プロとアマの境界

イタリア料理の話から始める。ぼくはパスタが大好物である。もっと正確に言えば、麺類一般が好きなのである。だから、うどんの話でもラーメンの話でもいいのだが、ここ最近もっともよく食べているのがスパゲッティやショートパスタなので、手っ取り早くイタリア料理から文章を起こすことにした。

昨年秋から先月にかけて10軒ほどのイタリア料理店を訪れた。この店のパスタはさすがプロの技であると脱帽したのはわずか一店のみ。残りの店はぼくが自宅で一工夫すれば調理できる程度のものであった。だからと言って、レベルが低いとか不味いというつもりはさらさらない。ほとんどの店が出したパスタ類には合格点をつけてもよい。つまり、ぼくのパスタもプロに伍して合格というわけである。その昔、喫茶店でよく食べていたミートソースやナポリタンをぼくたちは本場イタリアでも食べているだろうと信じていた時代があった。今では、わが国のスパゲッティは本場に追いつき、半数以上の店では追い越したと言っても過言ではない。

要するに、プロの料理が一般に浸透して身近になり、同時にアマチュアも腕を上げたのである。イタリア料理専門店ではないビアホールのパスタだってひけを取らない(去る火曜日に食べたカヴァッテッリの出来はすぐれていた)。プロフェッショナルにとっては専門外の料理店も家庭もライバルになったということである。ぼくの知り合いのお米の専門家によれば、家庭炊飯のレベルが格段に向上したので、うかうかしているとお店のライスが家庭の味に負けてしまう事態になっているらしい。お家ごはんも決して侮れないのである。


パスタとごはんから話を餃子に転じてみると、シーンは一変する。店で食べて旨いと唸った餃子をテイクアウトして自宅で焼いて食べる。するとどうだろう、店で食べるほど旨くないのである。よしんば火加減も鉄板の厚さや湯の注ぎ方を工夫したとしても、釈然としないものがある。同じ餃子を焼いているのだ。違いはどこにあるのか。たかが餃子されど餃子、店で作る人と買って自宅で作る人の間に「見えない紙一重」の差があるとしか思えない。

家具職人や工芸の匠などの手さばきや細工を見ていると、乗り越えられない壁が聳えるように見える。超然とした差異、すなわち、ただ驚嘆するしかない彼我の技量の差は、紙一重どころではない。それに比べれば、ぼくが従事している企画業や教育の世界など、ほとんどプロとアマの差がない。専業主婦がプロの企画マンを軽く凌いでしまうコンセプトを生み出すし、広告コピーライターが悪戦苦闘しても捻り出せないコピーを易々と書いてしまう。昨日講師デビューした人がキャリア30年の先生を逆転することなど珍しくもない。

それだけ奥行きのない業種なのか。いや、そうではない。企画にしても教育にしても知を扱う。そして、知の世界にはもともとプロもアマもないのである。どちらかと言えば、知的職業というのはパスタ料理に近く、ぼんやりしたり油断したりしていると、すぐさまプロがアマに追いつかれてしまうのだ。いや、ぼくが見るかぎり、アマがたまたまプロをやっているケースも多いのである。アマチュア恐るべし! なのだ。しかし、このことは、企画や教育がきわめて日常的であることを意味している。そして、日常的であることは、プロにとって決して悲観すべき材料ではない。企画や教育のプロはどこかでかぎりなくアマチュア的でなければならないからだ。では、プロとアマが拮抗するそのような世界にあって、両者に一線を画するものは何か。それは、目に見える具体的な熟練度などではなく、プロ意識という精神性なのだろうとぼくは考えている。 

プロ意識のメンテナンス

そのイタリアンレストランにはもう二年近く行っていない。一時期は週に一回ランチに通い、夜も何度か利用した。だが、突然行かなくなった。近寄らなくなった理由は複数あるが、突き詰めれば「オーナーシェフのプロ意識の欠如」ということになるだろう。

 数回足を運んだ時点で、彼が相当な頑固者であることはわかった。しかし、オーナーが頑固であること自体は店から遠ざかる決定的な原因にならない。彼以上に頑固で何事にも強烈なこだわりを持っているシェフならどこにでもいる。頑固やこだわりは自分自身や素材やレシピやスタイルに向けられているかぎり、何の問題もない。むしろプロフェッショナルとしては必須の性格と言ってよい。

相当親しくなったので、彼のためになればと思い時折アドバイスをするようになった。自分で言うのも変だが、決して常連顔をしようとしたのではなく、純粋に成功してほしいという思いからである。時にはマーケッターとして、時にはこの界隈で二十年間ランチを食べてきた者として、時には惜しまれながら廃業していった数多くの飲食店の目撃者として……。ぼくは何回かにわたって次のような質問をしたり指摘をしたりした。括弧内が彼の反応である。

この界隈にはイタリアンの店が他に5店舗あり、フレンチも加えると8店舗になる。知っているか? (二つは知ってますよ) どちらかの店で食事をしたか? (自分も仕事をしているから行けないですね) 二筋向こうのA店は日曜日も営業しているから、一度行ってみたら? (子育てで行けないし興味もないです) あなたの店は本場仕込みの手打ちパスタが売りだが、お客さんの好みはいろいろだから乾麺も使ったら? (いや、手打ち麺でいきますよ) 日本人は乾麺のアル・デンテ(固ゆで)好みが多いと思うけど……? (そういう人は他の店に行けばいいでしょ) この間、何々という料理を食べたけれど、一度試してみたら? (あれって、そんなにおいしくないけどなあ) 来月からイタリアに行くけれど、何か欲しいものや情報はない? (そんなにしょっちゅう飛行機に乗っていると、いつか墜ちますよ)


頑固とこだわりが顧客にとって棘にならなければそれでよし。しかし、この最後の対応は残念ながら棘になった。それまで諸々の気がかりを許容してきたのだが、すべてがマイナスに転じた瞬間であった。イタリアンなのに音楽が合っていない、アニメのフィギュアで店を飾っている、愛想がよくない、ワインの品揃えが少ない……味がいいという理由で、すべてOKにしてきたんだけどなあ。

それでもトータルすれば、客の反応はややプラスなのだろう。それが証拠に、店は存続している。おそらく一定の固定客があるに違いない。

ぼく自身は手打ち麺が好物である。たしかにイタリアの食文化の中心であるトスカーナ州(たとえばフィレンツェ)やエミリア・ロマーニャ州(たとえばボローニャ)では手打ちが主流だ。ボローニャ名物ミートソースが平たい麺にまつわりつくボロネーゼは絶品である。しかし、フィレンツェでもボローニャでも普通にアル・デンテのパスタも用意している。目の前の客の、この程度の要望に応えたからといって、プロのプライドに傷などつくものか。

プロ意識、大いに結構である。プロフェッショナリズムが不足しがちな現在、さすがプロという人たちに出会いたい。しかし、時に応じて客観的な光を自ら求める努力をしておかないと、知らず知らずのうちに共感性に乏しいプロ意識を培養してしまうことになる。一事が万事にならぬよう、プロ意識にも定期的なメンテナンスが必要である。