風景に出合う

造形的な都市から郊外へ足を延ばせば風景に出合う。時には見晴らしのよい展望、時には空へ突き抜けるような構図。観賞する者それぞれの眺望のしかたによって多様な縁取りが生まれる。風景は自然界で芽生えるものであり、風景には自然の調和を感じさせるというニュアンスがまつわりついている。

言うまでもなく、風景は郊外に固有のものではない。行動範囲を日常次元に狭めても、風景の一つや二つは目に入るものだ。それが証拠に「街角の風景」と言うではないか。たとえばそれは、昭和初期に西洋を真似て建てられたビルの一画かもしれないし、新緑と色とりどりの花が協奏する公園かもしれない。さほど努力しなくても、どこにいても風景は視界に入ってくるだろう。そう、自然の要素に乏しい土地にあってもぼくたちは風景を感じるものだ。

『風景の誕生――イタリアの美しき里』(ピエーロ・カンポレージ著)によれば、14世紀から16世紀のイタリアでは人々は野生の自然にほとんど無関心であった。それどころか、嫌悪の念さえ抱いていた。彼らは自然に満ち溢れた風景という概念を持ち合わせていなかったのである。眺める以外に役に立ちそうもない自然の景色などに魅力を覚えなかった。鉱物や作物を産出してくれ、自分たちの暮らしを支えてくれる「有用で力強い土地」こそが美しかったのである。


この歴史考察が正しいなら、自然は人の存在とは無関係に存在するが、風景というものは人の認識次第ということになる。「対象に認識が従うのではなく、認識に対象が従う」というカントの慧眼がここに生きているような気がする。とは言え、やがて当時の人たちは自然を包括して目を楽しませてくれる風景に気づくようになった。いや、風景が概念であるならば、それは発見ではなく、発明と呼ぶべきかもしれない。ともあれ、人は風景に出合った。ある意味で、有用性から安らぎへ、さらには芸術への転回が起こったのだ。神を題材にして宗教画が生まれ、王侯貴族を題材にして人物画が生まれたように、風景を強く意識して風景画が生まれた。風景画は人が風景に出合って生まれた新しいジャンルの絵画だった。

自然から切り離されて生活するようになっても、風景画は連綿と受け継がれてきた。つまり、現代の都市にあっても人々は脱自然的な風景に日々出合う。かつて中世イタリア人が発想すらしえなかった風景を、ぼくたちは必死になって街の隅々に探そうとしている。探せなければ、観賞者それぞれの見立てによって思いの場所に風景を仮構する。絵心がなければ、カメラを向ける。カメラが手元になければ心ゆくまで佇む。

パリの夕景 4パターン

目を凝らせば、ぼくの住む雑踏でも風景に出合える。しかしながら、街角風景の宝庫と言えば、パリを挙げなければいけない。そこでは都市空間に身を置きながら風景に包まれる至福の時間が過ぎていく。その風景は写生や写真の題材にふさわしい。パリならではのカフェは、あぶり出された風景を心ゆくまで愛でるための文化的な装置なのに違いない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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