続・ひらめきに関する一問一答

「ひらめきはビジュアル的だ」と考えるのは一つの偏見である。ことばよりも画像のほうが情報圧縮度が高いのは事実。しかし、情報量の多さはビジュアルが言語よりも優位であることの証にはならない。ひらめくきっかけにはことばも大いに関与するのである。

ひらめきに関して研修の受講生から寄せられた問いと回答。その続編を紹介する。


Q1 グループ内でせっかくユニークなアイデアが出たのに、それを掘り下げたり広げたりすることに不安が生じることがあります。結局無難な案に落ち着くことになります。

A1 グループ討議で多様なアイデアが出るのは歓迎ですが、最終判断が多数決的になるため、無難な八方美人案が選ばれがちです。内心では誰だってアイデアはユニークなほうがいいと思っているにもかかわらず。
もっと言えば、ユニークなものを本来アイデアと呼んだはずです(つまり、陳腐なアイデアはアイデアではない)。しかし、平凡の壁を破って湧いたユニークなアイデアを御すのは容易ではありません。人は自分の経験や知識の範囲外の発想に不安を覚えるからです。そして、一度不安になると、落としどころは前例的、アイデアは二番煎じになってしまいます。

Q2 強制的にひらめくように仕向ける様々な技法がありますが、どのように付き合えばいいのでしょうか?

A2   白い紙に向かってあれこれと企画案を考えるよりも、アイデアを促進してくれそうな図やフローチャートがあるほうがひらめきの機会は増えるはずです。しかし、未知の領域に飛び込む勇気が必要です。既知の範囲で収束させようとするかぎり、KJ法も特製要因図もSmartArtも、創造技法ではなく、分析とまとめの手段で終わってしまいます。

パワーポイントで使えるSmartArtのサンプル

Q3 ひらめきや企画力を強化するためにどんなトレーニングがあるでしょうか?

A3 誤解を恐れずに言うなら、トレーニングはありません。ひらめきや企画の「見えざる型」は習慣形成によって何となくわかってくるものです。ひらめいたことや企画したことは見えるように、わかるようにしなければなりません。見えるとは言うものの、写真やイラストやフローチャートには多義性があるので、意味が通じるとはかぎりません。ひらめきを科学した千葉康則は次のように言っています。

「ひらめきの構造を探ったりトレーニングしたりしても、可視化でき共有できるのは『ことば』でしかない」。

ひらめいたことも、考え抜いて企画した案も、ジェスチャーや絵で伝えることはできないのです。企画とは「画を企む」と書きますが、画はビジュアルということではなくて、ことばだと考えるべきです。企画力とは何か、一言でまとめるならば、「言語活用力」ということになると思います。

知らないことだらけ

知らないことだらけ? ちょっと待てよ、以前こんな題で書いた記憶があるぞ。「知らないこと」で検索。遡ること11年。似ているが違っていた。前に書いた題は『知らないことばかり』だった。

「これ、知らなかったなあ」と嘆息するのはいつものこと。あちこちに出掛けたりあれこれ読んだりした時ほど、一週間や半月のうちに何度も「知らなかったなあ」とひとり述懐する。この歳になればいろいろ知っているはずなのに、痛感するのは知らないことの圧倒的な多さである。


❓ コーヒーの粉をこぼした。箒でく。箒という漢字、文中で出くわせば苦もなく読めるが、書けないことに気づいた。書こうとしても、たけかんむり・・・・・・の後が続かない。たぶん箒という字は一度も書いたことがなく、今こうしてじっと見ているうちに初見のような感覚に襲われてきた。箒のあし・・のほうは「掃」のつくり・・・かと思ったが、微妙に違っている。

❓ 今月に入って、「換骨奪胎」と「汗牛充棟」という、初見の四字熟語に出くわした。前後からおおよその感じがつかめたらわざわざ調べないが、いずれもまったく見当がつかない。ことわざ辞典を引いた。ちゃんと載っている。
換骨奪胎かんこつだったいとは「古人の作った詩文について、あるいはその発想法を借用し、あるいはその表現をうまく踏襲して、自分独特の新しい詩文を作る技法」。焼き直しの意に用いるのは誤用とある。どうやらパロディでもパクリでもなさそうだ。守破離の「守」と「離」の併せっぽいが未だ明快ではない。もう一度出てきてもまた調べることになりそうだ。
汗牛充棟かんぎゅうじゅうとうは蔵書の多いことのたとえ。蔵書が増えてきて積もうとすればむねにつかえる。かと言って、運び出そうとすれば荷役に使う牛が汗をかくほど重い。文字から意味が連想できるので、これは思い出せそう。

❓ 芝居や舞台は縁が薄いので知らないことばが多い。以前「見巧者みごうしゃ」を知った時、表現の絶妙に感心した。上手に観劇する力のある観客のことをいう。同時に、舞台は演じる者の技量と観客が持つ観劇眼によって成り立つことを教えてくれる。上手と上手はお互いに呼応する。見巧者についてやっとわかるようになったが、見巧者になるのは難しい。
「半畳を入れる」という熟語は先週出てきた。敷いている
座布団を下手な役者に投げる? 座布団ではなく、半畳の大きさの「ござ」のことだった。
テレビや映画はセリフや演技を見聞きするだけ。ライブでもなく双方向でもない。しかし、演芸や演劇にはそのつどの、演者と観客の間の打てば響くような暗黙のやりとりがある。時に期待が裏切られると客席からヤジが飛ぶ。ヤジでは気が済まぬ客が尻に敷いたゴザを投げ込む。これが半畳を入れる動作だ。普段の会話でからかったり揚げ足を取ったりすることにも使える。

❓ 知らないことだらけでも何とかやっていけるのは、それまで知らなかった対象のほとんどが、別に知らなくても仕事や生活に支障がないからである。しかし、支障がないからと言って、「知らなくてもいいのだ」と居直るのもちょっと残念な生き方のように思える。

ひらめきに関する一問一答

ひらめきのエピソードとしてはアルキメデスの入浴がよく知られている。ある日アルキメデスが気づく、「湯に浸かると浴槽の水位が上がり、水位が上がった分の体積と湯の中に浸かっている身体の体積が同じである」と。アルキメデスは“Eureka!”と歓喜して、裸のまま浴槽から飛び出したアルキメデスはギリシア人だからギリシア語でそう叫んだ。ひらめいた時に感嘆する「わかった!」という意味である。

日本語では表記ゆれがある。原語に近いのがエウレカらしいが、学校の教師はユリーカと発音したし、その他にユーレカやユーリカもある。現代思想の月刊誌のタイトルは『ユリイカ』だ。

ひらめきを象徴するシンボルにはバリエーションがいろいろあるが、基本は電球のイラスト(💡)。ピカッと光った瞬間の電球や、ピカピカと光っている様子の電球が描かれることが多い。

さて、企画の研修をしているので、研修後に企画についての質問がメールで届く。質問をまとめて「企画相談箱」というファイルに入れてある。今日は、ひらめきとアイデアに関する一問一答を簡略化して紹介する。


Q1 アイデアがなかなか浮かびません。どうすればいいでしょうか?

A1 勘違いしないように。アイデアは浮かばないものだと考えておきましょう。たまにひらめいても、そのひらめきを見過ごしてしまうことが多い。自分のアタマの中で稀に起こるアイデア誕生の瞬間に立ち会うためにいつも気に留めておくこと。自分のアタマの面倒を見るだけで大変なので、人のアタマの中を気にしている暇はありませんよ。

Q2 複数のアイデアを書き出せたものの、どの方向にするかなかなか決めることができず、時間が過ぎるばかりです。

A2 「物が人間を惑わすのではない、物の見方が惑わすのだ」。古代ギリシアの哲学者、エピクテトスの言です。これにならえば、アイデア側の問題ではなく、自分の見方が定まらず、心がぶれたり戸惑ったりしているということになります。それぞれのアイデアの言い分に耳を傾けましょう。人は何かを生み出すよりも何かを評価して選ぶほうがぎこちないもの。M-1グランプリの審査を見ていたらわかりますね。

Q3 企画では、立案そのものよりもひらめきのほうが重要と考えていいのでしょうか?

A3 立案のきっかけになるのはひらめき(着眼や発想)です。ひらめきは気まぐれなので、努力や知識の量に比例しません。他方、案を仕上げていく上では構成の力、理屈や緻密な計算が必要です。ひらめいてから案をまとめるには必ずある程度の時間がかかります。ひらめかなければ何も始まりませんが、ひらめいてからの企画の仕上げでは絶対に手を抜くことができません。

〈続く予定・・

様々な言い様

たいていのモノやコトには複数の言い表し方がある。意味が「ほぼイコール」のものや分化したファミリーを含めて、これらを「類語」とか「同義語」と呼ぶ。角川の『類語新辞典』で【未来】を引くと、「これから先に来る時」という共通概念が最初に書いてあり、続いて「先、行く手、末、今後、前途、将来」など、40もの類語が挙がっている。

類語は基本の意味を共有することば仲間と言える。類語探しによく似ているのがキャッチコピーやネーミングだ。ことばの工夫をしたりあれこれと言い換えてみたりして、これぞという表現をひねり出す。言いようによって雰囲気やニュアンスが変わる。

オフィスの図書室/勉強部屋は、悩みに悩んだ挙句、20185月にspin_offスピンオフと命名。いろいろ考えていた方向のものとはまったく違う名称になった。突発的に「いろんな試みが派生する場」というコンセプトが浮かび、派生の意味を込めて名付けたのである。

当初は図書室だから本や読書にちなんだ名前を考えていた。「本日は晴天なり」をもじって「本日は本の日なり」を思いつき、英語にしてみたら“It’s a book day today.”と語感もいいし、これはおもしろいとほくそ笑んだ。しかし、イベント名ならまだしも、部屋の名前をいちいち「イッツァブックデーツゥデイ」と呼ぶのは面倒である。「本日ほんじつカフェ」というのも浮かんだがボツ。

本というたった一文字の漢字からインスピレーションを得ようと実にいろいろ考えた。まさに「様々な言い様」を試行錯誤したのである。まず、本が授けてくれる恩恵を「本の○○」の形にしてみた。

本の希望  本の激励  本の快癒かいゆ  本の幸福  本の精神  本の所縁ゆかり
本の宝箱  本の夢中  ……

続いて、視点を変えて本という字を二つ使って「本の本○」という言い様にしてみた。

本の本気  本の本懐  本の本命  本の本末  本の本棚  本の本箱
本の本意  本の本位  本の本題  本の本分  本の本音  本の本体
本の本望  本の本質  本の本当  本の本能  本の本番  本の本論
本の本家  本の本線  ……

この発想はなかなかいいではないかと自画自賛したが、いくらでも思いつくのは平凡の証ではないか。それに、どれも部屋の名称向きではないと結論した。しかし、メモを捨てずに置いてあったのはなぜか。未練が残って、いつか「勉強会の今日のテーマ」として使おうと思ったからだ。

図書室を公開イベントの場として使わなくなって間もなく2年。活用してもらってこその空間である。当たり前の穏やかな日々が来る年に戻ることを願いながら、読書会、書評会、朗読会、また時事トークや笑芸を来春あたりから開催したいと考えている。

日々の街歩き

当世のシニア世代は運動したり、学びに励んだり、芸術文化を楽しんだりと、趣味が多彩になった。『東京フィフティ・アップBOOK』という、東京都が昨年作成した冊子を見ると、趣味は細分化され、ドールハウス、健康麻雀、フラダンス、太極拳、ステンドグラス、チェロ、ピアノなど多岐にわたって紹介されている。

この冊子、これから高齢期を迎える50代・60代向けに、仕事や趣味、社会貢献活動などのライフプランに役立つヒントを網羅している。冊子と言うものの、200ページを越える「大作」だ。活動や目的がある程度はっきりしている趣味が多い。暇つぶしに何となくやっているような趣味では長続きしないのだろうか。

先日ある人とちょっとしたやりとりをした。「生涯で一度も車を所有したことがない。ゴルフもしない。一度マンションを買ったがすでに売却して、今は賃貸暮らし。大金を使ったことがない。以前は絵を描いたり語学を独学したり印を彫ったりしたけれど、今はしていない」とぼくが言ったら、「じゃあ、趣味は何ですか?」と聞かれてちょっと困った。読書や旅行は趣味とは思っていない。食べることへの好奇心は旺盛だが、これもまた趣味ではない。少考した後にこうつぶやいた、「散歩かなあ」。そう、散歩だ。散歩からお気に入りの諸々が派生している。


「お出掛けですか?」
「気まぐれな散歩です」
「どちらまで?」
「さあ……」 

気のない返事で申し訳ないが、明確に説明できたら散歩ではなくなる。健康や体力を意識する歩行動作ではない。山道を歩けばウォーキングとかトレッキングとかハイキングになる。山道は散歩には向かない。散歩に適した道は息を上げてまで頑張らなくてもいい道であって、あてもなくそぞろ歩きできる街中にある。

ぼくにとって散歩は街歩き。歩きながら街角や街並みの様子や雰囲気を窺いながら体感する。ペーパー上で得る知識とは一線を画す身体的体験である。行き先や道順などを特に決めていないから、行き当たりばったりの寄り道にほかならない。不覚にも「あて」が見つかってしまうことが稀にあるが、意に介せずにそこへ向かう。街歩きに想定外はつきものだと割り切っている。

どこの国のか忘れたが、「歩いて渡った者が川を知っている」という諺があった。百聞は一見にしかず、百見しても一触にしかずの意味。つまり、川のことをいくら見聞きしても、自分の足で川の浅瀬を一度歩くのに及ばない。しかし、少しでも歩けば川底の凹凸、水の冷たさを体感する。

散歩もまた、空気や色合いや凹凸に触れて街を探っている。散歩前に散歩の効果を期待するべきではないが、散歩後に勝手についてくるおまけを否定することはない。おまけには健脚、ひらめき、気分転換、新たな発見などがある。机に向かって悶々として得られる成果とはまったく違うおまけだ。散歩好きの古今東西の偉人らも異口同音にそう言っている。

まったくあてもなく川沿いをそぞろ歩きした10年前、「体感記憶」が昨日のことのように甦る(パリ、サンマルタン運河)。

本読みのモノローグ

たいして本を読んでこなかった人が、一冊の読書入門書を機に読書の魅力に惹かれた。本への意欲が高まり、その後も読書術の本を何冊も読破した。だが、辿り着いた先は読書の方法と推薦図書の長いリストだった。待ち望んでいたのは読みたい本を好きな時に楽しむことだったのに……。

強迫観念に苛まれて、本との付き合いに器用さを欠く。決して他人事ではない。読書は自分流であっていいという立ち位置から軽くつぶやいてみたい。題して、『本読みのモノローグ』

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読書の荷の重さを感じたら、どこかに出掛けて他人の話を聴く状況を想像すればいい。その面倒に比べれば、読書は実に気楽で安上がりな方法ではないか。読書はある種の疑似体験だが、実社会にはめったにない希少な知の僥倖に巡り合うことがある。

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あれもこれもと読みたい本は日に日に膨れ上がる。「慌てて読むことはない、速く読んでも何も残らない」と諦観しておこう。気まぐれに本を手に取り、ゆっくり読むのがいい。著者が時間をかけて書いた本ならなおさらだ。読書は冊数を競うものではない。

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本と読書はイコールではないのに、イコールだと錯覚しがちである。

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読書に「パーセンテージ発想」は厳禁。たとえば「百冊買ったのに、まだ一割しか読んでいない」と嘆いたりすること。残りの九十冊が現時点で未読状態ということにすぎないのに、森羅万象を無限大の分母として知を量ろうとしてしまう愚。分母に気を取られると読書は難行苦行と化す。

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どんな本を読むべきか、いかに読むべきかについて他人の尺度を気にすることはない。本と読書には自由気ままが許されている。かつて禁じられた時代もあったが、今では本と読書に関してはめったなことでは文句を言われないし強制されることもない。

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人物が気に食わないからと言って退席すれば一大事。しかし、本の場合は気に入らなければ閉じれば済む。読むのをやめるという行為も読書体験の内にある。本には読むという選択と読まないという選択が用意されている。

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放蕩三昧の勇気なく、ふてぶてしく無為徒食もできないくせに、日々刻苦精励に努めない。こういう生き方同様に、おおむね人は中途半端に本を読む。それも一つの読み方ではあるが……。

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蔵書は読むことを前提に本棚に収まっているが、出番がない時は読書人の後景として控えている。

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惰性でも読めてしまう本と高度な深読みを迫る本がある。前者の本が役に立つことはめったになく、また、後者の本で身についた思考が必ずしも功を奏すとは限らない。本に恵まれず読書も不調なら、読書の「プチ断食」に挑戦してみよう。これで読書の方法が整い、今までと違う本の世界に覚醒することがある。

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本で学んだことはいつか役に立つだろう――知はそんなアバウトに生まれない。知は勝手に熟成しないのだ。知に別の知を合わせ、つねにメンテナンスよろしく攪拌してやらねばならない。読書は攪拌作用である。攪拌とは混沌であって、秩序ではない。読書とはカオス的体験にほかならない。

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本がある。文章を学んでいるのではない。本を読むとは、書かれたものと自分を照合したり重ね合わせたりすることだ。だから誰が読んでも同じ本などない。読み手の知識・経験が本と葛藤し妥協し融和し、時に決裂する。

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誰にとっても「読むべき本」が世間にあるのだろうか。稀に仕事で読まねばならない本はあるが、原則は好きな本を楽しく読むことに尽きる。世の中には万巻の書があるから、好奇心を広く開いておけば稀に「大当たり」が出る。狭くて小さな読書世界に閉じこもっていると当たりは出ない。

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「理想の読書」という、あるのかないのかわからぬ観念から脱した時に初めて、人は読書の意味を理解するようになる。見て選ぶ、装幀やデザインを味わう、紙の手触りの感覚に喜び、書棚の背表紙を眺める……これらもすべて読書的行為なのである。

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十歳から半世紀にわたって週に一冊読み続けたら還暦で二千五百冊に到達する。堂々たる読書家と言えるだろう。ところが、日本人の平均読書冊数は年に十五、六冊。このペースだと生涯千冊に満たない。たった千冊しか読まないのに、「そんな本」に時間を割いている場合ではない。


旅も外出もままならない今、ウィズブックス――本との縁――による希望、快癒、愉快、幸福の修復を祈りましょう。
二〇一八年六月に図書室〈スピンオフ〉を開設。試運転を終え、二〇二〇年四月から本格的に本と読書のイベントに取り組む予定でした。疫病流行により計画の中断を余儀なくされましたが、読書会や勉強会で再びお会いできるのを切に願っています。

2021年の年賀状用に書き下ろした原稿を転載しました〉

十麺十日

十人十色や十全十美のような「十□十〇」という四字熟語は、その気になればいくらでも発明できる。「十麺十日じゅうめんとおか」も創作例の一つで、「毎日違った種類の麺を飽きることなく食べる」というほどの意味を込めている。

麺はどこの国にもあり種類も豊富だ。ぼくの職住生活圏では和/洋/中/エスニック/創作のどの料理店でもたいてい麺をメニューに載せている。うどん、そば、ラーメン、焼きそば、パスタ、マカロニグラタン、ビーフン、皿うどん……欲する麺料理は何でも揃う。

平日は仕事場の近くでランチを済ませる。毎日のことなので何を食べるか悩ましい。迷ったらとりあえず麺である。この一週間も上海焼きそば、肉うどん、パスタ、胡麻担々麺などのラインアップ。店もだいたい決まっている。その一つが、秋口から通い始めた自宅とオフィスの中間点にできた中華料理店。この店にはこの街オンリーワンの麺料理がある。

中国陝西省せんせいしょう生まれの幅広い麺を使った一品。もやしとチンゲン菜といっしょに唐辛子とラー油と酢でスパイシーに炒めた焼きそばだ。見た目はホウトウに似ているが手打ちならではの歯ごたえがある。注文時に「かなり辛いですよ」と中国人オーナーに念押しされ、食べ終わると「大丈夫?」と尋ねられる。

辛いが、急いで飲み込んで誤嚥しないかぎり咳き込むことはない。金八百円也。ミニチャーハンとセットにすればちょうど千円。この店ではユーポー麺と呼んでいる。一般的な呼び名は「ビャンビャン麺」らしい。ジャージャー麵ならぬビャンビャン麺。ジャージャー麺は漢字で「炸醬麺」と表わす。では、ビャンビャン麺は? 気になって調べてみて仰天した。

これ一文字で「ビャン」。だから二文字並べて「ビャンビャン」。ワープロソフトにこの文字が搭載されているはずもなく、画像を拝借してコピーした。オンリーワン料理にふさわしいオンリーワンの漢字である。昨夜文字を凝視して頭にインプットしたが、朝にはすっかり忘れてしまっていた。

十二月一日の独言

季節はある日突然大きく変わるものではないから、十二月一日を晩秋とするか初冬とするかは決めがたい。外に出れば初冬、室内にいると秋の日和。

さて、今日34歳の誕生日を迎えた。この日を迎えたのは、人は人でも法人、つまり創業した会社である。昨年が33歳だったので必然そうなる。

仕事は創業以来一貫して変わらない。一方で企画をしたり文章を書いたり情報を編集したり、他方、出掛けて行って講演したり研修したり。主に言葉を素材とする小さな仕事ばかりだが、テーマやジャンルが広いので、いろんな仕事をさせてもらって何とか今日に至る。少しは技も磨け芸も身についたせいか、ありがたいことに今も出番がある。

仕事というものは仕事そのものを頑張ってもうまくいくものではない。いや、仕事しながらも仕事にべったりしないのがいいと思っている。たとえば、仕事のことばかり考えない。またたとえば、仕事に関する本は原則として読まない。そんな時間があれば仕事と直接関係のない本を読む。そのほうが長い目でじわじわ効いてくる。

今日から読み始めた古今亭志ん生の『志ん生芸談』などもそんな一冊。夏場には桂米朝の上方色の強い『一芸一談』を読んだ。「技芸への目配りなくしてわが仕事深まらず」の思いでこの筋の本もよく読む。書かれていることはさておき、話のリズムがためになる。

凡庸な安定や秩序が続くと仕事は上達しない。時に混沌とし、喜怒哀楽の様々な場面を巡り、紆余曲折を経てこそ力がつき、やりがいも感じる。と言うわけで、多方面の方々からの長きにわたる支えに感謝して、今日から懲りずにまた次へ。

次? その次があまりよく見えていないのだが、それは毎年、毎度のこと。