ふだん気にとめないでやり過ごしていることが異様にクローズアップされることがある。寒風の中を心斎橋までぶらりと歩き、昼前に入ったうどん店でそんな体験をする。カレーうどんを食べながら、「カレーうどんは実にうまく名が体を表わしている」と思う。
対象に見合ったネーミングをしていれば、必然「名は体を表わす」はずである。うどんに肉を入れる食べ物を「肉うどん」と名づけたのだから、肉うどんという品書きの名称は商品を的確に表わしているのは当たり前だ。だから、肉うどんを注文したにもかかわらず、肉のないかけうどんが出てきたら誰だって憤慨する。
関東からの旅行客と思しき二人がその麺類一式の店に入ってきた。品書きの中に「ハイカラうどん」を見つけたようだが、その名から体を想像するのは容易ではない。「ハイカラうどん」とは「揚げ玉(天かす)がトッピングされたかけうどん」だ。関東風に言えば「たぬき」。自ら使ったことはほとんどないが、聞いたり読んだりして、ハイカラが「丈のある襟」を意味する“high collar”から転じたことを、また、洋風でお洒落でモダンな意味で使われることを知っている。「ハイカラうどん」はネーミングとして斬新だったろうが、決して体を表わしてはいない。
昔はこのような麺類一式の店でよく食事をしたものだし、町内の店から出前を頼んだものだ。そこでは、うどんやそば以外に丼物もメニューにしている。玉丼、カツ丼、親子丼、他人丼、牛丼、天丼などだ。昔を少し懐かしみながら品書きをじっと見ていた。親子丼はよくできた擬人化ネーミングだが、名が体を表わしてはいるとは思えない。鶏肉と鶏卵は親子の関係なのだろうか。親鳥の子はひな鳥と言うのではないか。卵は子なのか。では、実物に忠実な名称にするにはどうすればいいのか――これが結構むずかしいのだ。「鶏たま丼」なら正確だが、「鶏卵丼」と間違えられる。
しかし、親子丼はまだいい。この親子丼の鶏肉を牛肉または豚肉に置き換えた「他人丼」はどうだ。ぼくの生活圏で他人丼と言えば、牛肉と鶏卵の組み合わせであり、それに親子丼の具にもなっている玉ネギや三つ葉が入っている。親子丼からの連想で生まれたと思われる他人丼という擬人化は不気味である。幼少の頃、おとなたちが他人丼を注文するたびに異様な語感が響いていた。その語感がまたぞろぶり返す。
他人丼の写実的表現は「牛肉卵とじ丼」なのだろうが、呉越同舟、つまり「牛卵同丼」ではないだろう。牛肉と鶏卵は他人行儀の状態で丼に収まってなどいない。仲が悪くないのだから「他人」などという水臭いネーミングなどせずに、「養子丼」でもよかったのではないか。
休日の昼下がり、こんなふうにバカらしい連想をしていた。しかし、気づいたこともある。麺類・丼物一式の品書き表現はいくつかに分類できるのだ。たとえば、(1) ずばり主役となる素材を訴求するもの(昆布うどん、天ぷらうどん、にしんそば、牛丼など)、(2) 素材の状態を訴求するもの(月見うどん、卵とじうどん、味噌煮込みうどんなど)、(3) 素材どうしの関係性を訴求するもの(親子丼、他人丼など)という具合に。この他にも、スタミナうどん(目的訴求)、鍋焼きうどん(容器訴求)もある。
ハイカラうどんは上記分類のどこにも収まらない。何十年も前のこのネーミング、注意を喚起し目新しさを訴求するという点で画期的だったのかもしれない。