らに均す。これも平均化作業の一つだが、その良さは実感できる。そうしないよりもおいしくいただけるからである。

たいやきとエスプレッソ

何を食べ何を飲むかという併せ技はもちろんのこと、何を食べてから何を飲むか、その逆に、何を飲んでから何を食べるかという時間差飲食も願望通りにはいかず、偶然の流れに委ねることが多い。思いと裏腹の後先になると、食べものと飲みものの味覚と印象は大いに異なってくる。出汁までたいらげたきつねうどんの後にコーヒーは飲みづらい。

あの日の昼下がり、腹八分目だったら話は変わっていたかもしれない。昼食で十分に満たされていた。いわゆる別腹デザートを受け入れる余地はなかった。それどころか、腹ごなしに歩かねばならないと思ったほど。だから歩くことにした。まったく不案内の場所ではなかったが、方向感覚は頼りない。街並みに視線を投げながら半時間ほど歩いたところで、「これはすぐれものだろう」と直感した店の前に出た。たいやきの店である。前の客がいくつか包んでもらった直後、焼き上がるまで数分待つ。

焼きたてがうまいに決まっている。半時間ほど歩いたので大丈夫だろうと思って買ったわけだが、熱々のたいやきを手にして、どうもあんこは喉を通りそうにない。買い食いを断念して、さらに半時間かけて帰路につくことにした。


真っ直ぐ帰ればいいのに、たまたま通りがかったカフェに誘惑される。以前飲んだこの店のエスプレッソが本場に引けを取らないのを知っている。ところで、エスプレッソを飲み慣れている人ならわかると思うが、ケーキやクッキーと相性のよい通常のレギュラーコーヒーとは違って、エスプレッソを飲む時は原則茶菓子は不要だ。せいぜい小さなチョコレートひとかけらである。エスプレッソのダブル、約60㎖を注文して三口ほどで飲み干す。仮に「店内でたいやきの持ち込みオーケー」と言われても無理だ。ここから自宅まで徒歩20分弱。苦味を口内に残しながら帰ってきた。

3時のおやつ」にちょうどよい頃に、日本茶を淹れ、オーブントースターでたいやきを焼き直して食べるつもりだった。しかし、エスプレッソの余韻がまだ残っていて一向にその気にならない。店の前に続いて二度目のパス。たいやきの存在を思い出したのは、その日の夜ではなく、なんと翌日の夕方になってからだった。焼き上がり直後の味を知らないが、おそらくうまさは半減していたに違いない。

飲食の組み合わせや順序はデリケートにして、かつ、大げさに言えば、深淵である。たいやきにはお茶でなければならない。実際、くだんのたいやき店の店内には、自由にどうぞとお茶を置いてあった。「エスプレッソとたいやきセット」という異端を思いつく店は現れないだろう。以前、某コーヒー会社が「和食の後のコーヒー」というスローガンを掲げたことがあるが、和食の献立次第である。鍋をつついて雑炊でしめた直後のホットコーヒーはどうなんだろう。エスプレッソも料理を選ぶ。肉料理とワインの食事だからこそ絶妙の仕上げになる。

なお、イタリアの朝のバールでは、小さなパンもつままずに、空きっ腹に砂糖たっぷりのエスプレッソを一気に注ぐのはありふれた光景だ。エスプレッソびいきのぼくもあの真似はできない。旅先では必ず小さな甘いパンをつまんでいた。しかし、パンと一緒ならエスプレッソでなく、普通のコーヒーのほうがいい。冷めたたいやき、朝のレギュラーコーヒーには合うかもしれない。あんぱん感覚で食べればいい。

軽めの断章

古いノートに走り書きした断章。軽めの茶話をいくつか紹介する。

「四方八方、東西南北からやって来るのがニュースだね。英語で北は……そう、North。東は……East。西は……West、そして南は、はい、South。頭文字を並べたら、NEWS……これがニュースの語源だよ」。

知る人ぞ知る作り話のジョークなのにえらく感心されてしまった。種明かしをしづらい雰囲気になったので、そのままにしておいた。

日本では、日本人が道に迷っても、見た目明らかに日本人でない通行人に道をたずねることはない。しかし、人種のるつぼのような街では相手を選ばずに道案内を求めてくる。

パリに滞在していた時の話。もちろん、ぼくは観光客。朝、あてもなく手ぶらでアパート近くを歩いていた。男性が近づいてきてフランス語で「郵便局はどこか?」とたずねる。よりによってこのぼくにたずねたものである。「観光客なので、このあたりのことはよく知らない。誰かに聞いてください」ととっさに反応するほどフランス語に堪能ではない。なので、郵便局がありそうな方角に見当をつけ、そっちを指差して“Voilà!”(あっち)と返した。男性は“Merci”と言ってその方向へ歩いて行った。歩き続ければ、きっとどこかで郵便局が見つかるだろう。

「仕事でマッチングできるかも」ということで、友人がA氏を紹介してくれた。アポの日、友人は都合がつかなかったので、A氏が一人でオフィスに訪ねてきた。A氏は東大卒だと友人に聞かされていた。

名刺を交換し自己紹介の流れで雑談になり、A氏が大阪出身だとわかった。知らない振りして「大学も関西ですか?」と聞いてみた。「いいえ。東京のほうです」とA氏。東京には百数十もの大学がある。とぼけて「○○大学とか……」と二流大学の名前を言ってみた。「あ、違います」。

「東京のほう……あっ、そうか、『ほう』は法律の法なんですね……東京の法、へぇ、東大法学部?」「ええ」。東京大学法学部を出ていても、なかなか胸を張って言いづらいのだなあと同情したものである。

釈迦に説法。ある日、釈迦に説法しようとした大胆な男がいた。傍にいた友人がたしなめた。釈迦が友人を遮って男に懇願した。「ぜひ説法を聞かせていただきたい」。

馬の耳に念仏。馬の手入れをしていた厩務員、「毎日、こうしていろいろと話し掛けるけど、お前の耳には一切入らないんだよなあ」とつぶやいた。馬が言った、「ぜひ念仏を唱えていただきたい」。

とうの昔に消えたはずの歌手のリサイタル広告を見た。「リサイクル」と読んだのはぼくの非ではない。

日常の周辺

物持ちがいい男がいた。仕事上の書類であれ、どこかでたまたま手にした物であれ、何でも残していた。本来、物持ちとは長く大事に使うこと。しかし、彼は使いもせずに取って置くことのほうが多かった。ある時、習慣的に物を残しておく執着心がよくないと気づいた。執着心を消そうと一念発起し、所有するものを一つずつ順に捨てていくとスペースと余裕が生まれ、ほっとしたようだった。ほっとする? ほんとうにそうだったのだろうか。何が何でも捨てるのだという頑固な決意と物が減っていく現象とは裏腹に、化け物のような残滓ざんしの幻影が見え隠れした。


これがいいあれがいいという選択肢狭まる日々に必然を見る / 岡野勝志


ぼくの散歩道に公園はある。しかし、広場がない。ヨーロッパの都市にはそこかしこに大小様々の広場があり、教会や塔が建っている。遠目にランドマーク頼りに広場に足を踏み入れることもあれば、敷石の細い舗道を曲がると忽然と広場が現れることがある。人々が三々五々集まり、そぞろ歩きして通り過ぎ、佇んで談論するような広場は、残念ながらぼくの街にはない。公園はあるが、広場のような主役の座にはない。広場は街の中心であり象徴なのだ。そこに住まうことを決意した拠り所の一つとして存在し続ける。


「この仕事は宝くじと同じで、当たるか当たらないかわからない」と誰かが言った。正しいアナロジーではない。宝くじを比喩として持ち出すのなら、こう言うべきである。「この仕事は宝くじと同じで、当たらない」。


Xには手間暇がかかる。明けても暮れても画策しなければならない。なぜこんな面倒なことをするのか。Xは人心の疲弊を招く。人生にXをしている余裕などない。単純明快に事をおこなうのに精一杯だ。X相反する二つのシナリオを求める。シナリオは一つのほうがわかりやすい。Xには、偽善、嫉妬、保身、計略、儀礼などが代入できる。


かれこれ30年近くいろいろな勉強会を主宰してきた。勉強会後の懇親会によさそうな店を見つけるのが癖になっている。わざわざ探しに行くわけではないが、近場で通りすがりにリーフレットやショップカードをもらってくる。

パーティー・歓送迎会の予約承ってマス

「マス」などと書いてある店を予約しない。店にも入らない。これは店探しのキャリアに裏付けされた直感の成せる業である。

写真からの連想

目まぐるしく過ぎたこの一週間。しかし、隙間の時間はあるものだ。ちょっとした隙間にメモしたり写真を撮ったりしている。なぜこれを書いたのか。記憶を再生できないメモはあるが、写真には記憶がくっついていることが多い。記憶がよみがえり、それだけで終わらずあれこれと連想することがある。


衝動で買って手元にあるのだから、これが何かはわかっている。わかっているが、今こうして見てもすでに知ってしまったその名前となかなか一致しない。以前誰かにもらってまだ封を開けていないヒノキのチップにそっくり。風呂に入れたら大変なことになる。これはキャラメル味のココナツである。見た目以上に美味だ。小皿にいくつか置いて「お一つどうぞ」以外に何も言わずに差し出してみよう。いったい何割の人が一粒つまんで口に放り込むだろうか。キャラメルコーンを食べるのに勇気はいらない。キャラメルココナツには、いる。


パワーポイントのクリップアート素材を漁っていたらカジュアルな読書人の写真に出合った。いや、これは読書ではなくて朗読しているのではないかと思い直す。そうだ、書評会で朗読をしてもらおうとひらめいた。不定期で主宰している書評会では一冊の本を読んでまとめることになっている。読めなかったら発表はできない。しかし、朗読ならできるだろう。本の気に入った一節、1ページだけ選んで読めばいいのだから。見開き2ページなら3分もかからない。聴く方も飽きない。たとえば森鴎外の短編『牛鍋』の歯切れのいい冒頭だけなら30秒で朗読できる。但し、噛んでばかりで流暢さを欠いては台無しである。

鍋はぐつぐつ煮える。
牛肉のくれないは男のすばしこい箸でかえされる。白くなった方が上になる。 斜に薄く切られた、ざくと云う名の葱は、白い処が段々に黄いろくなって、褐色の汁の中へ沈む。 箸のすばしこい男は、三十前後であろう。晴着らしい印半纏しるしばんてんを着ている。そば折鞄おりかばんが置いてある。 酒を飲んでは肉を反す。肉を反しては酒を飲む。


ディベートの試合の審査では「バロットシート」なるものを使う。議論の内容の要点をメモし、争点の攻防をわかりやすくフローの形で再現する。何週間も準備をして試合に臨んでいる人たちのことを思うと、安易な聞き方はできない。全身を耳にして傾聴する。話すスピードは書くスピードよりも速いのが常であるから、書き味のよい筆記具を選ぶ。

ディベート大会では数種類の万年筆と水性ボールペンを用意する。その日の調子と気分に応じてこの一本を選ぶ。これと決めれば一筆入魂である。一昨日の大会では左から二本目のブルーブラックインクのボールペンで書き込んだ。


久々に行きつけの古書店を覗いた。全集のうちの一冊『文体』が新品かつ格安だったので、なまくらにページをめくっただけでさっさと買って帰った。文体というのはすでに比喩された術語である。なにしろ「文の身体」なのだから。自分の姿勢、身体つきを知らないわけではないが、後日講演している写真を見て、奇怪な立居に驚くことがある。文体になると紙に書かれたものと自覚との間にはかなりの落差があるに違いない。自分の文体を意識したことはほとんどなく、またテーマによってスタイルが変わるのを承知しているから、自分流の文体などあるはずがないと思っている。

しかし、ぼくの拙い文章をよく読んでくれている人は、テーマに関係なく、文体があると言う。喜ぶべきかどうか悩む。他人様の文章を読んでいて、退屈するのは文体にではない。明けても暮れても同じような話にうんざりするのである。文体が織り成す文章の中身がマンネリズムに陥らないように気をつけておきたいと思う。

食卓考

食事、食事の場、食文化、共食などのことを書こうとして、ひとくくりにするぴったりのことばが思い浮かばなかったので、食卓としてみた。「食卓考」だがテーブルの話ではない。

イタリアで始まったスローフード運動の前から、仕事は早く食事はゆっくりという主義を貫いていた。男子四人集まってテーブルを囲んだら、食べるのはたいてい一番ゆっくりである。普段は饒舌、しかし食事中は案外寡黙である。好き嫌いはまったくない。ぼくをよく知る人はぼくを食事に誘うにあたって余計な気遣いをするには及ばない。出されたものは、たとえそれが見た目グロテスクな初体験の料理であっても、食べる。残さないで食べ尽くす。食材に対して傲慢になってはいけないと心している。ゆえに、好き嫌いの激しい人と食卓を囲まないわけではないが、眼前で好き嫌いを露わにする人を快く思わない。それを感知する人たちはぼくとの食卓から離れていく。来る者拒まず、去る者追わず。

食事はみんなで和気藹藹と語らいながら食べるほうがおいしいという定説がある。必ずしもそうではない。話が弾んだのはいいが、何を食べたかうろ覚え、しかもせっかくの料理の味も十分に堪能できなかったということがよくある。一緒に食べるからうまくなるのではない。一緒だから会話と場を楽しんでいるにすぎない。小雪舞い散る寒い日に、今夜はみんなで鍋を囲もうと思う。こっちがご馳走するのだから、何鍋にするか自分で決めればいいが、先に書いたように、人には好き嫌いがある。温情をほどこすつもりで聞いてみると、あれは苦手、それは嫌い、これがいいと好みが割れる。ならば別の機会にということになり、結局、捌き立ての旬の真鱈の一人鍋を食べる。鱈で腹が膨らんでたらふくになる。


ろくに喋りもしないのに打ち合わせと懇親会の好きな男がいた。得意先に打ち合わせをしようと自分から声を掛ける。その後に親睦を兼ねて接待的な場を設ける。これが狙いだ。食事にはお疲れさまの意味もあるが、彼にとってはほっと溜息をつく「逃げ場」だった。仕事から離れるので雑談が交わされるが、適当に聞き流しながら、時折り社交辞令的なうなずきと作り笑いを挟みつつ、黙々とビールを飲み箸を動かすばかり。接待などしていなかった。食事は自分を労う息抜きの場であった。

続いて腹一杯の状態で二次会へと向かう。六千円のリーズナブルな会席料理の後に、ピーナツとおかきをつまみながらカラオケ三昧。支払いが会席料理の倍額というのも稀ではない。「親が死んでもじき休み」という言い回しがある。次に何があろうと、たとえどんなに忙しかろうと、食べた後は一休みせよという教えである。この原義の他に、ご馳走の食後感という余韻に浸るという解釈を付け加えておきたい。食事前の「おいしそう」、食事中の「おいしい」、そして食後の「おいしかった」で食卓の満足が完結する。ぼくはそう考えている。

食卓の味わいは料理への集中力によって深まる。五感を研ぎ澄ますべきである。会話を交わすことを排除しない。しかし、料理の価値を減殺するようなお粗末なお喋りは集中力の邪魔になる。年に数回、十数人に囲まれる懇親会に出席する。主賓の栄誉に浴するものの、矢継ぎ早の質問に答えるばかりで、ろくに食事を楽しめない。豪華な料理の下手な共食は一人の粗食に劣ると実感する瞬間である。

ブリコラージュ雑記

文化人類学者レヴィ=ストロースは、日頃から寄せ集めてきた材料を使ってものを作ることを〈ブリコラージュ〉と呼んだ。ぼくは日頃からいろんなことを断片的に書いてまかない風に文章を綴っている。言ってみれば、ブリコラージュ雑記のようなものが元になっている。


敬虔な寡黙  寒空のもと、堀の水面にただ影を落として沈黙する城の石垣。ぼくはと言えば、すっかり疲れているにもかかわらず、語りえぬものを今もなお饒舌に語り続けていて、まだ懲りない。やむをえない。居合わせた人間がみんな敬虔な寡黙を貫けば、何も動かないだろう。威風堂々とした巨石は黙って動じないが、ちっぽけなぼくたちは喋って動くのがお似合いだ。

翻訳不能性  年末に贈られたあんぽ柿がちょうど食べ頃になってきた。調べたわけではないが、あんぽ柿は日本の特産に違いない。英語圏に存在しないものは英語に訳せない。「いや、ネットで調べたら、あんぽ柿は“partially dried Japanese persimmon”と書いてありましたよ」。きみ、いちいち「パーシャリィ ドライド ジャパニーズ パーシモン」と言うのかね。長ったらしいから、頭文字をつなげてPDJPとでも呼ぶ? 「部分的に乾燥させた日本の柿」などというのは単なる説明に過ぎないではないか。「では、どう言えばいいんですか?」 きみ、見たことのないものはどう説明しても、どんなに巧妙に訳しても伝わらないのだよ。だから、“anpo gaki”と言うだけで済む。

幸せは少しずつ  先日観た映画『皆さま、ごきげんよう』はシュールなコメディで、ぼく好みだった。パンフレットに「幸せは少しずつ」とあり、これに異議はない。続く文章が「寒い冬の後に花咲く春がやって来るように、明日は今日よりも良いことが待っている」。皆さまの明日がそうなることを願ってやまないが、現実を直視してみよう。そんな都合のよい展開ばかりではない。

『欲望の資本主義』  BSのこの番組は出色の内容だった。とりわけ経済の諸現象をコンパクトにあぶり出す表現に大いに関心した。たとえば「現代は成長を得るために安定を売り払ってしまった」……「見えざる手などない。ないものは見えない」……。拙い詩を書いてみた。

それは明るいのか
それは暗いのか
それは見えるのか
それは見えないのか
それは過去なのか
いや、近くに忍び寄る未来

午前1150  電池の切れている腕時計があるのを思い出し、電池交換しようと引き出しを開けた。とある土曜日、時刻は午前1150分。取り出した時計、きっかり1150分を指していた。「おや、修理したのだったか……」。記憶が危うくなっているのではと少々不安になる。秒針は動いていないが、この時計は秒針を止める省エネ機能付き。なので、分針の動きを1分間じっと見つめた。左手首の腕時計と交互に見比べ、やはり電池切れだと確認できた。記憶に間違いがなかったことに安堵して出掛けたが、電池交換するのを忘れた。引き出しの中から机の上に場所を変え、その時計は今も長期休暇続行中である。

タクシードライバー

昨日、あまりなじみのない場所に所用で行くことになった。スマートフォンでチェックすると駅から1.2キロメートル。タクシーを拾おうかと思ったが、行き先を間違う恐れはないし急ぐ必要もなかったから、歩くことにした。約15分。途中「タキシーメーター」と書かれた、年季の入った看板が目に入る。タキシードみたいに見えて可笑しかったが、誤字ではない。かつてタキシーメーターという表記が標準とされた時代があったのだ。

ぼくは車を所有したことがない。それどころか、運転免許証がない。だから、車を運転しない。徒歩か自転車か公共交通機関で移動する。これらの手段で賄えない場合はタクシーを利用する。タクシーにはよく乗るほうだと思う。タクシーに乗れば、タクシードライバーと狭い空間でしばらく時間を過ごすことになる。ドライバーは初対面の客に背中を向けている。よく考えてみると、異様な構図だ。いくら経験を積んだ人でも緊張感を免れないだろう。

対人関係の仕事は大変である。その最たる職業がタクシードライバーではないか。マニュアルではいかんともしがたい融通性が求められる。あの狭い空間で、水先案内、会話、金銭授受、安全配慮など一人何役もこなさねばならない。乗車から降車までのサービスに合格点を出せるケースがほとんどだが、それで当り前だと思っているからめったに感謝感激することはない。むしろ、気分を害した経験ばかりが悪い印象となって残る。善良なるタクシードライバーには気の毒な話だが……。


タクシードライバーと言えば、ロバート・デ・ニーロ主演の同名の映画を連想する。腐敗した街を、すさんだ心の人を浄化しようと行動する男の話。デ・ニーロ扮するドライバーは無口だった。喋り過ぎも困るが、無口はもっと困る。初対面の二人だけの狭小空間の数秒は恐ろしく長い。お喋りか無口かというのは変えづらい性格であるが、そのつどの相手によっても変わる。話題によっては無口がよく喋り、お喋りが黙ることになる。先日、関西有数の観光地でタクシーに乗った。「どうです、観光客は増えていますか?」と尋ねたら、「さぁ~」とドライバー(福原愛か!?) 客に仕事のことを聞かれて「さぁ~」はない。よろしい、そう応じるのなら、目的地に着くまで話し掛けないぞと決め、ずっと黙り通した。ドライバーのほうが沈黙空間の苦痛を味わったはずである。

十数年前の話。大阪の中心街Aでタクシーに乗った。ドライバーは40歳前後。当時住んでいた郊外のCを告げた。声が消え入りそうな生返事。走り始めて間もなく、「Cかぁ……Cねぇ……」とドライバーが独り言でつぶやく。しばらくして、また同じようにつぶやく。そうか、C方面への客を歓迎していないのだと察知する。こんなドライバーとあと半時間以上走るのはまっぴらだ。「Cに行っても帰りの客はないだろうし、行きたくないのなら、ちょっと先のBで降ろしてもらってもいい」と言った。瞬時に喜色満面になり、「そうなんですよ、Cは帰りがねぇ……」とドライバー。人生初のタクシー乗り継ぎとなった。

「ありがとう」も「すみません」もないので、リベンジだけして降りることにした。千円札を二枚渡し、釣銭を受け取る時にわざと取り損ねるという企み。数枚の硬貨が手のひらから落ちた。間髪を入れず、「おい、気を付けろ!」と威喝気味に叱責した。おとなしい客だと見てなめていたのだろうが、かなり怯えた様子がうかがえた。ドライバー、恐る恐る「すみませんでした」と言った。

降車したBのタクシー乗場へ移動して並ぶ。次は初老のドライバーだった。今しがたの一部始終を話したら呆れ果てていた。お客にも同業者にも迷惑をかける存在だと嘆いていた。ところで、その夜、めったにないことが起こった。タクシーに向かって手を挙げる人の姿が目に入ったのだ。「運転手さん、ほら、お客さんですよ」と言い、自宅マンションの手前だったが、そこで降ろしてもらった。客捨てるドライバーあり、客拾うドライバーあり。

時間の自浄作用

何ヵ月か前に故障していたフランス製の掛け時計が偶然動き出し、機嫌よく動いていたが、数日前から時の刻みが遅れ出した。現在37分の遅れである。何に対して遅れているのかと言えば、「正規の時間」に対してである。しかし、この時計、遅れていることを気にしているようには見えない。堂々とした遅れぶりである。

今日は月曜日。自宅にいて養生している。先週水曜日の出張明けに喉の痛みがあり、大事に到らないようにと在宅で仕事をすることにした。翌日の木曜日、オフィスで仕事をして早々に帰宅した。金曜日に休み、土曜日と日曜日を挟んで今日である。大した症状でもないのに、これほど自宅で時間を過ごすのは何年ぶりだろうか。仕事は職場のほうがはかどる。しかし、在宅ワークには、疲れたら横になれるという長所がある。

ふだんとは違う時間がある。「時間が流れる」という表現があるが、時間に目盛りなど付いていない。時計は時間の流れを感知できない人間の発明品である。数日間独りの時間に向き合うと、時間感覚の変化を体験する。時計による時間経過の確認ではなく、たとえば窓外の明から暗への移り変わりに時間を認識する。そして、「ああ、あっという間に時間が過ぎた」などとも思わず、また、ろくに仕事ができなかった数日間への悔悛の念もなく、時間が時間そのものを自浄していることに気づく。常日頃正規品の時間に生きている者が自分の時間に救われるかのようだ。


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先日古本屋で買った『時の本』をめくってみた。文章1に対して写真やコラージュが2という、絵本のような構成である。中身は絵本とはほど遠く、小難しい理屈が綴られる。「過去はもう去ってしまった。未来はまだ来ていない。この今は短すぎる。時間はいったい何を残してくれるのだろう」というアリストテレスの言がいきなり出てくるという具合。今日は理屈を読み解くほどの熱意がないから、写真やコラージュばかり眺め、時折り各章の冒頭の数行だけ読む。シティローストしたインドモンスーンの濃厚なコーヒーを淹れてみた。

語り続けるには情熱がいる。しかし、独りの時間にあっては語ることはない。自覚したことはないが、たぶん独り言をつぶやいたりしていないだろう。語ることに比べれば、書くための情熱は小量でよい。その代わり、集中力を高めなければならない。集中力は時間を忘れさせるだろうか。いや、逆に時間を意識することになる。意識した時間は整い始める。ちょうど姿勢を意識すると背筋がピンと伸びるように。時間が整った気がする時点で、書いていた文章が終わりかける。コーヒーと時間には強い関係がありそうだ。

アリストテレス風に言えば、書いていた時間はもう去ったし、この先の時間がどうなるのかは分からない。しかし、アリストテレスと違って、この今の時間を短いとは思わなかった。ましてや、今過ぎた時間がいったい何を残してくれるのだろうかなどと問いもしない。ただ、一つの自浄作用が完了したことを実感している。コーヒーカップが空になり、文章が打ち止めとなる。

ひげの話

ひげを漢字に変換すると、髭、髯、鬚の三つが出てくる。どれを使ってもよいのだろうと思っていたが、念のために調べた辞書には、髭は口ひげに、髯は頬ひげに、鬚はあごひげに使うと書いてある。よく似たことばがあるのは、それぞれに他とは違う意味や用途があるということだ。ともあれ、いずれも難字だから書くのは面倒、しかも読んでもらえなければ意味がないので、「ひげ」か「ヒゲ」としておくのがよさそうだ。

昨年暮れまで一緒に仕事をしていたスタッフはひげが濃く、休みの日に二日剃らずに放置しておくと、髭・髯・鬚が生え揃って顔の80パーセントが青黒くなると言っていた。彼からすればぼくなどは薄いのだろうが、一週間ほどあればひげをたくわえることはできる。二十代前半に約2年間、三十代から四十代にまたいで34年間生やしていた。現在の「第三世代」はかれこれ78年になるだろうか。

このご時世でもひげがご法度の職業やコミュニティがある。幸い、ひげが理由で仕事を拒絶されたことはない。仕事の依頼があったものの、しばらくして断りがあったケースは何度かある。もしかすると、ひげのせいだったかもしれないが、知る由はない。古今東西、ざくっと言えば、ひげは「威信の象徴」だった。ヨーロッパに「ひげがすべてならヤギでも牧師」という諺がある。そうそう、「ひげは哲学者をつくらない」というのもあった。人は見かけによらない。ひげを生やしているからと言って偉くなんかないぞと言うことだろう。言われなくてもわかっている。手持ちぶさたな時になにげなく文具をいじったりするように、所在なさそうな顔になにげなく印をつけているようなものだ。


もう四半世紀も前の話。久々に会った学生時代の友人がひげをアラブ系の男のように立派にたくわえていた。彼は大手電機メーカーに勤めていて、数年間のサウジアラビア駐在から帰国したばかりだった。今の事情は知らないが、当時は中近東に駐在する日本人は国内での直前研修の間にひげを伸ばし、ひげをたくわえてから現地に赴任した。友人のように数日もあれば体裁が整う人はいい。しかし、欧米人やインド人、アラブ人に比べれば日本男子のひげは薄いから、生やしたくても生えない悩みの駐在員もいたに違いない。

ひげを生やして何が変化するのか。いろいろあるのだろうが、あまり気にならない。ただ一つ、大きな変化に気づいている。それはひげの剃り方である。ひげを満面生やしていても、頭髪と同じように手入れしなければならない。口ひげとあごひげだけの顔にも細やかな手入れが必要なのである。生えぎわに沿ってカミソリをあて、生やしているひげ以外の部分を毎朝剃らねばならない。生やしていない時にはカミソリとシェービングクリームを適当に買って使っていた。しかし、生やすようになると、きわを剃るトリマー付きのカミソリが変わった。そして、クリームも変わった。どう変わったか。高級なものになったのである。

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ひげを生やしていなければ、極端な話、花王石鹸でもいい。今使っているのは写真のシェービングクリーム。英国製だ。なんと2,000円もする。ピーナツ一粒分を指で取り、手のひらの上で水でなじませて伸ばしてやると細かな泡になる。きわがきれいに剃れるばかりでなく、剃り心地がとてもいいのである。毎朝、ていねいに56分かける。そのわずかな時間はリフレッシュのひと時だ。至福の時間などと言うと大げさかもしれないが、一日の始まりに欠かせないルーティーンになっている。そうだ、ひげを生やしているのは、威信のためなどではなく、このプライムタイムのためなのだ。