単一問題と問題群

何事も考えず、どんなことにも気づかなければ、問題などは生起しない。幸か不幸か、あいにくぼくは問題に知らん顔できる神経を持ち合わせていない。職業的な性かもしれないが、いつも問題を抱えながら、あるいは問題を突き付けられながら生きてきた。問題を問題としない、あるいは問題を見ないことにする人生もあれば、他方、別にそこまで問題にしなくてもいいことまでを『問題群』(中村雄二郎)として徹底的に考察する人生もある。

問題がたった一つであるのと、問題がおびただしく集合して群を成すのとでは天と地ほどの差がある。問題の数の単なる足し算が問題群になるわけではない。問題群を見てしまったら最後、解決に向けて集中と統合というエネルギーを費やすことを運命づけられる。これが現実だ。そう、生きている世界は問題群世界なのである。ところが、問題群の渦中にあるにもかかわらず、「問題などないさ」と言ってはばからないP君がおり、たった一つの問題しか見えないQ君がおり、一見平穏無事の状況の中からでさえ現象を抽出しエキセントリックに問題に仕上げてしまうR君がいる。

落葉群

ふと以上のようなことを考えたきっかけは、一枚の落葉をしげしげと眺めた後に、落葉群に巡り合った時だった。ぼくは落葉を問題に見立てて上記のようなことを考えたのである。落葉と問題、落葉群と問題群を類比してしまうのは、ぼくの内にR君があるからだろうと思う。一枚の落葉を見るのとおびただしい落葉の集まりを見るのとでは、落葉の印象が激変する。同様に、単一の問題に気づくのと問題群に気づくのとでは雲泥の差がある。思考にコペルニクス的転回が起こるのだ。


「左右」ということばがある。「左」について思いを巡らす時には「右」が前提され、「右」について意識する時には「左」が前提される。では、古代人がある日、ある概念に基づいてそれを「左」と命名した……しばらくして、別の概念を思い浮かべてそれを「右」と呼んだ……そうして共同体で「左右」という概念と名称が完成した……などということがありえただろうか。左と右は二項対立的関係にある。左と右は対立しながらも、左は右に、右は左にもたれかかっている。別々の日に生まれたなどとは思えない。同時に生まれなければならない。

左右という二つの概念のセットに限った話ではない。すべての基礎概念は、少なくとも個々の共同体が育んできたカテゴリー内にあって、複雑に絡み合って類似と差異のネットワークを形成しているのである。概念とことばがそうであるように、一見異なって見える問題もこんなふうに影響し合い関わり合っている。ある一つの問題は他の大小様々な問題から孤立して発生したり露出したりしているわけではない。

ちょうど一本の木から一枚ずつ葉が剥がれて地上で落葉群になるように、同一カテゴリーの問題は同じ根から派生した枝から落ちてくる。問題を単独にとらえ、その問題の原因だけを明らかにしていくというのは、机上の便宜上の方便に過ぎない。楽そうだからそうしているだけの話で、結局は解き切れないのである。単一問題だけを炙り出しているかぎり、一過性の対処療法の愚を繰り返すばかりだ。すべての問題は問題群の中で発生している。だからこそ、問題群としてとらえてはじめて根腐れが見つかるのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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