いっそイノベーション

誤解なきよう。リサイクル思想に異論を唱える大胆な提言ではない。

修正や再利用を繰り返すよりも、思い切ってやり変えたほうがいいという、とても身近な話。散歩をしていたら、古めかしいビルの入り口横の壁に貼り紙を見つけた。最初は意図がよくわからなかった。その貼り紙には求人募集にともなう典型的な文言がいろいろ書いてあるのだが、一番目立ったのがこれである。

88歳までの方
38

さすが少子高齢化社会を反映して、ここまで年齢を引き上げての募集をしていたか……しかし、応募がなかった(若い人が嫌がった?)……そこでやむなく一気に50歳も引き下げて38歳? 「38」の数字はマジックインクの手書きである。

ちょっと待てよ、何かおかしい。よく見れば線で消されている88の十の位のほうが3から改ざんされた8ではないか。はは~ん、これで読めました、古畑任三郎。悪戯である。事の次第を推理すると……。

最初は「38歳」で募集していたのだ。ある時誰かが悪さをして「88歳」に書き直した。数字の38に変えるのは朝飯前、17に、あるいは56に変えるよりも簡単だ。悪戯をした奴はちょいちょいと一筆足して50もプラスできたことにほくそ笑んだに違いない。


そのオフィスはしばらく気づかなかったのだろう。早く気づいていれば、パソコンのデータも残っていただろうから、データを修正して貼り直せば済んだはず。何ヵ月か、もしかすると何年か経ってから気づいたが、当時のデータがない。で、おざなりに手書きで貼り紙に訂正を加えた……。

ぼく以外に誰がこんなに深い読みを入れて理解してくれるだろうか? ノーバディだ。みんな呆れたり薄ら笑いを浮かべて通り過ぎる。「よくもまあ、88歳で募集したもんだ。いったいどんな仕事なんだい? 28歳も88歳も一緒にできる世代間格差のない仕事? あればあったで結構なことだが、結局人が来なかったんだろ。で、やむなく50歳ダウンの38歳か」。ここまでの感想を洩らすことすらありそうにないが、まあこんな印象だろう。

これはなかなかの教訓である。リフォームしてよいことと悪いことがある。修正するより一からやり直したほうが手っ取り早く、しかもイメージを損なわないこともある。コストと手間がかからず見映えがよければ、黙ってイノベーションだ。

応募者心理に気配りできないあの会社、応募状況はどうなんだろう? と余計な心配。仮に「いっそ作り変えたら?」とお節介な口出ししても、「いやいや、あれでいいんです。へっちゃらです」と返されるかもしれない。あの貼り紙、なんとなく威風堂々に見えてきた。

聞き間違いがよく起こる日本語

シャレがつくりやすいという点では日本語は他言語を圧倒している。ダジャレでいいのなら、無尽蔵だ。この間も、「悩んでいましたが、海岸かいがん開眼かいがんしました」というのを耳にした。寒さをこらえればいくらでも作れる。

言うまでもなく同音異義語が多いからである。日本語どうしのみならず、日英の異文化ダジャレすら可能だ。「こんにちはという笑顔の挨拶に気をつけよう。これがホントのハロー注意報」なんていうのは朝飯前。

 「育児休暇は何日?」という問いに対して、「さんぜん さんびゃく ごじゅうにち」というような答えがあって、「えっ、十年も?」という、ウソのような話があった。もちろん3,350日ではなく、「産前350日」のことである。このような話しことば特有の聞き間違いは日常茶飯事だろう。では、書けば誤解が起こりにくいかと言えば、そうともかぎらない。なにしろ漢字にはいろんな読み方があるのだ。 

「今秋」と書くのはいいけれど、「こんしゅう」とは言わないほうがよい。頻度の高い「今週」と聞き違えてしまうからである。あるお店が「こんしゅう姉妹店がオープンします」と言うから楽しみにしていたら、二ヵ月先だったという具合。話しことばでは「今年の秋」または「二ヵ月後の10月になると」と文脈の足し算が必要なのだ。


ぼくの母親は78歳だ。耳はまったく衰えず、それどころか地獄耳に近いかもしれない。大阪人特有の短気で早とちりなところはあるが、歳の割にはアタマの回転もいい。その母親との電話での会話を大阪弁で再現してみよう。

「もしもし」とぼく。
「誰? 良則か? えっ、あ、勝志かいな。元気にしてんのんか?」(良則とは弟だ)
「元気やけど、最近出張が多いわ。明日から金沢に出掛けるし……」
この瞬間、おそらくそれほど近くにはいない父親に向かって、母親は叫ぶように告げる。
「お父さん、勝志からや! 明日からカナダに行くて」(ぼくの耳には「かなざわ」と聞こえている)。父親が電話口近くに来る。
「えらい遠いとこに行くんやな。何日間や?」と、父親が母親に聞いている。この時点で母親は通訳状態だ。
「何日行くんかって、お父さん聞いてはるで」と母親。
「一泊二日。明日行って、明後日帰ってくる」と返事。
「ええっ、ほんまかいな! (父親に向かって)カナダに行ってすぐ帰ってくるんやて」
「大変やなあ、二日でカナダ往復は」と父親が小声でコメントしている。
「カナダは何時間かかるのん?」と母親。
「大阪から2時間半くらいかな」
「へぇ~、えらい速いなあ~。 飛行機やな?」
「いや、特急やで」と言いつつ、この時点で、両親が金沢への出張で不自然なほど驚いている空気を感知した。
「ちょっと待って、カ、ナ、ダと違うで。石川県のか、な、ざ、わ。兼六園のあるところ、ホタルイカ、加賀百万石!」と、北米と北陸の相違を説明した。

「な~んや」で終わったけれど、結構エネルギーのいるコミュニケーションだった。伝達側のぼくが、ぶっきらぼうに「かなざわ」と言わずに、最初から「北陸、石川県、金沢」という文脈で話すべきだったのだ。

笑いで済めば救われる。問題なのは、同音異義のみならず様々な状況で意味誤解や疎通不全が頻繁に発生していることだ。饒舌・冗長にならない程度に、もう一言説明しておこうという意識を持ちたい。  

五輪(2)~ルールとフェアネス

ルールが変わっているかもしれない。リレハンメル当時は、スキージャンプ競技ではスタンバイ信号が赤から青に変わってから15秒以内に滑走を開始しなければならなかった。スピードスケートのスタートも用意の合図からスタートまでの2秒間微動だにしてはいけなかった。

ジャンプで失格となった選手、スピードスケートで二度失敗した選手。両者とも、気の毒なことに、はるばるノルウェーまでやって来て、スタートを切ることなく去っていった。情状酌量の余地は、微塵もない。しかし、この二例とは対照的に同大会で再試技が認められた選手がいた。覚えている方もいるだろう、フィギュア選手トーニャ・ハーディング、その人である。スケート靴の紐にトラブルがあったらしく、フリーの演技中に審査員に泣きついたのである。

これを認めてしまった。認めるということは、ルールの未熟性を暴露することに等しい。フェアネス(公平性)とは正々堂々の精神であり、つまるところ「潔さ」でもある。再試技はフェアネスに反する。


これがルールとして許されるのなら、トリプルアクセルで転んだのは目に埃が入ったからだの、フィニッシュが決まらなかったのは脚が疲れたからだのと申し立てればよい。屋外のスキージャンプでは風や天候という外的要因と闘わねばならない。それでもルール違反は大目に見てもらえない。屋内の、しかも選手自身の人的コントロールが可能な競技に例外があってはならない。

例外なくルールが適応されるからフェアネスが保たれる。そこにスポーツの潔さを垣間見る。昨日・一昨日とアメリカの金メダル候補の有力選手が、水泳・陸上の最終選考会で落ちた。十回に一回の敗北かもしれないし、出場させてやりたいという人情も働くが、ルールはルールだ。

人はやみくもにフェアであることはできないだろう。しかし、一つの例外を許せば、その他のすべての約束体系をモデルチェンジしなければならなくなる。フェアであるためには万人に平等なルールが必要なのだ。もちろん実社会では杓子定規にはいかない。いかないからこそ、ルールは厳格であるよりも、まずは明快であることを優先すべきだろう。

五輪(1)~ライブと記録と記憶

東京五輪が開催された1964年は中学生だった。学校が斡旋した「五輪記録ノート」を買った。全競技全種目が開催日別に印刷されており、ページごとにメダリストと国名を自分で記録していくという体裁になっていた。

後日新聞記事なり開催終了時に掲載される一覧を見ればわかることだが、そのつど結果を記入していくとページたりとも空白のまま残せなくなってしまう。開催期間中はテレビ中継に釘付けになった。録画ではダメで生中継に意味がある。競技終了後に書き込むのが正統で、どうしても記録が追いつかなかったりして翌日新聞で確認して穴埋めするときは少し情けない気がしたものだ。

二学期の中間テスト前だったが、勉強はほどほどにしておき、全種目の金メダリストや日本選手の成績はほとんど覚えた。そんなもの覚えてもしかたがないことはわかっていたが、一種のオタクだったのだろう。しかし、自己弁護しておきたいが、開催期間の約半月は一億総五輪オタクのニッポンであった。


五輪のみならず、サッカーでも野球でもそうだが、録画はつまらない。結果を知らないで見る録画はまだしも、結果を知ってからの録画は話にならない。現場観戦が一番いいだろうが、それが叶わぬならばせめてライブだ。ただし、国内に居ながらの時差ボケというツケを払わねばならないが……。

1970年代以降夏季五輪はもちろん観戦したが、冬季もよく見た。印象に残る冬季大会は1994年リレハンメルだ。スキージャンプは、原田選手の失速に日本じゅうが悲鳴をあげた。観衆も一緒に自分の腹筋に力を入れて1メートルでも先へと足腰を浮かせてみたが、結果は団体銀メダルに終わった。

さらに印象的なのが4年後の長野大会。ラージヒル団体戦の当日、ぼくは講師として大手企業の合宿研修の最中だった。立派な研修センターでロビーには大型テレビがある。最終ジャンパーの跳躍だけでもライブ観戦したいとの思いから、卑しくもその時間帯を自習させることはできないかと画策していた。

結果的には卑しくならずに済んだ。というのも、企業の研修担当課長が「研修していても気が入らないでしょう。ぜひ30分ほど休憩してみんなで観戦しませんか?」と申し出てきたのだ。ここで相好を崩すわけにはいかない。ポーカーフェースで「う~ん、やむをえませんね」とぼく。

4年前の雪辱を果たす原田選手のウルトラジャンプに全員拍手と感激の嵐。金メダルに酔った。気がつけば、ロビーは他のコースの研修生も含めて人で溢れていた。やっぱりライブだ。ただ、受講生のテンションの余燼がくすぶり、その後の研修の調子は失速していったのを覚えている。   

“彼”はなぜ褒め、なぜ問うのか?

またセールスマンがやって来た。ノックしてしばし、応答と同時にドアを開け、満面に笑みを湛え、型通りな挨拶をして入ってきた。藤崎マーケットには悪いけれど、あの「ララララ」で小躍りするときの表情にそっくりだった。

初顔である。アポでもしていないかぎり、飛び込みのセールスマンに「ようこそ! お待ちしていました」とホスピタリティを示さなくても罪には問われまい。

彼は瞬時にオフィスの中を見渡した。一人で「ラーイ?」と装っているような目つきだ。彼の立ち位置からは複合機が見える。レーザープリンター、複写機、ファックスのオールインワン機器。

 「立派なのをお使いですね」とまず褒めてきた。


いま、話の続きを書こうとして、逡巡した。こんな小ネタを取り上げて、よくもまあへそ曲がりなコメントをしようとしている自分が、もしかすると間違っているのではないか、と。おまけにエアロビコメディアンになぞらえたりして。しかし、いくらセールスの常套手段とはいえ、やっぱり変なのだ。初対面で「そのスーツ、お似合いですね」という褒め言葉が不自然なように、「複合機が立派です」と持ち上げるのは異様である。

考えてみれば、褒めるのはむずかしい。あまり可愛くない子どもを褒めたり中途半端に禿げている人を褒めるのは苦手である。なぜなら、褒めるというのは長所の抽出作業であるからだ。それには抽出の理由も求められる。禿げている人を褒めるとき、ぼくたちは通念の逆説を正当化せねばならない。同時に、それを成熟の証明に求めたとしても、なおも、なぜ成熟していることが、この際に褒める対象になるかを示さねばならないのである。


以上のような「考察」を常としているぼくである。違和感の強い褒めに対しては、「なぜ?」と聞き返すのが習性になっている。で、一呼吸おいて聞こうとした。聞こうとしたら、”彼”がこう続けたのである。「調子はどうですか?」

「調子いいですよ」という波長合わせはあまりにもお人好しだろう。「あなたにこの機械のコンディションを伝える義務はない!」――これが正しい応酬というものだ。販売者でもなくメンテナンス責任者でもない”彼”になぜレポートしなければならないのか。

つい硬派な対応をしたので”彼”はひるんだ。根が人情味のあるぼくはすぐに甘くなる。そこで、好奇心から聞いてみたら、厳しい門前払いが続く昨今、辿り着いたのが「機械の賞賛とご機嫌伺い」という切り口だと言う。

もう飛び込みセールスへの硬派な対応はやめようか。「立派な機械ですね」「ほんと? 褒めていただき、サンキュー!」「調子はいかがですか?」 「結構、最高、絶好調!」  こんな具合にノッてあげようか。

その日の”彼”の営業訪問日誌にこう書かれるだろう。「P社の代表は、空テンションが高い」。ありがと~。 

ことばを遊ぶ「三連諺」

三連諺。「さんれんげん」と読む。自惚れるほどではないが、たぶんオリジナルの造語だと思う。「雨降って地固まる」や「案ずるより生むが易し」というのが通常の諺。三連諺は、ある一つの諺を基点にして、あと二つを加え、そこにおかしみや教訓を醸し出そうとする試みだ。

連言れんげんというのがあるが、これは論理学用語で「そして」という意味。これとは違う。「小薬は草根木皮 中薬は衣服飲食 上薬は治心修身」は近い。要するに、単発よりも三つセットにして本質をよりよく理解しようというわけだ。

「髪が抜ける」。ありふれている。「歯が抜ける」。これも普通。「腰が抜ける」。大変だけれど、よくある。しかし、これら三つをくっつけて、綾小路きみまろが語りかける。

「お集まりの熟年世代のみなさま。髪が抜け、歯が抜け、腰が抜ける今日この頃……」。これで会場が爆笑となる。無機的な一言一言を連ねてみれば、そこにリズムが生まれ独特のおかしみが演出される。

諺の多くは賛否両論、是非が拮抗する。一文に想いを凝縮しているため、説明不足であったりする。したがって解釈いろいろ、諸説噴出する。たとえば「出る杭は打たれる」。そうとも言えるし、そうでもないかもしれない。そこで、これをネタにして三連諺を創作した。

「出ない杭は打ちようがない 出かけている杭は打たれる 出てしまった杭は打たれにくい」

「能ある鷹は爪を隠す」も、どこかからいきなり飛び出してきたみたいで唐突。文脈が見えにくい。そこで、この諺を二つ目に置いてみる。「技ある鷹は爪を磨く 能ある鷹は爪を隠す 芸ある鷹は爪を求めず」。能と対比して、技と芸を並べた次第。

「小なる悪銭目もくれず 中なる悪銭身につかず 大なる悪銭よく身につく」。インチキ商法を見聞きするにつけ、つくづくそう思う。元の諺を「中途半端な悪銭だからダメ」と読み違えてあげる。

「頭隠して尻隠さず」の頭を顔に変えてみるとどうなるか。

「顔隠して尻も隠す 尻隠して顔隠さず 顔隠して尻隠さず」

最初は「謎のヴェールに包まれたおくゆかしい人」。二つ目は「ふつうの人」。たいていの人はそうして道を歩き対人関係をこなしている。最後は「アブノーマルな人」。元の諺は「アブノーマル」を示唆してはいるが、それがいいとか悪いとかまで言及していない。四連諺にすると、最後は「顔隠さず尻隠さず」となって、これはクレヨンしんちゃんのことを意味する。

暇なときにお試しあれ。佳作・傑作ができればぜひ投稿していただきたい。 

無意味な意味づけ

「自宅の柱か壁の一部にあどけない、あるいは微笑ましい落書きをするのは自由である。公共施設、ひいては世界遺産に落書きするのは論外である」。型通りな寸評だということは分かっている。だから、「よい子のみなさん、落書きをしてはいけませんよ」と呼びかけて終わるつもりはない。

指摘したいのは、常識に挑戦する落書きの見た目・メッセージが大胆であるのに対して、落書きを戒める側の情けなさである。壁の持ち主が貼り出す注意書きには強さも工夫もない。たとえば、「人権侵害につながる悪質な落書きはやめましょう」なんて弱腰すぎるではないか。まるで「人権侵害につながらない良質な落書き」を認めているかのようである。「落書きは懲役5年かつ罰金100万円!」くらいのアバンギャルドで対抗すべきではないか。


フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂はお気に入りの名所である。フィレンツェには過去数年間で15泊ほどしているが、滞在中は欠かさずに近くを散策した。この大聖堂によくも大胆な「犯罪」をおかしたものだ。見学時に落書きに適した筆記具を持参していること自体、もはや悪ふざけの域を超えている。寛大にも謝罪だけで済んだということだが、フィレンツェへのお詫びの意味でこの落書き日本人をわが国独自のやり方で懲らしめておくべきだろう。

この一件に刺激されて、芸能ネタがなかったのかどうか知らないが、マスコミがわが国の落書き事情へと目を向ける。今朝は新幹線車輌を取り上げていた。目を盗んで落書きできるくらいなら、爆弾を仕掛けることぐらい朝飯前ではないか。鉄道会社、しっかり用心すべし!

「自分の描いたものを誇示したいという心理」――落書きの権威らしき人がこのような趣旨の意見を述べていた。まったく感動を覚えないコメントである。ぼくのブログのタイトル画面の抽象画(らしきもの)は自作だが、描いて公開しているのだから「誇示したいという心理」? ふ~む。そうだったのか、ぼくの心理は……。このコメントでは、落書きと絵画の違いを説明することはできない。

専門家ゆえに何事にも意味づけを求められる。気の毒だとは思うが、その無理っぽい意味づけが素人考えと大差ないとは皮肉な話だ。己への警鐘として受け止めておくことにしよう。 

相手心理を読む交渉ゲーム

二十代前半に将棋に嵌まったことがある。自分がどう指すかという決断よりも、相手がどう指すかという読みが優先することを学んだ。当たり前だけれど、これがなかなか簡単ではない。読みはついつい自分の手を中心に組み立ててしまうからである。

 「彼を知り己を知れば百戦危うからず」はご存知の孫子の兵法だ。相手が先である。「敵の手の内を熟読せよ。敵は私たちの味方である」(エドモンド・バーグ)は、敵が貴重な情報源であることを示唆している。


628日の私塾金澤講座のテーマは『PR戦略とネゴシエーション』。交渉の基本は敵の読み方。そこで、「ジャンケンのジレンマ」という自作の交渉ゲームを演習に取り上げた。これに似てはいるが、もっと戦略的駆け引きのいる、ぼくが自作したジャンケンゲームを紹介しよう。

1.パーがグーに、グーがチョキに、チョキがパーにそれぞれ勝つのはジャンケンと同じだが、パーで勝つと5点、チョキで勝つと2点、グーで勝つと1点と点数が変わる。これにより、リスクとリターンの含みが生まれ、通常のジャンケン以上に読みが入ることになる。

2.おあいこは引き分けではない。勝ち負けが決着した点数を2倍にする。つまり、おあいこ1回のあとにパーで勝つと10点、チョキで勝つと4点、グーで勝つと2点になるのだ。おあいこが2回になると3倍、3回になると4倍、4回になると5倍の点数になる。なお、これまでにぼくが目撃したおあいこ最高記録は14回である。

3.野球と同じようにイニングから9イニングまでジャンケンする。合計点の多い方が勝ちである。おあいこも含めて勝敗が決着した点数を各イニング欄に書き込む。つねに一方は0点になる。

4.途中のイニングの前に、負けている方が「ダブル」と「トリプル」をそれぞれ1回コールする権利を行使できる。たとえば、6イニング終了時点で、146で負けているとする。チョキ3回で勝利しても6点だから追いつかない。残り3イニングで逆転するには、おあいこを重ねるしかないのだ。この「ダブル」と「トリプル」は、いきなり2倍のおあいこ、3倍のおあいこ状態でジャンケンする権利である。仮に7イニング目にうまく逆転したら、今度は相手側が「ダブル」「トリプル」をコールする権利をもつ。

5.イニング制ではなく、先に合計30点到達で勝利という方法もある。おあいこで何十倍にも点数が膨らむ可能性はあるが、逆転無理と判断したらギブアップしてもよい。

6.「最初はグー」という調子合わせはなし。お互いの呼吸を合わせるのが望ましい。うまくいかないのなら、どちらか一方が調子合わせの権利をもつようにする。


このゲームでは、イニング目からおもしろい現象が起こる。グーを出して相手にいきなり5点を献上したくないという心理が働く。ゆえに、チョキかパーになるケースが90%以上になるのだ。チョキはリスクなしでリターンが中、パーは中リスクでリターン大。性格が出る。イニング目からおあいこが連続することもある。

1イニング目の結果によって2イニング目の戦術が決まる。その時々の点差によってグーの出番も増える。強気だった方が弱気になり、負けている側が窮鼠になって猫に噛みつき大逆転ということも。いつのまにか、自分がどうするかではなく、相手がどう来るかを読んでいる自分に気づくだろう。

さあ、紙とペンと相手を用意して一度試してみよう。 

ことば~慣用と誤用のはざま

目立ってテレビの雑学クイズ番組が増えた気がする。クイズが嫌いではないぼくはつい見てしまう。超難問に答えて一喜し、知らない事柄のおびただしさに愕然として一憂する。正解率の低いのが冠婚葬祭系のマナーだ。この齢にして、これまで実生活で慣習を受け継ぐという環境にはなかった。かろうじて知っているしきたりの一部は体験によるものではなく、本や耳学問によるものである。

相手の気分を害するほど失礼でなければいいではないか。これがホンネ。冠婚葬祭の正統流であろうと亜流であろうと、相手がすでに何とも感じていないことが多々ある。祝儀袋にまつわる小さなルールが善意をしいたげるなんて、理不尽もはなはだしい。この種のマナーはほどほどでよい。そう思っている。


微妙なのはことば遣いのほうだ。正確で効果的な使用はあっても、絶対的な「正用」などというものは存在しない (なお、この「正用」は「せいよう」と入力したら表示されたのだが、手元にある二冊の辞書にこの用語は掲載されていない)。本来の正しい用法などと言ってみたところで、本来をどこまで辿るかによって変わってくる。語源まで遡れば、ほとんどのことばは本来から乖離している。大多数がその間違いを認知したら「明らかな誤用」とするしかないのだろう。

ディベートを指導していた頃の話。ディベートには耳慣れない用語がいくつかあって、講義で説明しても実際に使うときに間違ってしまうケースがある。

反対尋問はんたいじんもん。この読み間違いはないが、「はんたい……」まで言いかけて黙る人がいる。反駁はんぱく。「反発」のことだろうと勝手に解釈して、十人に一人くらいの割合で「はんぱつ」と言う。他の人が「ばく」と発音しているのに気づいてやがて修正する。証拠しょうこ論拠ろんきょはさほど難しくない。

ぼくのディベート指導史に残る「大笑い誤用」の一つは、肯定側と立論の合成語である「肯定側立論」。もちろん「こうていがわ りつろん」と読む。これを「肯定」と「側立論」に分けて「こうてい そくりつろん」と声高らかに読み上げてくれた男性がいる。ここまで器用に間違われると、「きみ、間違いだよ」とは指摘できない。とりあえず聞き流しておいて、講評のときに「こうていがわ りつろん」と強調して誤用した人に気づかせようとした。しかし、彼は気づかなかった。否定側でも「ひてい そくりつろん」と言ったのである。

もう一つは、これを超えた満点大笑い。同じく因縁の肯定側立論だ。この女性はちゃんと「肯定側」と「立論」に区切った。区切ったうえで、「こうていがわ たてろん」と読んだのである。ジャッジたるもの決して笑い転げてはいけない。笑いを押し殺したために喉が詰まって窒息しそうになった。立論が立つどころか、寝転んでしまった。この女性に何を悟らせる必要があるだろう。「羞恥心」の新メンバーに推薦したい。


誤用が多数派を占めれば慣用になる。ぼく以外のみんなが「たてろん」と言い出して、「りつろんという読み方はおかしいよ」となれば、こっちが誤用扱いされてしまう。たとえば、「間、髪を入れず」を使うときは本当に勇気がいる。「かん、はつをいれず」だ。これが「間髪入れず」と表記され、「かんぱついれず」と読まれる(実際、今「かんぱつ」と入力したら変換された)。この種の類例は多数ある。

ぼくも間違い、その間違いに気づかないこともあるだろう。誤用は人の常だ。そして、かつて誤用であったものが常用になることにそこそこ寛容であろうと思う。しかし、「間髪入れず」に王座を譲ってはいけない。「間髪」などという髪はどこにもない。まるでヘアフォーライフみたいではないか。「間、髪を入れず」は「間に髪の毛一本も入れないほどすばやく対応する」というのが本来の意味だ。

「失礼ですが、さっき『かん、はつをいれず』とおっしゃいましたね。差し出がましいようですが、あれ『かんぱついれず』ですよ。立場上、お気をつけて」。いつかこんな注意を受ける日が来るだろう。「あ、ご親切に、ありがとう」のあとに、「でも、本来はですね……」と付け足すかどうかは、相手を見定めて決めることになるのだろう。   

アイデアを探るツール~入門編

「お客さま、新大阪ですよ。」 乗務員さんの声がよく聞き取れなかった。「えっ、何とおっしゃいました?」 「あのう、新大阪に到着しています。」

駅に停車しているのは、窓の外を見ていたのでわかっている。ぼくはその駅をてっきり京都だと思っていて、微動だにしていなかった。今日の午後、東京からの下りの新幹線のぞみの車中だ。名古屋を出たのは覚えているが、完全に京都が抜けている。熟睡していたのではない。熟考していたのだ。集中していて完全に我を忘れていた。新大阪止まりの列車だったので、乗り過ごさずに済んだ。


こんなことはめったにない。複雑思考のときほど起こらない。複雑すぎると意識が散漫になって集中できなくなる。ネタが少なくて単純思考しているときほど案外のめり込む。今日は「座標軸思考」をしていた。ABという二項対立、XYという別の二項対立を単純に組み合わせるだけだ。

A→有言」とすると「B→不言」。「X→実行」とすると「Y→不実行」。AB軸をタテに、XY軸をヨコに十字を描けば、4つの組み合わせができる。すなわち、有言実行、有言不実行、不言実行、不言不実行。それぞれについて、真面目にかつ不真面目に思いを巡らしていたら、京都駅が抜けるほど深いところに入っていたのである。ざっと次のように……。

ちょっとひねってみたい気はするけれど、やっぱり有言実行が一番でしかたがないか。道徳論者みたいかな? でも、ことばというシナリオにしたがってアクションを起こしているのだから、他者は理解しやすいだろう。午前11時にうかがいますと約束して、その時間に来るなら、ひとまずいい人と評価できる……。

有言不実行はよくやり玉にあがる。「口ばっかり」と呆れられる。周囲にも結構いるもんだ。みんな6時に来てくれよと言っておきながら、自分だけ来ないヤツ、いるなあ。でも、評論家のほとんどはこれで生計を立てているのだからおいしい生き方かもしれん……。

不言実行。「男は黙って何々」という逞しさがあるが、思いつきやデタラメの可能性もある。約束もしていないのに、突然やって来られては困る。無断拝借というのもこの部類か。何も言わずに事を運ぶのだから、危ない匂いもする……。

約束もしないし、やって来ることもない。可否の判断とは無縁か。ちょっと待てよ、何も言わず何もしないという不言不実行は、ミスをすると罰せられる職業においては完璧な方法論ではないか。いや、死人だって何も言わず何もしないぞ。あ、そうか、不言不実行な仕事ぶりの連中は「生けるしかばね」なんだ……。


とまあ、こんなふうに考えたわけである。アイデアが出るとはかぎらないが、アイデアマンを志願するビギナーにとっては思考習慣につながるはずだ。ABXYのそれぞれに対立または並立するキーワードを入れるだけ。就寝前にこれをやると眠れなくなるので注意していただきたい。それと、列車の終着駅周辺に住んでいない人は乗り過ごすことがあるので気をつけたほうがよい。