情報にまつわる錯覚と幻想

現状を分析して問題の原因を探り、しかるのちに問題の解決案を編み出す。これが一般的な企画手順である。ところが、こうして立案される企画は現状に軸足を置いたマイナー改善策の域を出ない。めったなことでは斬新なアイデアが生まれそうにない。

この手順に従うと、できるかぎり情報量を増やそうと躍起になりかねない。情報量に比例して企画の質が上がるという、まったく信憑性のない通念にしがみつく。実際のところ、現状を緻密に分析しなくても、どうすればいいか、どうしたいのかと想いを強くしていれば、アイデアの芽生えに近いところで発想できることがよくあるのだ。

にもかかわらず、人は情報収集に励む。人の情報入力にはキャパがあり、情報源への目配りにも限界がある。日常生活で触れる話題、雑談、テレビのニュース、新聞、雑誌、本だけでかなりの情報量になる。ここにインターネット――画像に動画にSNSにメールなど――が加わる。


21世紀に入って20年足らず。しかし、今日、前世紀に日々接した総量の何乗にも達するほどの情報に晒されている。晒されているだけならまだしも、キャパシティの程をわきまえずに情報を探し求めて取り込もうとする、いや、取り込まねばならないと急かされる。手に入れた情報のほとんどが、あってもなくてもどうでもいいものばかりである。

実際にショッピングに出掛けて知りえる事柄よりも、ネットショッピングにともなう情報のほうが圧倒的に量が多い。店舗ではスペースの限界が購買の選択肢の限界であるが、ネット上では選択肢は無限大。しかし、選択肢の多様性や豊かさが必ずしも賢明な判断を促すわけではない。

仮にかなりの情報量をインプットできたとしても、活用はままならず、情報の在庫ばかりが増え、やがて旬が過ぎて価値を失う。実は、増えていると思うのは幻想で、情報はまたたく間に揮発する。それなら、最初からキャパに見合った情報、何がしかの縁を感じる情報だけにしておけばいいではないか。ともあれ、情報量がアイデアを促すのではない。情報と思考の組み合わせこそがアイデアの源泉なのである。

書体が秘めるもの

起業してから幾多の困難を克服して成功を収め、創業者が財産を遺した。二代目は首尾よく承継して守成をやり遂げた。創業にも守成にもそれぞれ別の苦労があるが、一般的に「創業は易く守成はかたし」と言われる。これが正しいなら、生業を軌道に乗せた二代目の手腕を褒めるべきである。

しかし、守成の難しさは富家ふかの三代目が証明することになる。世間によくあるのは三代目による家業の没落というシナリオだ。家を売りに出さねばもはや立ち行かない。貼り出された売り家の札を見れば唐様からようのしゃれた字で達筆。さすが祖父と父の財産で遊芸に耽っただけのことはある。こうしてあの川柳が有名になった。

売り家と唐様で書く三代目

三代目の書を褒めたわけではない。商いの道よりも遊芸にうつつを抜かして身上しんしょうを潰し、残したのはわずかに手習いの腕と教養だけという皮肉である。

唐様は和風の草書や行書とは違った楷書系の書体である。この川柳の頃はおそらく江戸時代で、当時は楷書に明朝の書体を取り入れたものらしかった。明治時代には公式の書体として唐様が定められた。将棋の駒の書体として人気のある菱湖りょうこ〉はその一つである。


どうせ家を売りに出さねばならないのなら、唐様で粋に書くほうが少しは高く売れるかもしれない。少なくとも何も書かないで空き家のまま放置するよりも、また札書きが下手くそであるよりもうんとましである。

書体はその名の通り「文字の体つき」を表現している。身体同様に、書の体つきも個性の一つであるから、イメージやニュアンスまでも伝える。同じ「売り家」と書くにしても、草書や行書、明朝やゴシックのどれを選ぶかによって、文字通りのメッセージとは別の隠れ潜んだ意味があぶり出されるだろう。

書における力とは、(……)毛筆に加えられる力ではない。毛筆が沈む深さでも、毛筆が疾走する速度でもない。政治や社会、人間関係の重力に抗して歩む、志とその陰にひそむさまざまな人間的なひだを含み込んだ「間接話法」的な力の姿である。
(石川九楊著『書とはどういう芸術か』)

唐様の「売り家」という文字に、三代目の心のありようとファミリーヒストリーが滲んで見える。

シンプリシティのかたち

シンプルな表現、シンプルな手順と方法を編み出したい……というつもりでシンプルに考えても功を奏さない。そんな単純ではないのだ。あれもこれもと複雑かつ包括的に考え抜き、時に大いに悩み苦しんではじめて、「足し算ではダメなのだ、引き算しないといけないのだ」と気づく。ここでやっとシンプリシティへの微かな兆しを感知する。

遅めの足し算は具合が悪い。インテリアやファッションにしても複数要素のコーディネートには時間がかかる。足し算には試行錯誤がつきものである。足し算するなら早いに越したことはない。仕上げに近づくにつれて引き算へのシフトが求められる。足し算から引き算へ。これが成功の図式であり、とりもなおさず、それはシンプリシティのかたちを意味する。


「シンプリシティは究極の洗練」(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

究極の洗練とは、ありていに言えば、「美しい」ということだろう。美しいという形容は微妙で、そう感じるかどうかは人それぞれだが、一目見て読み解けない煩雑さよりはシンプルな見え方のほうに心が動く。シンプルであることは美しい価値につながりやすいのである。

九鬼周造の『「いき」の構造』には、「いき」ばかりでなく、「みやび」や「あじ」や「さび」の立ち現れる構造が書かれている。いずれもシンプリシティの表現のように思われる。その一つである「さび」を同書をヒントにして図に表わしてみた。

「さび」は意気・上品・渋味・地味」から成る立体的な感覚構造を持つ。普段使うことばでぼくなりに迫ってみた。抑制的、しゃれている、おとなっぽい……何よりも玄人好みのする引き算がされている。究極の洗練に近いシンプリシティのかたちの一つだろう。

一(声、歩、助、言、etc.)

「あと一つ」や「もう一つ」を加えるかどうかは悩ましい。下手をするとたった一つが過剰になりかねない。点睛が画龍を台無しにすることなきにしもあらずだ。その一声が大きなお世話になったり、その一助が余計なお節介になったり。

躊躇していてはいけないと思って一歩踏み出したら、とんでもないことになる。逆に、慎重にあと一言を控えたら意味が伝わらない。あと一つ、もう一つの匙加減で道筋も結果も変わる。決断には過不足がついて回る。

さあどうしたものだろうと悩んでいると、次の一つは出てこない。つまり、悩みはおおむね不足を招くことになる。発言に関して言えば、舌禍事件が相次ぐとあと一言が控えられる。かと言って、不足なら説明責任を果たしていないと咎められる。


美意識からか、何事も控えめで過剰にならぬように振る舞う人がいる。「過ぎたるは及ばざるがごとし」に落ち着くばかりではつまらない。たまには「大は小を兼ねる」に従ってみる。取り返しがつかない事態を招くかもしれないが、それも一つの覚悟のありようではないか。

もう一声掛ける、もう一歩前に出る、もう一助とばかり手を差し伸べれば、その時点で何がしかの変化を感知できる。ああ、オーバースペックだったのかと反省もできる。他方、不足というのはその時その場では何事も起こらず、結果は後々になってわかる。その時に知らん顔するほうが無責任である。

あと一言のおかげでいいこともあったし、そのせいで面倒なことにもなった。そのつど判断するだけの才もないので、迷ったら一言することにしている。とりわけ、冗談やギャグはその場で言っておくのが旬。すべることもあるが、ウケることもあるのだ。言わなければウケることはない。

雑談の作法

当初の終了予定の時刻に終わらないのが、会議で一番困ること。特にアイデアを出し合う場合には先がまったく見えなくなることがある。自分で会議を仕切れる時は次のことを心掛けて臨むようにしている。

1.  目的を見失わない
2.  話を繰り返さない
3.  ポイントを漏らさない
4.  脱線・寄り道しない
5.  成果を出す

会議など少ないに越したことはないが、やるかぎりは出席者全員が同じ約束事を心得ておくべきだ。会議も仕事の一つだからプロならとことん凝らねばならないこともあるが、同時にプロだからこそ効率も追求しなければならない。

雑談にまで会議と同じように時間効率や目的を持ち込む人がいる。かつて気ままに雑談の場を設けていたが、新しいメンバーが「目的は何ですか?」と聞いてきたことがある。大手メーカーの技術者で、会議漬けにされていた中堅社員だった。


雑談の話題や方法など好きなようにすればいいし、成り行きでいい。「雑」なのだから大雑把でよく、ルールなどいらない。但し、『雑談の作法』とタイトルに書いたように、心しておくほうがいいことがある。強制力はない、それゆえに作法。

話のテーマはいらないが、もし決めるならゆるめに定めるのがよく、テーマに縛られないこと。二人、三人、四人……と人数によって、話題の扱い方など雑談は変わる。人数が増えると、集いが二つ三つに分断され、みんなで集まった意味が薄らぎかねない。飲食の懇親会などは八人以上になると、たいていこっちの四人とあっちの四人は違う話をしている。

雑談の場は乗り物と同じ。せっかく参加してくれたのだから、一人たりとも置き去りにしてはいけない。いま話題にしている流れにみんなが乗らねばならない。他人の興味や関心を推し量りもせずに、昨日のゴルフの話で場を独り占めするなどはマナー違反である。

雑談には会議以上の技もいるし場数も求められる。時間のムダのように思うむきもあるが、雑談の入り込まない仕事や生活を想像してみればいい。雑談のない日々がいかに空しいことか。目的を気にせず、成果を求めず……脱線したり寄り道したり、ずれたりぶれたり……こういう作法を気に留めながら、大いに雑談を楽しみたい。

エピソードとひらめき

こんな話、いったい何の役に立つのかとつぶやきたくなる小さな話の数々。おかしみがあり、稀に意表を突かれるが、特段の価値があるように思えない。しかし記憶に残っている。そんな小さな話は、役に立つとか立たないとかの基準をすでに超えていて、イメージやストーリーが脳に刻印しやすい構造を備えている。

印象に残る、イメージが刷り込まれる、忘れようとして忘れられない、自然にストーリーが出来上がる……こういう情報を〈エピソード〉と呼ぶ。熟成させておくと、新しい何かを誘発する触媒になることがある。

分類されたいくつかのファイルがある。ラベルが貼られている。ラベルのカテゴリー名に関連しているか属性になりそうな情報を振り分ける。時々どのファイルにも収めにくい情報に出くわす。〈とりあえずファイル〉や〈その他ファイル〉に入れることになる。後日、ここに振り分けられた情報が、つかみどころのないエピソードとして、突然ひらめきに化けることがある。


情報から信号や記号を読み取れば、何がしかのひらめきになることがある。一つの情報は一つの信号や記号のみを潜めているわけではない。ところが、ぼくたちは限られた信号や記号を自分勝手に感知している。どんなひらめきに恵まれるかは、人それぞれの感受性や情熱に依るところが大きい。

異なった情報からの多種多様な信号や記号の組み合わせがひらめきに関係する。レヴィ=ストロースは『野性的思考』の中で次のように語っている。

知の最先端にいる学者たちは、物事を「真理」によって解読するのではなく、「いろいろな出来事の残片」を組み合わせて構造をつくる。

野性的思考(または神話的思考)とは、ぼくたちが飼い慣らされたきた科学的思考では説き明かせない事柄の意味を、今一度新たに組み合わせることにほかならない。新たな構造をひらめかせてくれる残片としてエピソードが力を貸してくれる。とりあえず振り分けたその他の小さな話の出番である。

知のスローエイジング

「四十にして惑わず」と孔子は言った。惑わないためにはぶれない考え方が必要。そのためには記憶力の減退、知の衰えに抗わなければならない。少なくとも遅らせたい。さて、どう対処するか?

➀  惑っていない振りをする。
➁  イチョウ葉エキスを飲む。
➂  読み・書きを習慣とする。

➀で凌げば多少なりとも気休めになるかもしれない。格下相手なら振りが通用することもある。ただ、抜本的処方になりそうもない。それどころか、知のアンチエイジングが手遅れになりかねない。

商売柄、サプリメント販売業者は当然➁を推す。なにしろイチョウは地球上で最も経験豊富な・・・・・植物なのである。たかだか数万年のキャリアしかないホモサピエンスに対して、イチョウは約25,000万年間、生き延びてきたのだ。

イチョウの葉のエキスには血管を広げる作用がある(らしい)。だから、動脈硬化を防ぐ(らしい)。血流が改善されると脳の毛細血管の血行がよくなる(らしい)から、認知症の改善に効果がある(らしい)。頭に血が流れたら記憶力が活発になり集中力も増す(らしい)。イチョウ葉はいいことづくめである(らしい)。もしこれらすべての「らしい」が確実であることが証明されれば、➁は絶対的に有力な対処法になる。


しかし、イチョウ葉エキスは定期購入すると毎月数千円、年に少なくとも56万円の出費になる。働き盛りの四十代ならともかく、仕事をしていないシニアにとっては家計の負担になる。そこで、➂という選択肢を真剣に検討することになる。

まず、買ったもののろくに読みもしていない手持ちの本を引っ張り出す。関心のあるテーマで、読みやすそうな本でいい。同じ本を何度も読み、気が向けば音読してみる。脳の血行がよくなり、記憶力も集中力も増す。慣れてくれば、読みながら傍線を引く。気になるページの欄外にメモを書き、少々面倒だが、ノートに転記すれば考えるきっかけにもなる。

ノートは数百円も出せばそこそこいいものが手に入る。そこに日々の気づきを書き込み、気まぐれに読み返せば個々のページに書いた情報どうしが相互に響き合い、気がつけば、考えることが常態になってくる。イチョウ葉と同じく「らしい」の域を出ない知のスローエイジング処方だが、イチョウ葉よりも財布にやさしいことは間違いない。

期待ということ

期待。どんな程度かはわからないが、とにかく心待ちにされること。待たれるのは相手にとって望ましい結果や出来である。とんでもないことを期待されることはまずない。

事の始まりにあたって期待は寄せられ、高められる。期待はこたえるもの、かなうものである一方、事が終わってみたら外れたり裏切られたりすることがある。何をどの程度に期待されているのかが摑めなければ、期待に見合うこと、期待に沿うことはままならない。期待というテーマは三部作になる。書名は『期待以下』『期待通り』『期待以上』。

『フェルメール展』を鑑賞してきた人が言った、「期待通りだった」と。期待通りとは期待以上でも期待以下でもないが、ちょうどいい感じなのだから褒めことばである。別の人は「期待外れだった」とつぶやいた。がっかり感が伝わってくる。但し、外れたのはクオリティではなく、期待の方向性だった可能性がある。


美術展でも仕事でも食事でもいい。まず誰もが「期待通り」を目標にする。プロフェッショナルなら「期待以上」の結果を出すのが当たり前とはよく言われるが、期待以上というのは、期待の範囲を通り越している。期待通りでないという意味では裏切りだ。その裏切りが評価されリスペクトされてこそ一流のプロに値する。

ずいぶん前になるが、前年度に実施した研修がかなり好評だった。翌年、さらにレベルアップして実施しようとしたところ、主催者がぽつんと言った、「前年の内容を変えなくて結構です。前年と同じ内容でお願いしたい」。期待以上にしても誰も価値がわからない、期待通りのレベルで十分というわけだ。

しっかりと御用聞きをしていれば期待通りはクリアできそうだ。しかし、相手の期待と自分の願望が一致しない、あるいは葛藤することさえある。この時、処世術としては願望を諦めて期待の顔を立てる。相手の期待にすり寄るばかりではつまらないが、やむをえない。期待通りというのは、相手次第ということだ。相手の期待が低ければ自分のレベルは上がらない。期待通りで満足していると一流の手前までしか辿り着けない。

御用聞きをしながら、なおも自分の願望や理想に近づくことはできる。裏目に出るかもしれないのは覚悟の上だ。期待以上という裏切りが期待以下の裏切りと同じであるはずはない。期待したのとは違う、裏切られた、しかし何という裏切りようだ……と相手が息をのむ。そして、リスペクトする。一応三部作なので『期待以上』で完結するが、いつも期待以上を期待する相手に対しては、次なる『期待何々』を書き下ろさねばならなくなる。

自分にできること

他人のしていることははっきり認知できないが、自分が日々していることはたいてい自覚できる。朝起きてトイレに行くこと、朝食を取って出掛けること、買い物をすること、電車に乗ること……。していることはできることでもある。自分にできることはだいたいわかっている。

ところが、他人と程度の比較をしてみると、できることは変容してくる。歌をうたうことができる、絵を描くことができる、走ることができるというようなことに程度が入ってくると、誰かは自分よりももっと上手にできるため、自分のできることなどはたかが知れている、いや、できないに等しいように思えてくる。

また、逆に誰もが苦もなくできてしまうと、もはやそれはできることではなく、単にしていることに過ぎないように思えてくる。朝起きること、トイレに行くこと、朝食を取って出掛けること、買い物すること、電車に乗ることなどは平凡な行為であって、できるなどと威張るのは滑稽である。


ずいぶん前なので本で読んだか誰かから聞いたかのか忘れたが、記憶に残っている話がある。小学校低学年の教室で先生が子どもらに特技を聞いた。ほとんどがたわいもないお遊びのことだったが、一人を除いてみんな何か言った。その一人の男子だけが「ない」と答えた。

後日、体育の時間。先生は逆立ちのやり方を教えた。初めての逆立ち、誰もうまくできなかった。ただ一人、特技がないと答えた生徒だけが軽々と、まるで忍者のようにやってのけ、クラスのみんなをびっくりさせた。

「前に特技を聞いたら何も言わなかったけど、逆立ちすごいじゃないの」と驚く先生に生徒は言った。「うちの家ではみんな逆立ちができるから、すごいだなんて思ったことない」。

子どものいいところを見つけると、ともすれば身内は過大評価してしまう。過大評価は子どもにプレッシャーを与える。他方、身内はわが子を過小評価することもよくある。過小評価は才能の芽を摘み取りかねない。主観的にも客観的にもできることを認識することはやさしくないのである。

付箋を貼るマメさ

中高生の頃に付箋を使った記憶はない。その頃までに付箋は存在していたはずである。しかし、縁がなかった。付箋ということばの前にポストイットを知った。社会人になってからの話。使い始めの頃はポストイットと呼んでいたが、今では付箋と言う。

糊付きの付箋しか知らないが、おそらく昔はしおりと同じ使い方をしていたに違いない。読書家や学者らは自前で小さな紙片を作り、本に挟む際にテープで貼ったり糊付けしたりして使ったようだ。裏に糊を付けたことで近年の付箋はスグレモノになった。しかし、貼ったのはいいが、剥がせないと困る。ポストイットが画期的だったのはさっと貼って無理なく剥がせるという点。この脱着可能なゆるい糊が失敗の産物だったというのは有名な話だ。

再読するために今読んでいる本の箇所をマークするには二つの方法がある。傍線を引くことと付箋を貼ることである。前者の問題は、本の外から即座に傍線箇所を見つけにくいこと。かなりページを繰らなくてはいけない。本も汚れる。付箋なら本は汚れないが、一つ問題がある。ページのどの行を参照したいのか一目でわからないのだ。結局、傍線と併用することになる。


本を読んでいると何かに気づく。ハッとするくだりがあれば傍線を引く。文章が一行か二行なら傍線でいい。しかし、マークしたい箇所が数行に及ぶ時は付箋が便利である。自分が書いた文章を読み直していて気づき、書き足すこともある。だから、ぼくは自分のノートにも付箋を貼っている。但し、付箋の貼り過ぎには注意。目印効果がなくなるからだ。

一年前にしたためたノートの雑文。書き直してブログに転載しようと思った。読み直しながらいろいろ考えてまとまりかけた時、一本の電話が鳴った。ちなみに、ぼくが使っているノートはバイブルサイズのシステム手帳。リフィルにびっしりと書き込んでいる。随時別のバインダーに移し替えるが、常時500枚は綴じてある。

別に閉じることなく電話に応じればよかったのに、反射的に閉じてしまった。電話を切った後、そのページに戻ろうとした。だいたいこのあたりと見当をつけて前後のページの表裏を丹念に目配りするも、見つからない。ほぼ全ページを丁寧に一枚ずつ捲ってやっと見つけたという次第。ロスした時間は約10分。

読書中も参照中も付箋貼りはマメでなければならない。ところが、反省してマメに貼ろうとすれば、今度は付箋が手元になかったりする。食事処なら箸袋やナプキンを挟む。挟んだその本を鞄に入れて帰宅。本を取り出したら箸袋やナプキンが滑り落ちてページを見失う。つくづくポストイットのありがたさを実感する瞬間である。