「山のあなた」と「海のあなたの」

語学への関心が高まった十代半ばから半世紀近く経った今に至るまで、時々ふと思い出して上田敏の訳詩集『海潮音』を本棚から取り出す。上田敏が英語、ドイツ語、フランス語に堪能であったことはよく知られている。しかし、詩を訳すには外国語に堪能である以外に別の才がいる。

原詩の心象や情景を汲み、まったく異言語である日本語でリズムと語感を響かせ、文字数も合わせねばならない。筆舌に尽くしがたい才である。上田敏の訳は一頭抜きんでていて他を寄せ付けない。名立たる欧米の詩人の原詩をはるかに凌いでいる。詩集であれ小説であれ、文学作品の翻訳が原作に優ることは稀だ。

海潮音 初版復刻版

最近古本屋で『海潮音』の復刻版を見つけた。三百円の値札を見て躊躇なく手に入れた。ウェブの青空文庫なら無償なので、興味のある方は通読して気に入った詩を味わったり口ずさんだりしてみればどうだろう。


原詩を知る人はめったにいないが、ドイツの詩人カール・ブッセの訳詩なら誰もが一度は見たか聞いたかしているはず。

  山のあなた

山のあなたの空遠く
(さいはひ)」住むと人のいふ。
(ああ)、われひとゝ()めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
(さいはひ)」住むと人のいふ。

『海潮音』には、南仏の詩人テオドル・オオバネルの一編も収められている。

  海のあなたの

海のあなたの遙けき国へ
いつも夢路の波枕、
波の枕のなくなくぞ、
こがれ憧れわたるかな、
海のあなたの遙けき国へ。

まるで「山のあなた」と対になっているような一編である。もちろん二つの詩が山と海を主題にして対詩を成しているわけではない。一方がドイツの詩人、他方がフランスの詩人。詩作の時代も場所も違う。しかし、上田敏の訳によって、二つの主題が響き合っているかのように鑑賞できるから不思議である。

分析的知性

edgar allan poe

小難しいことを書く気はまったくないが、引用する文章の書き手が曲者だ。エドガー・アラン・ポー、その人である。

推理作家の江戸川乱歩えどがわらんぽの名を聞いたこともない人が、エドガー・アラン・ポーの名をもじったことを知るはずもない。乱歩はポーを敬愛していた。あやかって名前を拝借したのである。

ポーの作品を二十歳前後に読んだが、たぶんあまりよくわかっていなかった。その証拠に78年後に別の文庫全集を買って再読している。『モルグ街の殺人事件』という題名で読んだ小説は、二度目には『モルグ街の殺人』に変わっていた。新しい翻訳に興味が湧いたので、最近光文社文庫版を買い求めた。


『モルグ街の殺人』の冒頭は、いきなり分析的知性の分析から始まる。その例としてチェスやホイスト(ブリッジのようなカードゲーム)の話が数ページほど続いた後に、次のくだりが出てくる。

(……)分析家の技量が発揮されるのは、法則を越えた領域だ。そういう達人はいつのまにか大量の観察と推論をこなしている。いや、分析家でなくても観察や推論はするだろうが、どこが違うかというと、推論の当否というよりは観察の質によって、得られる情報量に差がついている。ここで必要なのは、何を観察の対象にするか知ることだ。限定するわれはない。またゲームという目的のためには、ゲーム以外の論拠も活用すればよい。

興味深い一節である。分析においては観察と推論がものを言う……しかし、観察の質が重要だ……そのためには観察対象を知らねばならない……。さらに、自分の思考に縛られない……当面のテーマ以外にも目を向ける……。

この十数年後に、ぼくは企画研修という仕事を請け負うことになるのだが、研修用に編著したテキストの第1章は今もなお「観察と推論」である。この小説からそこへ直行したのではないが、大きな影響を受けたのは間違いない。あれこれといろんなスキルアップの学習に手を染めることなどない。他の動物同様、人も環境適応しなければならない。環境適応にあたってもっとも重要なのが現象の観察であり、その観察のやり方が選択・活用できる情報を決定する。推論の当たり外れを心配する前に、機会あるごとに、様々なものをよく観察すればいい。観察が推論の蓋然性を高める。そして、分析力・判断力の拠り所を与えてくれるのである。

時々音読のすすめ

声に出して読みたい日本語ブームが起こってから10年以上になる。話題を呼び本もいろいろとよく売れた。黙読がすっかり読書の主流になった時代に、本を読みながら語感を磨くという一つの選択肢を提起した。しかし、今では熱もすっかり醒めたようである。

単純な絵や記号を文字に進化させてきた古代文明。文字は何事かを記録するために発明された。だが、記録用に発明されっ放しではなく、必然伝えられ読まれるようになった。近代になっても識字できる人々は圧倒的に少数であったが、彼らが読む時は声に出していた。つまり、古来、読書とは音読することだったのである。

黙読の習慣が定着したのはかなり最近のことだ。諸説いろいろあるが、表音文字であるアルファベットの国々では19世紀まで音読が普通だったという説もある。図書館の普及もあって黙読が音読を逆転するのだが、私的な場面では相変わらず音読派が多かった。昭和30年代でも声に出して本を読む大人が少なからず周囲にいたのを覚えている。

幼少の頃に漢文の素読を徹底的にやらされたと勝海舟は『氷川清話』で書いている。子どもに意味などわかるはずもないが、誰かが読み上げる漢文や漢詩の音を真似し、あるいは、文章を読めるようになると、それを繰り返し只管音読しかんおんどくする。こんなことをしてどうなるものかと納得していなかったかもしれない。だが、こうして習慣形成された響きとリズムが言語力の基底になった。退屈な音読トレーニングが成人してから生きてくるのである。


春望高校時代、杜甫の『春望』を音読して暗記暗誦したことがある。原文を見ずにそらんじるようになると、大人気分になり、また少々賢くなったと錯覚したものである。たとえ錯覚でもいいではないか。ほんの少しことばの自信が芽生えれば儲けものなのだから。だいたい習い事はすべて、真似をしているうちにできるようになったと錯覚し、しばらくして頭を打つが、それでも諦めずに続ける……という繰り返しによって上達していくものだろう。

朱子のことばに「読書三到」がある。本を読むに際しての三つの心得を説く。読書とは、まず声に出して読む(口到こうとう)、次いでよく目を開いて見る(眼到がんとう)、そして、心を集中する(心到しんとう)。この三到によって熟読するのが肝要だと教える。

話すことにマメでない人がいる。話そうと思えば清水の舞台から飛び降りる覚悟のいる人がいる。時々音読するのがよいと助言するのだが、三日坊主で終わる。声に出すというのは口だけの作業ではなく、全身体的行為だからきついのである。腹筋や腕立て伏せを決意しても続かないのと同じ。続く人が少ないからこそ値打ちがあるとも言える。外国語の学習に音読が効果的であることに疑う余地はない。日本語は母語だから勝手に身につくなどという誤った考えを捨てよう。同じ効果は日本語でもてきめんだ。口の重い人はせいぜい音読に励むべきである。

さあどこから始めよう?

ロダンの言葉で忘れられない一文がある。

「私は毎日この空を見ていると思っていた。だが、ある日、はじめてそれを見たのだった。」

ぼくたちは毎日見聞きしているものをちゃんと見聞きしているとはかぎらない。そのことに気づかされるのは、ある日突然これまでと違った次元の見聞きが起こるからである。

フランスの聖堂

今日の夕方、ロダンの古色蒼然とした一冊を古書店の200円均一コーナーで見つけた。

「堂聖のスンラフ」と表紙に書かれている。昭和十八年十一月の初版発行だから右書き表題。もちろん『フランスの聖堂』である。


さあどこから始めよう? という問いを受けて文章が続く。

始めなんてものはない。到着した所からやり給へ。最初君の心をいた所に立ち停り給へ。そして勉強し給へ! 少しづつ統一がとれて来るであらう。方法は興味の増すにつれて生れて来るであらう。最初見た時は、諸君の眼は諸々の要素を解剖しようとて分離させてしまふが、それらの要素はやがて統合し、全體ぜんたいを構成するであらう。

いつも見ていたはずの空をいま初めて照見するのに通じるようだ。経験の程度に応じて、分析から統合、部分要素から全体へとシフトするのは、ほぼすべての学習において真であると思う。

色彩

「絵本から飛び出たような景色」という比喩が時々使われる。鬼の首を取ったかのように威張れる比喩とは思わない。元はと言えば、景色を絵本に閉じ込めたのだから、絵本のページを開けたら景色が飛び出してくるのは当たり前だ。

「絵はがきみたいな風景」も同様である。記録に留めようとして風景を絵はがきにしたのであって、風景が絵はがきの後を追ったのではない。「絵になる水辺」とか「水彩画に描いてみたい街角」などと表現したいところである。

対象の構図もしくは形、そして色が、絵本のようであり絵はがきのようであると言わしめているのだろう。

色彩

『色彩――色材の文化史』という本を読んでいたら、ドゥニ・ディドロのことばが紹介されていた。

「存在に形を与えるのはデッサンだ。生命を与えているのは色彩である。そこに、生命の崇高な息づかいがある。」

こういうことばに出合うと無性に絵を描きたくなる。けれども、この数年間というもの、たまに鉛筆を滑らせる程度でほとんど彩色していない。筆に向かう指先がなまくらになっている。

広告とポジショニング

原則として良書は二度読まねばならないと思う。年の功もあって、少しは本の鑑定もできるようになった。くだらない本は数ページ読めばわかる。良書は一度ではわからない。だから、読みながら良書だと判断したら、もう一度読むことを前提に、全体を通読して概要をつかむ。言わば、俯瞰的読書である。 

二度目。すでにわかっているところは飛ばし読みする。わかりにくいところ、あるいは著者と意見が対立するところ、いずれでもないが自分に欠落している部分や忘れがちなところを中心に精読する。理解するだけなら二度読めばいい。しかし、「動態知力」を身につけるためにはさらに読み込まねばならないことがある。 
OGILVY ON ADVERTISING.jpgこの“Ogilvy on Advertising”という英書はもう何十回も読んでいる。今も時々ページをめくる。もう30年以上前に書かれた本なので、陳腐化している内容も少なくないが、それはあくまでも現象的なトレンドという意味においてである。売り手が顧客にものを売るメディアとしての広告の本質的なありようについては決して色褪せているようには思えない。広告やマーケティングの本をずいぶん読んできたが、座右の銘に恥じない貴重な一冊である。

ものづくりにこだわりとプライドを持つ職人の技はわが国の特質であったし、その伝統は工業生産の時代になっても引き継がれている。「ものを作って売る」というごく当たり前の言い回しがある。かつては注文を取ってからものを作って売っていた。今は見込みでものを作り、しかる後に売ることがほとんどである(特に大企業の場合がそうだ)。そして、その見込みの内に不特定の顧客が想定される。いや、顧客を絞り込んでいるとみんな言うのだが、無意識のうちにものづくりの過程で「ものが顧客に優先」されてしまうのである。 
デビッド・オグルビーのこの本では、〈ポジショニング(positioning)〉という用語が紹介されるのはわずか二ヵ所。それでもなお、この語は広告やマーケティングのキーワードである。そして、十人十色の解釈がありうる厄介なことばである。オグルビーの定義は「その商品は誰のために何をしてくれるのか」と明快だ。作った時点では誰が特定されていなかったかもしれない。しかし、いざ売る段になれば、「誰」を絞り込まねばならない。誰次第で商品が何をしてくれるか――特徴や便益――が抽出されたり発見されたりするのである。 
広告から離れてもポジショニングは意義深い。「あなたはXに対して何ができるのか?」と問われて、そのXが人であれ組織であれ目的であれ、即座に答えることができるか。ぼくの『プロフェッショナル仕事術』という研修ではこのポジショニングの演習をおこなう。自分ができることと対象への貢献を簡潔に言い表わすことにほとんどの人が苦労する。

考えること少なき者は過つこと多し

中学を卒業するまでは手習いをしていた。好きも嫌いもなく、親に勧められるままに書道塾に通い、師範について6年間指導を受けた。しかし、実は強く魅かれていたのは絵のほうだった。受験勉強そっちのけで絵ばかり描いていた時期がある。まったくの我流だったけれど、書道で教わった筆の運びが少しは役立ったようである。

絵描きになりたいと本気で思ったこともあったが、高校生になって筆を置き、鑑賞する側に回った。やがて天才ダ・ヴィンチに憧れるのもやめた。憧れるとは「その人のようになりたい」であるから、憧れから畏敬の念にシフトしたのは我ながら賢明な判断だったと思う。

ルネサンス期に芸術家列伝を著したジョルジョ・ヴァザーリや19世紀のポール・ヴァレリーなどの高い評価もあって、レオナルド・ダ・ヴィンチは「万能の天才」として人口に膾炙した。そして、最たる天才ぶりは絵画においてこそ発揮されたとの評論が多い。空気遠近法や輪郭を描かないスフマート法などを編み出し、いずれの作品も世界遺産級の至宝だ。それでも、37歳で他界したラファエロの多作ぶりに比べれば、ダ・ヴィンチは寡作の画家と言わざるをえない。作品は20あるかないかだろう。そのうち、幸運なことに、『受胎告知』と『キリストの洗礼』(いずれもウフィツィ美術館)、『白貂を抱く貴婦人』(京都市美術館)、『モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)』(ルーブル博物館)をぼくは生で鑑賞している。


ミラノで『最後の晩餐』を見損なったことには後悔している。悔しさを紛らせるためにレオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館を訪れた。晩餐に比べたらおやつ程度だろうと覚悟していた。結果は、期待以上だった。博覧強記を裏付ける草稿や実験スケッチと記録、設計図等の足跡が所狭しと展示されていた。音楽に始まり、科学から軍事の構想まで、あるいは発明から解剖に至るまで、好奇心のまなざしを万物に向けたことが手に取るようにわかる。数々の業績のうち絵画こそダ・ヴィンチの最上の仕事という通説でいいのか……博物館に佇みながら、ぼくは別の才能に目を向け始めていた。それは、思考する力、そしてそれを可能にした言語の才である。

レオナルド・ダ・ヴィンチ.jpg岩波文庫の『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』は、今も繰り返し読む書物の一つだ。ものの考え方や処し方について、色褪せることのない普遍的な名言がおびただしく綴られている。これぞというのを選んで、怠け癖のある若い人たちに薀蓄したこともある。「ぼくの言うことなど聞いてもらえないだろうが、歴史上の天才の声に真摯に耳を傾けてはどうか」と持ち掛けるのだ。その一つが「考えること少なき者はあやまつこと多し」である。深慮遠謀してうまく行かないこともあるが、ほとんどの失敗は思考不足もしくは浅はかな考えに起因する。

いつの時代もどこの国でもそうだが、物事がうまくいかなくなると「理性に偏るな、下手な考え休むに似たり」などという声が高らかになる。人が人として成り立っている唯一とも言うべき理性と思考を、悪しきことや過ちごとの責任にしてしまうのである。そこで、ぼくは問いたい。それは理性を十全に発揮し限界まで考え抜いてこその恨み節でなければならないのではないか。浅瀬の一ヵ所で考えて引き返してくる者に思考の無力を述懐する資格はない。ここは素直にダ・ヴィンチの言葉に従いたい。願わくば、だらだらと一つ所で深掘りばかりして考えずに、複眼的に見晴らしよく考える癖をつけたいものである。

引用 vs うろ覚え

引用.jpg企画業のかたわら、三十代後半から人前で話をさせていただいてきた。「浅学菲才の身」という、心にもないへりくだりはしないが、我流の雑学しかやってこなかったから、知識の出所についてはきわめてアバウトである。しかし、そうだったからこそ、思うところを語れてきたし、二千回を超える講演や研修の機会にも恵まれて今日に到ることができた。学者の方々には申し訳ないけれど、つくづく学者にならなくてよかったと思っている。

学者にあってぼくにないものは専門性である。深掘りが苦手だ。その欠点を補うために異種のジャンルを繋げることに意を注いできた。これには、新しい問題の新しい解決を目指す企画という仕事を志してきた影響が少なからずあっただろう。何よりも、奔放にいろいろなテーマに挑めてきたのは、個々の精度にとらわれず、学んだことをうろ覚えながらもアウトプットしてきたからだ。もちろん、そんなぼくでも読んだ本を極力正確にノートに引用してきたし、観察したことや見聞きした事実などは固有名詞を踏まえてメモしてきた。それでもなお、うろ覚えの知識もおびただしい。だが、確かな知からうろ覚えの知を引き算していたら、生涯書いたり話したりなどできないと腹をくくった。
学者は、参考文献の出所や出典を明らかにして、該当箇所を正しく引用することを求められる。引用間違いをしたり書き写し間違いをしたりすると困ったことになる。引用符内の文章を故意に歪めてはならず、また、故意でなくても誤って間違うとみっともないことになってしまう。どの文献だったか忘れてしまったときに「たしか」では済まされないのだ。これにひきかえ、ぼくなどは立場が気楽である。デカルトにいちゃもんをつけた哲学者ヴィーコよろしく、身勝手に「真らしきもの」をおおよそ真として語ることができる。今こうしているように、書くこともできる。

納得できない人もいるだろうが、さらに批判を覚悟の上で書こう。
「ぼくの経験」を語ることの信憑性と、「たしかこんな本に次のようなことが書いてあった」という信憑性にどれほどの違いがあるのか。学術的には精度が低くても、聞き手に伝えたいこと、教訓として知っておいてほしいことがある。まったくでたらめなフィクションではないが、経験であったりうろ覚えであったりする。それをぼくはネタにしてきた。精度を重んじるあまり、口を閉ざすにはもったいない話はいくらでもあるのだ。間違いかもしれない引用、あるいは読み間違いや聞き間違い、場合によっては勘違いかもしれない。しかし、「それらしきこと」や「見聞きして覚えていること」を話さないのは機会損失である。
 
何かの本で読んだことは間違いない。ある程度話を覚えもしている。その本は探せば書棚のどこかにあるはずだ。学者はその本を探し当てて正確に引用せねばならない。しかし、ぼくはおおよその記憶を頼りにいちはやく話し始める。
 
「理髪店に行くと、何かが変わる」という一文を読んだことがある。たしか、「まずヘアスタイルが変わり気分が変わる」ようなことが書いてあった。そして、「もしかすると、魂が変わり、ひょっとすると、髪型だけではなく顔も変わるかもしれない」というようなことが続いた。しかし、現実に変わるのは髪型と気分だけで、それ以外は変わらない。変わると思うのは妄想である……と書いてあったような気がする。理髪店は妄想の時間を提供してくれる。だから、最後にシャンプーで妄想を洗い流す……これが一文の結論だった。理髪店で発想を変えようというような話だったのである。
 
ぼくはどの本にそんな話が書いてあったのか思い出せないまま、敢えて勇み足をしたことがある。引用文はまったく正しくないだろうが、紹介しようとしたプロットがでたらめではないという確信があった。ところで、先日本棚を整理し、以前に読んだ本をペラペラとめくっていたら、薄っぺらな文庫本に付箋紙が貼ってあった。ロジェ=ポル・ドロワ著『暮らしの哲学――気楽にできる101の方法』がそれ。なんと付箋紙を貼ったページに上記の話を見つけたのである。ぴったり当たらずとも遠からず。ただ、原文は理髪店ではなく美容院だった。先に洗髪することが多い美容院ではこの話は成り立たないと考えて、ぼくは無意識のうちに理髪店に話をアレンジしていたという次第である。

ローマとラテン語のこと(下)

ローマ名言集に編まれている諺のほとんどは古代に起源をもつ。ラテン語で書かれているが、これを日本語対訳で読んでみて驚く。かつて英語で覚えた諺や格言の多くと見事に一致するのである。
 
セネカの『人生の短さについて』で紹介されている“Ars longa, vita brevis.”はヒポクラテスのことばとして有名だ。「芸術は長く、人生は短し」という意味である。英語にも同じ表現があって、“Art is longlife is short.”として知られている。「少年老い易く学成り難し」を「人は老いやすく芸術は成りがたい」と言い換えて見れば、ほぼ同じ意味になる。
 
おなじみの「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」(英語では“A sound mind in a sound body.”)は風刺詩人ユウュナーリスのことばで、こちらも元はラテン語だ。“Orandum est ut sit mens sana in corpore sano.がそれ。余談になるが、下線部のmensは精神という意味。これを類義語のanimaに変えればAnima Sana In Corpore Sanoとなり、5つの単語の頭文字をつなげば靴メーカーのASICSになる。同社の社名はここに由来している。
 

 ところで、いま紹介した二つの格言、実は長い歴史の中で曲解され意味が変わってしまった。
 
「芸術は長く、人生は短し」は、「芸術(作品)が長く歴史に名を残すのに比べて、人(アーティスト)の生は短い」と解釈されることが多い。しかし、ラテン語のarsは、芸術という意味に転じる前は「技術」だった。英語でもartには「技」という意味が根強く残っている。しかも、医学の祖であるヒポクラテスの言であることも踏まえれば、「技術(医術)を習得するには年月を要するのに、われわれの人生は短い」というのが原義に近かったことが類推できる。
 
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」のほうは、原語の前の数語を省いて引用したために意味が変わった。身体を鍛錬して健康になるほうが精神の健全さに先立つかのように都合よく解釈されされるようになったのである。肉体派が「ほら見てみろ」と薄ら笑いを浮かべて、精神派や知性派を小馬鹿にしているかのようだ。元はと言えば、「願わくば」という話である。思い切り意訳するならば、「欲望に振り回されるくらいなら、せめて身体の健康を願いなさい。きみたちはおバカさんなんだから、つつましく『元気な身体にこましな知恵が生まれること』をよしとしなさい」ということになるだろう。
 
ローマの格闘競技場コロッセオの博物館に碑文が展示されている。この碑文の言語は現代言語と大いに異なっている。現代のアルファベット26文字に対して、当時は21文字しかなかった。また、子音と子音の間に“V”の文字が頻繁に出てくる。これは“U”に近い発音なのだが、古ラテン語のアルファベットには“U”の文字がなかったのである。この伝統を意識的に守っているのが、例のBVLGARIだ。

ローマとラテン語のこと(上)

ローマに関する本.jpgのサムネール画像のサムネール画像〈ローマのパッセジャータ〉というシリーズでフェースブックに写真と小文を投稿している。ローマにはこれまで4回足を運んでいるが、最後の訪問からまもなく5年半。その時はアパートに一週間滞在して街をくまなく歩き、当てもなく同じ道を何度も行ったり来たりした。イタリア語ではこんなそぞろ歩きのことを「パッセジャータ(passegiata)」と呼ぶ。イタリア人にとっては夕暮れ時の日々の習慣だ。

 ところで、西洋絵画に刺激されて十代の頃によく絵を描き、ついでにルネサンスや古代ローマなどイタリアの歴史や美術や言語についてなまくらに独学したことがある。いろんなことを知ったが、とりわけ「すべての道はローマに通じる」や「永遠の都ローマ」などが言い得て妙であることがよくわかった。なにしろローマという街は古代からの「直系」であり、たとえ現代を語るにしてもどこかに歴史のエピソードがからんでくる。過去を切り離しては、たぶん今のローマは成り立たないのだろう。
 

 ローマに関する本を雑多に拾い読みすると、必ずと言っていいほど古代ローマの名言やラテン語に巡り合う。話が少しそれるが、カタカナで表記される外来語に対してぼくは寛容である。わが国では、明治時代から欧米の概念を強引に日本語に置き換え始めた(恋愛、概念、哲学、自由などの術語がそうである)。いま日本語と書いたが、実は、やまとことばへの置き換えではなく、ほとんどが漢語への翻訳だった。現在でも、外国固有のことばを無理に母語や漢語で言い換えてしまうと曲解や乖離が起こる。それなら、最初からカタカナ外来語のままにしておいてもいいとぼくは思うのだ。
 
仕事柄、マーケティング、コミュニケーション、コンセプトなどの用語をよく使うが、手を加えて日本語化することはない。ラテン語源のちょっとした知識を持ち合わせれば、これらのカタカナ語の本質を理解しながら地に足をつけて使うことができる。ぼくたちがふだん使っているカタカナ語の大部分はラテン語に起源をもつ。ギリシア由来のものも少なくないが、それらもラテン語を経由してヨーロッパ諸言語に広がった。だから、ラテン語の語源をちょっと齧っておくとおもしろい発見があったりする。
 
たとえば、英語のマーケット(market)は現代イタリア語ではmercatoであり、ラテン語mercatusにつながっている。「商品を持ち寄って売る」というのがマーケットの意味だったことがわかる。フランス語のマルシェ(marche)もここに由来する。なお、コミュニケーションは伝達というよりも「意味の共有」、コンセプトは別に小難しい用語ではなく、「おおまかな考えやアイデア」というのが原義である。
《「下」に続く》