ことばのメンテナンス

平成7年から国語に関する世論調査を文化庁が毎年実施している。二十年分まとめて眺めてみてつくづく思う。日本人は日本語を意外に知らない……それでも、まずまず意思疎通し合えているではないか……語用や意味は長い歳月を経て変化すると思っているが、情報化社会ではメディアを通じて変化は加速する……。日本全体の母語認識を憂う前に、ことばの知識と使い方を定期的に自己診断する必要があるかもしれない。「整語」というメンテナンスだ。

平成18年に誤解・誤用が顕著だと指摘されたのが「流れに棹さす」だった。全年齢層にわたって多数が棹さすを「逆らう」や「止める」の意に解している(「時流に逆らう」「調子を止める」など)。実際に川の流れに棹さした経験があれば分かるが、棹はすっと流されていく。棹どころか身さえ流されていく。棹一本ごときで流れが止められるはずがない。したがって、「大勢のままに動かされていく」というのが正しい意味になる。意志が働かないさまにも使える。夏目漱石の『草枕』の冒頭、「智に働けばかどが立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ」の傍線部は、「情にほだされると自分の意志を失う」ということだ。

大勢が逆の意味に解釈しているのに、その慣用句を使っていいものか。使っても誤解されるのならその慣用句を避けるべきではないか。いっそのこと誤用を承知の上で使ってみるか。いやいや、誰かに誤用だと指摘されればそれこそ情けない。言うまでもないが、正しい意味と使い方を知っているなら、心得ている通りに使うべきである。ぽつんと「流れに棹さす」と言うだけでは不親切と思うのなら、直後に「つまり」や「たとえば」でつないで言い換えたり補足したりすればいい。


自分が無知側に振り分けられることも少なからずある。四十にして誤っていて、五十にしてやっと正しく知った慣用句や語句をまめにノートに記録してきた。様々な表現に出合って「へぇ、そんな意味だったのか……」と思ったらその場ですぐに辞書に当たる。中年以降の国語力アップにはそんなまめな経験量が欠かせない。たとえば、「灯台もと暗し」の意味を知ったのは平成2年に読んだ一冊の本に遡る。灯台を港の海際に建つ灯台だと思っていた。しかし、いわゆる西洋灯台が導入される前からこの表現は常用だったのである。この灯台は、ろうそくを立てる燭台などの「灯明台とうみょうだい」のことだ。部屋ゆえの明暗が象徴されているから風流である。

『徒然草』は十代から何度も読んでいるが、第十九段中のあることばの本来の意味に気づいたのは十数年前のことだ。

をりふしの移りかはるこそ、ものごとにあはれなれ。もののあはれは秋こそまされと人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今ひときは心を浮きたつものは、春のけしきにこそあめれ。鳥の声などもことのほかに春めきて、のどやかなる日影に、かきねの草もえいづるころより、やや春ふかくかすみわたりて、花もやうやうけしきだつほどこそあれ、をりしも雨風うちつづきて、心あわたたしく散り過ぎぬ。

日影と日陰

「のどやかなる」とあるから勝手に日影を「日陰」と読んでしまっている。兼好の時代の古い用法ではない。日影の意味は今も同じで、「日の光、陽光、日なた」である。「のどやかなる日影」とは「うららかな(明るい)陽射し」のことなのだ。対して日陰は「ものの陰になっていて日が射さない場所」である。同じく「ひかげ」と発音するが、漢字は使い分けられる。この写真の光景のように、日影と日陰は一つの空間にたいてい同時に現れる。

「始末」という表現は、実に始末に負えない。「立派な人間は始末に困る」という文に出合ったら、ふつうは辻褄が合わぬと思うだろう。『南洲先生遺訓』によく似たくだりがある。

命もいらず名もいらず官位も金もいらぬ人は仕末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。されども今様の人の凡俗の眼には見得られぬぞ。

傍線部の仕末は「始末」に同じである。「始末に困る」とは始末に負えないという意味ではない。「(金、地位、名誉などに見向きもせず)志を貫けること」である。つまり、始末に困る人とは立派な人間のことを指す。こんな上等な表現は使ったことがないので誤用経験もないが、まったく逆に解するところだった。ちなみに、始末に困る人の対義語は「始末のつく人」である。表現と意味を何度か反芻して理解できるようになった。しかし、生兵法は大怪我のもと、自ら使うのはやめておこう。うまく使えても意味が通じそうな気はしない。ところで、この始末については古本市で買った里見弴の『文章の話』という本で知った。恥ずかしながら、今年の夏のことである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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