哲学のすすめⅠ

「デカンショ」と言えば、デカルト、カント、ショーペンハウエル。哲学青年の間で合言葉になり歌になった時代がある。近代哲学の人気御三家というところか。ギリシア哲学の古典的草分け御三家となると、「ソプラアリ」で異論はあるまい。ソクラテス、プラトン、アリストテレスは「同門の直系三代」である。ソクラテスの本は一冊も読んでいない。読んでいないのはぼくだけではない。誰も読んでいない。なぜなら著作がないからである。ソクラテスの思想についてはプラトンの一連の著作によって知りうるばかりだ。

アリストテレス『哲学のすすめ』

さて、「哲学のすすめ」というタイトルにしたのはぼくの動機ではない。アリストテレスの『哲学のすすめ』について紹介する機会があったので、そのまま流用した次第。どんな哲学の本を読めばいいかと知人に尋ねられ、ぼくが答えていいものかどうかも考慮せず、入門の一冊として紹介したのがこの本だった。二年前に書評会で取り上げた、比較的とっつきやすい一冊のつもりである。但し、買うには及ばないと思い、「ぼくがまとめた文章があるから、これを読んでみたら」と告げて書評を差し出した。

小説を耽読していた反動だと思うが、三十数年前から哲学を読むようになり今もその遍歴が続いている。書かれていることを覚えることにさほど関心はない。では、何のために読むかと言えば、考えるヒントにするためである。あくまでも個人的な読書習慣であって、他人様に哲学書を勧めることはほとんどしない。デカンショのカントが「人は哲学を学ぶことはできず、哲学することを学びうるのみである」と唱えた通り、哲学すること、つまり、知を尊んで考えることに意味を見い出す。アンチエイジングの一手段かもしれない。『哲学のすすめ』の書評をもとに3回に分けて書いてみることにした。


アリストテレスの著作はやさしくない。哲学の専門家に向けられた論文や講義草稿の大半は形而上学的な理屈で書かれ、時には閉口し本を閉じてしまいたくなることさえある。一般向けに著された書物はほとんどなく、この一冊が唯一の例外と言ってよい。本書は、前4世紀頃に書かれた断片メモを掻き集めて後年編纂されたもので、原題は『プロトレプティコス』。まるで恐竜の名前のようで、うっかりすると舌を噛みかねない。ギリシア語で「勧告」という意味らしいが、さしずめ「やさしい哲学(知恵への愛)入門」というところだ。

われわれの対話の相手は人間であって、その神的な生の分け前を意のままにできるような方々ではない。だから、この種のすすめの言葉には政治的実践的な生への忠告を混ぜ合せなければならない。

これが第一章の冒頭である。凡人相手に哲学を語るときは、政治や有益な生の過ごし方をからめるべきだと言う。政治をからめたら余計に難しくなるのではないかと危惧するが、現代と違って、この時代のギリシアでは政治が(そして対話が)生活に身近な存在だったのである。では、どんな知識が存在し、どの知識が特に重要だとアリストテレスは説いたのか。

① 生活に便利な知識  vs  その知識を活用する知識
② 奉仕する知識  vs  命令する知識

このように対比した上で、①と②のいずれも下線部のほうに軍配を上げている。①では何が語られているか。生活に便利な知識を、たとえば「料理に関する知識」としてみよう。これは蓄えた知識である。この蓄えた知識を「実際においしい料理に仕上げる知識」こそが重要なのである。後者の知識はもはや「知っている」ではなく、「実践できる」という意味に限りなく近い。②はどうか。提供するだけに止まらない知識、つまり、人に指示し人を動かす知識の優位性である。「主体的で統率的な力を持つ知識」と言ってもいいかもしれない。

アリストテレスによれば、このような実践性にすぐれた知識の内においてのみ真の意味での「善」が存在する。善はアリストテレス哲学の重要なキーワードである。人は理性を発揮して正しく判断しなければならない……そして一切の感情を捨てて冷静に善について思索しなければならない……これを一言化したのが《フロネーシス》なのだろう。理知または賢慮と訳されるこの概念は、幸福と並んで、最高の善と見なされた。アリストテレスにおいては、フロネーシスこそが優れた人物の証だったのである。 

《続く》

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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